死後の世界

イグチユウ

死後の世界

 私が瞼を開くと、何輪もの花がすぐ目の前に咲いていた。


 視覚だけではなく、触覚でもそれらの存在が感じられる。私の体は、花々の上にあり、花びらや茎、葉までがすべて柔らかく、まるで自分の体も植物の一部になったかのような優しい感覚が私を包み込んでいる。


 私は果てしなく広がる花畑の中にいた。私はそこにうつぶせの状態で倒れていたのだ。


 その花たちの中には、花に全く興味が無い私でも名前を知っているようなものもあれば、知らない花もある。しかし不思議と、名前を知らずとも、存在を知らないものは一つとしてない。どの花も生きてきた中で、一度は目にした事のある花たちだ。


 私はよれよれの白いシャツに、使い古しのよれよれのジーパンを身につけている。そんな格好でこんな場所にいる私は、花々にとって異質な存在であり、客観的に見ればとても滑稽なことだろう。


 私は立ち上がり、辺りを見回してみたが、どこまでも花が咲き乱れているばかりで、他には何も見えない。私以外の人間どころか、動物や、昆虫などの生物の姿も無い。これだけの花畑であれば、蝶やてんとう虫がいそうなものなのに、だ。あたりは恐ろしいまでに静まり返っており、世界から音というものがばっさりと切り取られてしまったのではないかと思わされる。


「ここは、どこだ?」


 私はつい言葉を口に出していた。その声が静まりかえった世界に響いていく。それにより、先ほどの考えはやはり、ただの自分の不安定な心が生み出した勘違いなのだと理解させられた。


 しかし、自分一人しかいないというのに言葉を発したのは、どうにかして冷静さを保とうとしたからだろう。偽らずに心中を語るのであれば、私はかなり混乱していた。と言ってもそれが恥ずかしいことだとは思えない。このような状況であれば、誰であろうとまともな精神状況でいるのは難しいだろう。漫画や小説などで主人公が異世界へ迷い込んだ際、簡単に順応してしまうことがあるが、現実はそう簡単にはいかない。自分の意志で、ある程度の予備知識を持って海外旅行に行くのとは全く違うのだ。


 私は自分がしっかりとした判断が出来る状況ではないことを理解した。自分の精神状態を知ることは、こういった不測の事態においてはとても大切なことだ。一度心を落ち着かせるために深呼吸をすると、混乱していた心は少しではあるが、落ち着きを取り戻した。


――ここはどこなのだろうか?


 私は最初にそれを考えることにした。自分がなぜこのような場所にいるのか、全く持って見当がつかないが、周囲の様子からしてここがおそらく日本ではないだろうということは推測できる。日本にこんな場所があるという話は聞いたことがないし、まず間違いなくこのような場所はないだろう。いや、世界中を探したところでこんな幻想的な場所が存在しているとは思えない。この場所には本来世界にあふれているはずの、生命の気配というものが少しもなかった。美しくも恐ろしく、危険がなさそうに見えるが、危険な気配を孕んでいる。


となると、ここはこの世ではないことになってしまう。つまり――




「私は死んだのか?」




 再び声を出した。現実離れした方向へ思考を進めるのなら、別世界や違う星に来たということも考えられるのだろうが、あの世というのが最初に私の頭の中をよぎった。そう考えてみると、確かにこの幻想的な場所は自分が頭の中で描いているあの世という場所に酷似している。それにここが死後の世界だと思ってみると、理屈ではなく第六感的にとてもしっくりとくるような気がした。私を包むその今までに感じたことのない感覚は何故かとても説得力に満ちており、もはや、そうとしか思うことは出来ないほどだ。


 私は無宗教であの世というものを信じていなかったので、皮肉なものである。


 しかし……しっくりとはくるのだが、なぜ自分が死んだのかを思い出すことは出来なかった。


 頭の中に濃い靄がかかっている気分で、いくら思い出そうと頭の中でエネルギーを消費させようとも、その靄は晴れない。無理にでも思い出そうとしたが、まるでひどい車酔いになったかのような不快感が胃の底から込み上げてきた。同時に太い錐を頭に刺されて回されているような強い頭痛も襲ってくる。


 一瞬、胃の中にある物が口から外に出そうにさえなった。口を右手の手のひらでおさえ呼吸を整えて、それ以上考えないことにした。考えるたびにそんな苦しさを伴うのであれば、考えを進めることは困難だ。


