傷心(三)
一晩中、私たちは呪文を唱え、祈った。叔父から聞いたこの紅玉にまつわる話を聞いた限り、この呪法は家族に悲しいことが起こった時や、なにかしら問題が起きた時に行われてきた。そう考えると、帝が私たちに疑いの目を向けているのは、一大事だ。大伯母様が言っていたように、今回の件は紅玉領には何の関係もなく、瑠璃領の者によるものだと、そう納得してもらえれば、そちらに疑いの目が向けばいい。そうすれば、私はこのまま東宮様の妃候補として、なんの心配もなく妃選びに挑める。母や梓が中宮様のせいで大変な目に遭わされたことを考えると怖くもあるが、そもそも、妃選びに挑むことすらできなくなってしまう方が怖いと思った。それに、事の発端は中宮様が母を陥れたことにある。悪いのは、母じゃない。中宮様だ。
神様、どうか、どうか、お願いします。悪いのは、母ではりません。
神様、どうか、どうか、お願いします。希彦が二度と紅玉領に戻ってこないようにしてください。
神様、神様、どうか、どうかお願いします。
そうして、その願いが通じたのか、不思議なことにその日の夜が明ける少し前ことだった。
「……今、光らなかった?」
一瞬だったが、祭壇の紅玉が光ったような気がした。本当に、わずかだけれど、赤く————
「わたしも、光ったように見えました」
「わ、わたくしも……」
三人で紅玉を確認する。紅玉の形が、変わっていた。切り出され欠けていた一部が、修復されている。
「紅玉は力を使いきると、切り出して使った部分が元の形に戻る————のでしたよね、母上」
「え、ええ、そうよ」
母は、この紅玉の力を何度も試したそうだ。距離や時間、力の発生状況など、検証し続けて、一族の誰もやってこなかった研究をしてきた。そんなは母が言うなら、私の願いは通じたんだ。きっと、希彦は、もう紅玉領へ戻ってこない。呪詛の犯人が、母であることを誰かに知られることは、ない。これでいい。
そして、すべて私の思い通りになった。あれから、一年半年経つが、希彦どころか、帝の使いで呪詛の件を調べに来る者は、誰一人として現れなかった。父に何か聞いているか尋ねても、何も知らないらしく、希彦でなくても他の官吏たちからも一切、呪詛の話をされることはなかったらしい。証拠となる人形は燃やしてしまったし、母が密かに入れ替えた紅玉も、隙を見て梓が元に戻した。祭壇も梓が処理をしたらしい。母は仮病だったのだが、全ての処理が終わった後、本当に病に罹ってしまったようで、あっけなくこの世を去った。父は何も知らないまま、母の最後を看取り、すぐに新しい縁談の話が舞い込んで来ていたが、喪中にそんな話をする伯母と大喧嘩。本当に、父は母を愛していたのだなと改めて思った。母がついた嘘にも一生気がつかないまま、この先も生きていくのだろう。
母の葬儀の後、梓は一切の口をつぐんだまま、大伯母様がいる屋敷へ戻り、今は身寄りのない子供達の世話をしているらしい。
「叔父様、ご挨拶に参りました」
「おお、撫子。よく来たな」
ついに妃選びが始まる年の桜が満開に咲いていた春、私は母の生家を訪ねた。紅玉領では、嫁ぐ前に親族や世話になった人たちの屋敷に挨拶に行くのが慣例となっていたからだ。正直、あの紅玉のことは思い出したくもなかったが、何も知らない叔父はまた私をあの紅玉の祭壇がある部屋へ案内する。
「あんなことがなければ、妃選びにはあの紅玉を切り出して渡してやるのが我が家の習わしではあるのだが……」
軽く世間話をした後、話の流れで紅玉の話になった。
「呪文を教えるのは禁じられているのでしょう? でしたら、持っていっても意味がありませんよ」
「そうだな。だが、あの紅玉に不思議な力があるのは、やはり事実のようなんだ」
「え……?」
叔父は紅玉の裏側を私に見せた。
「綺麗に戻っているだろう?」
切り出された跡が残っていたはずの紅玉は、とても綺麗な形をしていた。凹んでいるところもなく、何か人の手が加えられたかのような形跡がまるでない。綺麗な紅玉になっていた。
「今朝、このことに気がついた。年末に掃除をした時、いつの間にか欠けているのは一箇所だけになっていて、おそらく我々の知らない遠い親戚の誰かが持っていたものを使ったのだろうと思ったのだが……」
それは母が偽物と入れ替えていたからだとは言えず、私は何も知らないふりをした。紅玉のことなんて、何にも知らないふりを。
「そうなると一つおかしなことがあってな」
「……なんです?」
「姉上が先の妃選びで使った人形から取り出した目は、ここに残っているんだ」
「え……?」
「力を使い切ったら、いつの間にか紅玉は元に戻る。この本体の方に。だが、これでは姉上が使ったこの紅玉が戻る場所がない」
真相はわからないが、母は紅玉を入れ替えた時、目に使ったものも偽物と入れ替えたのかもしれない。母や梓から聞いている話では、紅玉は三年ほど前に入れ替える前から欠けていた部分は綺麗に元どおりになっていたらしい。その後も紅玉の力を試すために、色々な部分を切り取り、呪詛に使った。私はてっきり、妃選びの際に作った人形の目に使っていた部分もすべて入れ替えていたのかと思ったが……すっかり失念していたのだろうか?
母が死んだ今、もうその理由を聞くことはできない。
「確かにそうですね。不思議ですねぇ」
私は必死に笑顔を貼り付けて、やり過ごした。
* * *
桜の花が散り始めた頃、東宮の妃選びのため、私は女房を二人連れて、宮中へ入った。翡翠領の妃候補が一人、行方不明になった————という騒動があり、少し日程が伸びてしまったけれど、その間、茜の代わりに私の女房となった
そう思っていたのに————
「————まったく、紅玉領の女は本当に恐ろしいな」
安心したのも束の間だった。初めて東宮様と対面するため、待つようにいわれた部屋で待っていると、御簾の向こうから聞こえた男の声に、私は震える。
「撫子殿」
恐る恐る顔を上げると、御簾を捲り上げ、こちらを見下ろしている希彦が、猫のようの目を細めて笑っていた。
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