帰還(三)
「————おーい、大丈夫か? 生きてるか?」
気がつくと、目の前に猫のような目をした男の顔があった。だがそれは、先ほどの帝のように化けていた物の怪のものではない。腹がたつほど綺麗な顔をした、希彦の顔だった。
「え……?」
何もかも消えて、ただの真っ暗な空間に菩薩像と自分、桜子と物の怪だけがいたあの空間ではなくなっている。
壁も床も天井も、観音菩薩像の周りにあった黄金の飾り物も、何もかも全部ある。壊れた障子扉の向こう側には、狗丸らしき人影もあった。
夢でも見ていたのかと思ったが、手には桜子の脳天に突き刺した簪の感触が残っている。
状況が全くわからない。
どれくらいの時間が経ったのかもわからないが、他領へ桜子を探しに行っているはずの希彦が目の前にいるのが一番理解できなかった。
「どうして、あなたがここにいるのですか? 姫さまを探しに行っているはすでは……?」
「ああ、そうだよ。見つかっただろう?」
「は? 何を言っているのですか?」
「だから、見つかったと言っている。いるじゃないか、今ここに」
そう言って、希彦は葵が握っていた数珠を奪うと、葵の手の甲を撫でた。意味がわからず、その動きを凝視していると、葵は気がつく。
「なんですか、これ……私の手じゃ————」
色が白くて、しわも傷も、何もない。
すべすべとした手だ。
今撫でられているこの手は、綺麗だと思った、あの女の手だ。
「狗丸、鏡を持ってこい」
「はい、希彦様」
希彦がそう言うと、狗丸は丸い大きな鏡を抱えて御堂の中に入ってきた。
「ほら、よく見てみろ」
希彦に促され、狗丸が抱えている鏡の鏡面を覗き込む。そこに映っていたのは————
「ひめさま……?」
ひどく驚いた表情の桜子の顔が、こちらを覗き返してきた。
* * *
「まったく、おかしなことがあるものですね」
宮中へ向かう牛車に揺られながら、楓はつぶやいた。
「姫さまがいなくなった時は、本当に肝を冷やしましたよ。これからどうなってしまうのか、姫さまが何者かに亡き者にされてやいないかと、ひやひやしました」
突然行方をくらますなんて、前代未聞ですよ、と語気を強める楓に、その前代未聞の姫は、穏やかに笑ってみせる。
「もう、こうして戻ってきたのだからいいじゃない」
「ですが……何も覚えていらっしゃらないだなんて、これでは犯人の追求も出来やしないではないですか」
他領の妃候補による妨害であれば、それを理由に強敵を排除できた可能性があったはずだと息巻く楓であったが、本人にその気がないのだ。
あの日、希彦に連れられ屋敷に戻ってきた桜子は、それまで自分がどこで何をしていたか、全く覚えていないし、思い出す気もないと言った。記憶がないだなんて心配されたが、一時延期となっていた妃選びの新たな日程が発表になり、それどころではなくなる。
急いで東宮殿へ行く用意が進められ、あっという間に桜が散り始めてしまっている。
桜色に染まっていた山々の色も、新緑に代わり、気候も一層、暖かくなっていた。
「それにしても、あの子は結局、戻って来ませんでしたね。一体、どこで何をしているのやら」
楓が心配していたのは、まるで桜子が戻ってきた代わりのようにいなくなった葵のことだ。希彦の話では、探しに出た際に足を滑らせ谷底に落ちて行方知れずとの事。
一応捜索されたが、死体は見つかっていない。
葵のことだから、きっとどこかで生きているだろうと楓は思っているが、捜索は打ち切りになっていた。桜子も、きっとどこかで生きているはずよと言うだけで、さほど心配はしていないようだった。
宮廷に着くまでの間、桜子は何度も何度も、自分の手を見つめ、手の甲を撫でている。
そんな癖は今までなかったので、不思議に思って楓が訊ねると、桜子はにこにこと嬉しそうに微笑みながら言うのだ。
「だって、すべすべしていて、綺麗でしょう?」
その瞬間、ほんの一瞬、楓は桜子の左頬に、痘痕が見えた気がした。
————そんなわけがない。うちの姫さまは、他のどの姫さまより、美しい。顔に痘痕なんて、あるわけがない。
自分の目がおかしいのだと、目を擦ってから、もう一度顔を見ると、やはり桜子の美しい顔に、痘痕なんて一つもない。
誰よりも美しく、綺麗な綺麗な、姫さまだと思った。
【翡翠の簪 了】
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