「それにしても、死後の世界というのは味気ないものだな」


 何度辺りを確認してみても、眼下に広がるのは終わりの見えないどこまでも広がる花畑だけだ。空と呼んでいいのかは分からないが、死ぬ前の世界で言えば空に当たる頭上にある部分は白色をしている。どこまでも広がるほかに何も混ぜていない絵の具をむらなく塗りつけたような白色は、青い空とは違い、どこまでも虚無感しか感じられない。晴れ渡る空を見れば心が明るくなったり、曇り空を見上げれば気分が沈んだりすることがあるが、その広がる白色を見ていると、まるで少しずつ心がしぼんでいくような感覚が襲ってくる。自分の体から少しずつ魂が引き抜かれているかのようだ。


 私はふと、一本の花を手にとった。タンポポのような黄色い花だったが、そこからは何の臭いもしない。まるで、精巧な造花だ。


 他にも何本かを手に取り、臭いをかいでみたが、それらからもやはり何の臭いもしなかった


「……歩いてみるか」


 私は花畑の中を進み始めた。方角は分からないし、分かっていたところでどう進めば何があるかということも知らないので、とりあえず顔を向けていた方向にまっすぐに足を運んでいく。一定のペースで足は進む。私はとにかく何も考えずに、足を動かした。意識としては、上半身と下半身を解離させている感じだ。それしかすることはないとばかりに、足は同じ幅、同じ早さの歩みを刻んでいく。


 ――そして、かなりの距離を歩いた。


 しかし、周りの景色が変わらないので全くそんな実感が沸かなかった。実は一歩も進んではおらず、その場で足踏みを繰り返していただけなのではないかとさえ思えてしまう。どれだけの時間がたったのかさえ分からない。いや、こんな何も無く変化さえない世界に時間という概念が存在するのかということすら疑問だ。だいたい時間という概念は人間が考え出したものなので、こんな人の姿が見あたらない世界にはふさわしくないのかもしれない。とりあえず、かなりの間、私は進んでいた。


 不思議といくら歩いても疲れが襲ってくることは無かったが、やはりいくら進んで行こうとも周囲に花畑が広がっているだけだった。


 私は自分のやっていることのあまりの無意味さに落胆し、その場に座り込む。


 体がいくら疲れないとはいえ、代わり映えの無い場所をひたすら歩くという行為は、精神的にかなりの苦痛を与えるものだった。


 その辛さから逃れるため、目を閉じようとしたが、そのとき自分の近くに何かの気配を感じた。私はその気配で、閉じようとしていた瞼を持ち上げ、顔を上げた。


「え?」


 そこには一人の年老いた女の姿があった。顔は深いしわに覆われており、瞳の色はまるで、まるで家庭排水が流れて濁りきった川のように淀んでいる。服装は茶色やベージュの入った上着と、古びたよれよれのズボンだ。腰は不安定に折れ曲がっており、死人であるかのように生気を感じられない。そして、その姿に私は見覚えがあった。


 いや、見覚えがあるというようなものではない。その姿は私の記憶の中に強く、深く、刻み込まれているものだ。いや、記憶どころか遺伝子、魂にすらも力強く刻み込まれている。知らないと口に出すことすら許されない。


 その女は間違いなく、私の母だった。


「母さん……なんで、ここに」


「お前を待っていたんだよ。ずっとね」


 その声はしわがれていて聞き取りにくかったが、確かにそう言っていた。


 母親は私の隣に静かに腰を下ろす。そして私がその場にいないかのように黙りこくった。


 一体何を見ているのか、視線はまっすぐに遠くの方に向けられていた。瞬きすらしていない。その姿は人間を完全にまねることだけを目的として作られた蝋人形のように、計り知れない恐れがある。実は頭の中からは脳みそが抜き取られており、叩いてみたらむなしい音が響くのではないかとすら思えた。


 私はしばらく口を開けなかったが、決心して母に尋ねた。


「母さん。ここは一体どこだ?」


 私がそう問いかけると、母の首がまるでからくり人形のようにぎこちなく動き、虚空を見つめていた目が私に向けられる。




「…………」




 母親は何も答えなかった。ただ、口を動かさずに私の顔をじっと眺めているだけだ。


 そして、母親に見つめてられていると、自分の死んだ理由を考えていたときと同じように、腹の中から不快感が現れ、同時に激しい頭痛が襲ってきた。私はその場にうずくまり、その苦しみに耐える。しかしそれは激しさを増すばかりで、治まる気配を見せない。得体のしれない見えない何かに体の中から攻撃されているような、どうしようもない苦しみが体の中をぐるぐると回る。


