第9話-ジョセフの家

「見えましたよ。あれがマッサリアです。」


ガラガラと音をさせてゆったり進む馬車は、小高い山道を抜けると、眼下に広い海に寄り添うように中世の都市が広がっていた。


ゴツゴツとした地形に添う様に作られた建物が犇めき、都市中心の小高い丘には大きな教会が堂々と佇んでいる。そこからゴーン、ゴーンと遠く離れたここまで聞こえる鐘が鳴らされていた。


その風景には何処となく見覚えがあった。

「マルセイユ……?」

「ああ、そうですね。地元じゃあマッサリアと呼ぶので。……て、何か思い出しましたか?!」

驚いたように俺を見た彼に、俺は苦笑する。


「思い出したというか、一致した……かもしれない。ここがだいたい何処なのか。」


浮かない表情の俺に、ジョセフは少し息を吐きまた前を向いて笑った。

「まぁ、とりあえず家に着くんでゆっくりしましょう。コースケも疲れているでしょうし。」


そういって指差した先には、石を積み重ねた垣根のある一軒家があった。



ジョセフは都市から離れた郊外に住んでいた。マッサリアの街を見下ろす景色と、太陽に輝く碧海が眼前に広がる丘にジョセフの住む家がある。石造りの二階建ての家で、素朴な佇まいだが立派な家だ。

庭にはハーブが花を咲かせて蝶が飛び、風除けの為か、海側に数本の木が植っている。


ジョセフは馬車を敷地に入れながら自分の事を話してくれる。

「ここは祖母から譲り受けた家なんです。ここで暮らしながらご婦人方に、リネンやレースやリボンを売ってまわってます。たまに香水なんかも。」

「街中には住まないのか?」

「街には買い物とか用事がある時に行くくらいですね。治安もあまり良く無いですし、なまじ鼻がいいもんで、あまり街中は。」

困ったようにジョセフが言う。

「大変なんだな。」


中世ヨーロッパの街は上下水が整っておらず、通りに放り捨てられる糞尿で街中は激臭だったと何かで読んだ。

19世紀後期になってようやく上下水の整備が整い始めるため、南フランスに位置するマルセイユでは、まだその影響下にないのだろう。


俺の知る史実がどれほど当てはまるか分からないし、俺の生きていた時代から遡った世界だったとしても現代に帰る手段が分かる訳でもない。


「結局、ここが何処だか分かっても一歩も進展がなさそうだな。」

「俺を捕まえた時点で一歩進展してるじゃないですか?何せ衣食住は約束されてますからね。」

荷馬車を敷地内に停め、馬車から降りる際に、ジョセフは悪戯っぽく笑いながら言った。

「はは。確かにな。」

俺は諦めたように笑いながら馬車から降りた。

「馬を繋いでくるので、ちょっと待っててくださいね。」

馬を連れて馬屋に行くジョセフを見送りながら、俺はうーん!と背伸びをする。

「馬車なんて初めて乗ったなァ」

かなり腰にくるガタ付きだった。サスペンションとか無いんだろなぁ。


俺は異国の地が珍しく、見慣れない景色をキョロキョロと見回る。ジョセフの家は崖の淵にあり、石を積んだ塀の向こうは見渡す限りの海が広がっていた。

微かに聞こえる波の音と、海鳥の鳴く声がする。潮の香る風が頬を撫でて気持ちいい。

「綺麗だな」

改めて見ると、まるで空が落ちてきたような鮮やかな海だ。翡翠のように輝く部分や、ブルーサファイアのような輝きの部分もある、透明度が高く遠くからでも水中が見てとれた。


庭の木を見ると、まだ青い小さな実が付いていた。果実の木なのだなと思いながら、屋根の下を見ると、そこには水瓶が数個置いてあった。

至る所にハーブが生えていた。手入れされたものから雑草のように伸び放題のものまで色々だ。

ハーブについては、昔、ハーブティーにハマりベランダ菜園で育てた事があったので、何となく分かった。


ハーブは調香用だろうか。そもそもどうやって香りを抽出するのかも分からないけど。


「コースケ!」

ジョセフの声がする方を見ると、扉の前で手を振っている。招かれるままに中に入ると、すぐに暖炉の部屋だ。石の床にテーブルや椅子が置いてある。調理器の下がった壁、食器棚には木の器が並んで、窓際には調理台もある。

