帰還(二)
東宮さまは側室を持たない。
つまり、正室に選ばれなかれば、わたしが皇子を産むというお父様の夢は叶わない。
けれど、帝さまなら?
帝さまにはたくさんの側室がいるわ。
そこにわたしが一人加わればいいだけよ。
帝さまはとても素敵。
わたし一人だけを見て欲しいだなんて、そんなのはもったいのない話よ。
良いものはみなで分け合わなければならないでしょう?
独り占めなんてしたら、きっと
帝さまと同じ顔の、美しい皇子を産めばいいのよ。
帝さまはわたしの美しさを褒めてくださったわ。
中宮さまよりも、女御さまよりも、更衣さまよりも、どこの女よりわたしが一番綺麗で、一番愛おしと仰せになられたの。
だからね、わたし、帝さまとの間に皇子を産むことにしたの。
わたしが生んだ皇子を、次の東宮にしてもらえばいいだけよ。
そうすれば、お父様の願いだって叶うし、一石二鳥でしょう?
このことを、葵に相談しようとしたわ。
葵がお屋敷に戻って来たら、他の誰にも教えていない、この秘密をあなただけに話すつもりでいたの。
葵はわたしの味方たで、決して裏切ったりしないでしょう?
葵はわたしなんかよりずっと賢いし、きっと良い方法を考えてくれると思っていた。
それなのに、葵ったら戻って来てからずっとなんだか忙しそうで、あまり二人きりでお話をする機会がなかったでしょう?
東宮さまの妃選びを辞退したいと、どうやってお父様に話せばいいか、相談したかったの。
でも、時間がなかった。
山寺にこもって、東宮のお妃さまに選ばれるように願掛けをするとうにと楓に言われていたけどね、わたし、東宮さまのお妃さまになんてなりたくなかった。
だから、願ったの。
帝さまに会いたい。
東宮さまの妃になんてなりたくない。
帝さまがいい。
わたしは、帝さまと一緒にいたいって。
* * *
「そうしたら、いつの間にかわたしはここにいたの。こうして帝さまにお会いできて、とてもとても嬉しかったけれど、外に出ることができなくて……ここは一体どこなのかしら?」
桜子はそう言って、いつものように微笑んでいた。
誰よりも美しいと思っていた、大切な姫が、その瞬間、葵にはとても気持ちの悪いものに見える。
「……つまり、そちらの方は」
「え? だから、帝さまよ」
こんなに美しい人が、他にいるはずがないでしょう?と、桜子は小首を傾げながら言った。
桜子が帝だというその男は、何も言わない。ただ、桜子の隣で、桜子にべったりくっついて離れないで、こちらもこちらで、同じように笑みを浮かべていた。
「帝さまのことを思いながら、経を唱えたら、本当に会うことができたのよ」
————何これ、気持ち悪い。
桜子を皇后に、この国の母に。
その隣に、自分が立つ。
それこそが、葵にとっての幸せであると言われていた。
自分でも、そう思っていた。
身分の低い葵には、今更、左頬の痘痕がいつまでも消えずに残っているこの顔でどこぞの上級貴族の妾にはなれない。
だからこそ、皇后付きの女房になる。それが、葵にとっての幸せだと……
それを、桜子は皇子を産めば良いだけだと言った。
皇后になんてなれなくて良い。
帝と同じ美しい皇子の母になれれば、それで良いのだと。
「まって、まって、まってください、姫さま」
葵には、到底受け入れられないことだった。
「帝の……主上の皇子をお産みになりたいということは、今の皇后————中宮さまを引き摺り下ろして、その座につくつもりですか?」
「……え? 何言ってるの? そんなことになんの意味があるの? わたしは、誰より美しい皇子を産んで差し上げたい。ただ、それだけよ。中宮さまを引き摺り下ろすだなんて、なんて恐ろしいことを言うの?」
桜子はひどく傷ついたような表情をして、瞳に涙を浮かべる。それを慰めるように、帝は桜子を抱きしめた。
「帝さま……」
熱のこもった声でそう言うと、桜子は男の胸に埋める。
————恐ろしいのは、どっちよ!
よく見れば、桜子が帝と呼んでいる男の妙な違和感に葵は気づく。背中から、奇妙なものが生えていた。猫の尻尾のような、長い毛むくじゃらのものが何本も生えていた。桜子にはそれが見えていないようで、尻尾はうねりながら、桜子の体を弄るように這う。
これは、人じゃない。
希彦が言っていた、物の怪だ。帝どころか、人間でもない。
桜子は騙されている。物の怪に騙されているのだと悟る。
「葵、わたしはただ、ここから出たいの。帝さまと一緒にいられるのはとても嬉しいことだけど、ここは美しくないんだもの。真っ暗で、誰もいなくて、お屋敷のように美しい花が咲いた庭も、池も何もないわ。早くここから出してちょうだい」
怖い怖いと言いながら、葵に助けを求め、物の怪を抱きしめている。まるで、この世の不幸をいっぺんに背負ってしまったかのような顔をして……
人ではない、気持ちの悪い何かに騙されているのは明らかなのに、そのことに全く気がついていない。それどころか、悲劇に見舞われている自分に酔いしれているような、芝居じみているようにも思えて、葵は吐きそうになる。
「帝さまと、約束したの。わたしが内裏へ行ったら、美しいものをたくさん見せてくださるって。春になると、桜と一緒に眺める月がとても綺麗なんですって。きっと、そんな美しい月明かりの下で、わたしが子を孕めば、美しい皇子が生まれてくるだろうって」
あまりの気持ち悪さに、葵は顔を引きつらせてしまう。
いったい、何を言っているのかわからなかった。
こんなもののために、そんな気持ちの悪いことを言う男にあてがうために、桜子に仕えてきたわけじゃない。
桜子を皇后に、この国の母に、自分はその隣で、一生支えていく。
それが、下級貴族の娘として生まれ、父を失い、母とも引き離され、翡翠領の当主に拾われた女童の生きる道だった。
桜子が起きるまで、朝は誰よりも早く起きて剣の稽古をして、桜子が眠った夜は、遅くまで勉強をして————難しい言葉も、何に使うかよくわからない算術も、この国の歴史や伝統、内裏での決まりごとを叩き込まれた。
もうすぐ、こんな辛い日々は終わる。
桜子さえ、妃選びさえ無事に終われば、それだけでよかったはずなのに、それすら叶わないなら、一体、なんのためにこれまで生きてきたのか。
————こんなことなら、私が当主家の二の姫として生まれるべきだった。こんなバカじゃなくて、私に、その高貴な血筋と、美しい体があれば。あの、すべすべとした綺麗な手があれば……!!
怒りでどうにかなってしまいそうだった。
こんなもののために、こんな馬鹿な女のために、どうして、こんな思いをしなければならないのかと、ぐっと拳を強く握った。
その瞬間、自分の手が何かを掴んでいたことに気がつく。
翡翠の簪だ。
先端が鋭く尖った魔除けの簪だ。
二つに折れて、壊れていたはずの簪が、元の通りに戻っている。
「ねぇ、葵。お願いよ。早くわたしたちをここから出して。葵はなんでも知っているもの。ここから出る方法も、知っているんでしょう?」
「…………知るか、そんなもの!!」
葵は桜子に近づくと、桜子の脳天にその鋭く尖った先端ををおもいきり刺した。
「この頭が悪い!! 物の怪なんかに騙されて!! この頭が悪い!! この出来損ないめ!! 馬鹿女!!」
お前なんてどうなったって、知るか。
もう知らない。
知らない。知らない。知らない。知らない。
どうでもいい。
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