終章 帰還
帰還(一)
一瞬、希彦かと思ったが、よく見れば希彦ではなかった。あの頭のおかしい男より、落ち着いて見える。希彦に似て男にしては美しい顔をしているが、三十代といったところだ。
「よかった。葵なら、必ず助けに来てくれると思ったのよ」
「助ける?」
「ええ、わたしたち、ここから出られなくなってしまったの」
本当に意味がわからなかった。葵は一体何から聞いたらいいのかと思考を巡らせたが、構わず桜子は話を続ける。
「わたしはただ、このお方に会いたいと願っただけなの。それなのに、出られなくなってしまって。きっと葵なら、助けに来てくれると信じていたのよ」
「お待ちください、姫さま。初めから、分かるように説明していただけませんか?」
「だから、ここから出られないの。助けに来てくれたんでしょう?」
「いえ、ですから、そうではなくて……」
葵は、桜子の肩を抱き、寄り添っている男の方をじっと見つめる。ここは何処なのか、どういう状況かもなんてさっぱりわからないが、謎の男が誰なのかが、一番気になった。
皇后となるべく大切に育てられた箱入り娘の肩に触れている謎の男の手つきは、なんともいやらしい。希彦に似ているから嫌悪感がありそう思えたのかもしれない。だが、直衣をかなり着崩していても、冠は立派で、おそらくどこぞの貴族————それも、かなりの上級貴族だと葵は判断した。
「えーと、その、まず、このお方は誰なんですか?」
「わたしね、恋をしたの」
葵の質問を無視し、桜子は滔々と話し始めた。
* * *
あれは、去年の夏のことだったわ。わたしのお屋敷に、帝さまがいらしたの。お父様に呼ばれて、わたしもご挨拶させていただいたわ。そのとき、初めて帝さまのお顔を拝見して……
それがとてもとてもお美しくて————わたしが今まで見たどの殿方よりも、光り輝いて見えたのよ。あまりに美しくて、素敵で、その日の夜はずっと帝さまのお姿を思い浮かべてしまって……眠れなかったの。こんなことは初めてだったわ。
仕方がなくただ月を眺めていたの。
あんなに素敵な方が、わたしの舅となられるだなんて、なんだか不思議で……東宮さまも帝さまにお顔が似ているのかしらと想像したわ。
でもね、その時、楓が話していたことを思い出したの。
今の東宮さまは、上皇さまに似ているらしいって……わたし、上皇さまのお顔なら小さい頃に一度拝見したことがあったのを思い出したわ。上皇さまはなんというか、お祖父様に似ていたの。目がこう、筆で一本線を引いただけのように細くて、少しつり上がっていて……なんというか、まったく帝さまには似ていなかったように思えて、がっかりしたのよ。
東宮さまが帝さまのような、素敵な方であったら良かったのにと思ったわ。
大きなため息を吐いていたら、わたしの部屋にね、誰かが訪ねて来たの。こんな時間にどなたかと思ったら、会いたくて会いたくてたまらなかった、帝さまだったの。
帝さまも、わたしのことがずっと気になって、眠れなかったんですって。わたし、それがとても嬉しくて、嬉しくて、なんて光栄なことだろうと……
殿方と
学んだ通りにすると、帝さまは本当に嬉しそうに、悦んでくださって……わたしもとても嬉しかったわ。
でも、これと同じことを、東宮さまとするなんて、想像しただけで身の毛がよだったの。
本当に嫌だと思ったわ。
できることなら、帝さまとだけ、そういうことをしたかった。
その夜のことは、誰にも言えなくて、楓にも秘密にしていたわ。
結局、帝さまはおかえりになられる最後の夜までわたしのところへこっそりとお越しになってくださったけれど……わたしの気持ちなんて何にも知らないお父様は、いつものように言ったのよ。
「桜子、お前は本当に綺麗になったな。かならず東宮さまの正妻となり、いずれ皇后となり、東宮さまによく似た皇子を産みなさい。そして、帝の母となり、この国の母となりなさい」って。
子供の頃からすっと、お父様はわたしにこの国の母となりなさいと言い続けて来たわ。お父様は、わたしの体を通して、自分の血が次の次の帝に入ることを望んでいる。
帝さまが宮廷にお帰りになって、わたしはとても困ったわ。
帝さまに会いたくて、会いたくて、でも、わたしは東宮さまのお妃さまにならなくてはならなくて……
今まで、そういうものだと思っていたものが、全部、何もかも変わってしまった。
少しでも東宮さまのことを知ろうと、いろいろな方に訊ねてみたけれど、やっぱり、帝さまとは違うみたいだった。
お顔も性格も、上皇さまと瓜二つなんですって。しかも、側室をお持ちなることはおそらくないだろうと……
ということは、もし、東宮さまの妃選びでわたしが選ばれなかったら?
お父様の願いは、わたしを皇后とすること。この国の母とすること。
それが叶わないのではないかと不安になったわ。
他の候補となられている方たちの噂も少しですが聞くようになりましたし……
どうしようかと悩んでいた時、帝さまからわたし宛に文が届いたのです。
帝さまは、文字まで美しいのだと感動すらしていたのですが、読んでみればそれは恋文でした。
わたしのことを愛しいと思ってくださっている。
そこで、気づいたの。
お父様が望んでいるのは、わたしがこの国の母になること。
将来、帝となる皇子を産むこと。
それなら、相手は東宮さまでなくてもいいじゃない、って。
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