「おぉ、すごいな。」

「一人暮らしなんで、散らかってて申し訳無いんですけど。」

ジョセフはテーブルにカバンを下ろしながらそう言うと、暖炉とは別の、釜戸のあるストーブに火を付けていた。


本当に映画で見た事のあるような部屋につい目を輝かせてしまう。

「なぁ!良かったら家、見てまわりたいんだが!」

「どうぞ。調香室は割れ物が多いから、気を付けて下さいね。」

「わかった!」

俺はワクワクと、暖炉の部屋の隣にある扉を開いた。そこは海の見える小綺麗な応接室だ。対面にフカフカのソファーがあり、真ん中にテーブルがある。

「そこはたまに商談に使うんです。客間ですね。普段は俺の昼寝場所です。」

後ろから、ポットに水を注ぎながらジョセフが解説してくれる。

「なるほど。」

ジョセフの身長だと足が出て窮屈そうな気もするが、スヤスヤと眠る姿を想像すると可愛いなと思ってしまう。

そっと扉を閉めると、今度は玄関とは対面の扉を開けた。暗い廊下には左右に扉があり、奥にも一つ扉があった。すぐ横には二階への階段もある。

「二階もあるのか?」

階段の上をじーっと見つめる。真っ暗な階段はどこか不気味で、けれど子供心を擽られる。

「二階は寝室ですよ。」

ジョセフは問われるままに答えてくれた。

二階の探索は後にしようと、次は右の扉を開いた。すると、フワリと花の香りや新緑のような香りが漂ってきた。

「この部屋はいい匂いだな。」

中に入ると室内は明るく、綺麗に整頓されている。戸棚には沢山の小瓶が並び、中央の机には何かの実験道具のような機材が並んでいた。

「すごいな。これが調香室ってやつか?」

すると、後ろから足音がして、ジョセフが扉の外か覗いた。

「ああ、朝少し弄ってたから香りがまだ残ってるな。戸棚の小瓶は香油です。調香室です。」

「へえ!ここが仕事部屋!。」

「商いの傍ら、オーダーを頂いた時に少しだけですけどね。」

なるほど、彼にとっては調香は副業なのか。


小瓶が可愛く道具も物珍しくてあちこち見て回っていると、後ろから見ていたジョセフがふふっと笑った。

「な、なんだよ…。」

「いや、なんだか貰われてきた猫が部屋を見て回っているようで。」

ジョセフは壁に寄りかかりながら、俺の動向を観察する。見られていると思うとやはり恥ずかしいもので、少し視線を逸らした。

「悪かったな。まぁでも状況は似たようなもんだろ?」

確かにキョロキョロと落ち着きなく歩き回る様は、まるで初めての場所に来た猫のようだと自分でも納得してしまう。

けれど、こんな経験できるもんじゃないし、ジョセフには悪いが興味は尽きない。あちこちが物珍しい。


調香室を出ると、次は一番奥の扉を開いた。

そこは、薄暗く物置きと化したお店風の部屋だ。窓のカーテンが物寂しく太陽の光を遮り微かな光を室内にもたらしていた。


「ここは、祖母が健在の時に、裁縫屋をしていたお店です。今は行商がメインなので物置きになってます。」

「そういえば、お婆さんはどうされたんだ?」

「去年、他界しました。」

彼は少し寂しげに笑った。多分、そうだろうなと思いながらも、ストレートに聞いてしまった自分のデリカシーの無さが嫌になる。

「すまん。」

「いえ。大大夫ですよ。俺もまだ、祖母が居なくなった実感は無いんですよ。従軍中で死に目に会えなかったです。お墓も行ったし、祖母の物も片付けたんですけどね。まだひょっこり出てきそうで。」


不思議ですよね。と言いながら、お婆さんが使っていたであろう裁鋏たちはさみに触れた。

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