 母親はそんな私を、無機質な瞳に映している。そして、唐突に口を開いた。


「……どこでもないよ」


「え?」


 うずくまったまま苦痛に歪む顔を上げ、母親と目を合わせた。母親の目は何もかも見透かすかのように、静かにうずくまる俺の姿を捉えている。私は、自分が顕微鏡で観察されている生物であるかのように感じた。


「……ここは別に、どこでもない。おまえ自身の頭の中。ただの妄想で、虚構の世界だ。まぁ、夢のようなものだね。お前はここのことを死後の世界だとか思っているのかもしれないが、そんなものはない。そんなものは死を恐れる人間が、その恐怖から逃れるために考え出したものにしか過ぎないんだから」


 苦しむ私に向かって母親が手を伸ばした。その肉がほとんどついていない骨と皮だけのような細い腕が、私の首をつかみ、力が込められる。その貧弱な腕からは考えられない、まるで首の骨が折れるんじゃないかというほどの力だが、その行為による苦痛は全く伝わってこなかった。


「死んだら、人は心も体も無に帰るだけだよ。残るものは骨ぐらいのものだ。死んだ人間は無の世界へと落ちるのさ。……お前が、私をそうしたようにね」


 首を絞めながら母が口にしたその言葉で、私は忘れていたことを思い出した。




 母親は高齢になり、脳に障害をおった。一人では生活が出来なくなり、まともに思考することすら出来なくなった。母はとてもしっかりとした人物だったので、最初そのころを聞かされた際に、私は事実として飲み込むことができなかった。しかし、私も所詮現実の一部でしかなく、その中にとらわれてしまっている。いつまでも現実から目をそらすことはできないのだ。


 そうなると当然、家族は私しかいなかったので、介護を行うことになった。寝る暇も無い。生活するには仕事もしなくてはならない。そんな毎日が長い間続いた。しかし、いくら介護を行ったところで、悪化を防ぐことはできても、回復させることはできない。その事実は、希望もなく、空しさしかない。そんな日々はだんだんと私の体と精神を、目に見えるほどにむしばんでいった。どうにかして二つを両立させようとしたが、無理だった。体も精神も擦り切れてしまった。


そしてその苦しみから逃れるため――母を殺してしまった。


 夜、母がいる寝室に忍び込み、布団の中にいる母の首へ、ナイロンのひもを巻き付けた。一瞬、まだ母がまともだった頃の思い出が幾つも頭の中を横切って行ったが、それもすぐにかき消し、力を込めた。眠っている母は、何の抵抗もできずに呼吸をしなくなった。ナイロンのひもをはずしたときに母の首に残っていた痕は、簡単に思い出すことができる。


 母の死体は遠くの山に運んで埋めたが、その死体は発見されてしまった。身元の確認を急いでいるとニュースでは言っていたが、身元くらいすぐに見つかるだろうと思った。日本の警察はそこまで甘くは無い。


 私は逃亡した。車を運転し、出来るだけ遠くに行こうとしたが、誰かに見られているのではないかという恐怖のせいで、私はハンドルの操作を誤った。




――そうか。そうだったな。


 となると、ここにいる母は私に復讐するために現れたのだろうか。いや、おそらくは違う。おそらくこれは私の罪の意識が作り出した、幻想に過ぎないのだろう。母は、無の世界にいるのだ。こんなところに現れたりはしない。


 自分の心臓の鼓動がゆっくりになっていくのが感じられる。おそらく、実際の私は大量に血を流しているのだろう。今にも、命が燃え尽きようとしているのが分かった。命を燃やす炎は、ただの炎ではない。少しの灰すら残すことがないすべてを燃やし尽くす地獄の業火だ。それは何よりも圧倒的で、破壊的である。


――生きたいな。


 母を殺したくせに、私はずうずうしくもそう思った。しかし、この世界というものはそう都合よくなど出来てはいない。毎日世界では死にたくないと願う人間が、死んでいる。奇跡など起きないのだ。そのようなものにみっともなくしがみつくことなど出来ないし、奇跡などというものは人間が勝手に考え出した幻想だ。


私は何も出来ずに、無の世界へ落ちていった。

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