天頂のベガ

六番

天頂のベガ

 中学の同窓会の知らせが届いたのは、大学生になって初めての夏休みが始まった日だった。顔も思い出せないようなかつてのクラスメイトからのそのメールを睨みながら、私は深々と溜息を吐く。

 地元には中学を卒業して以来帰っていない。新しい人間関係を求めて離れたのに、結局は高校でも親しい友達は誰一人できなかった。大学生になった今も、この夏休みの予定は新聞配達とマンション清掃のバイトくらいしかない。

 同窓会への興味などまるで無かった。何も話したくないし、何も聞きたくない。充実した日々を送る生き生きとした人を目の当たりにすれば、きっと私は一方的に嫌ってしまう。

 しかし、それでも私は同窓会への参加を決心しなければならなかった。ある人に、伝えたいこと、確かめなければならないことがあるからだ。

 ベランダに出て、ぽつぽつと雲が点在する夜空を見上げると、夏の大三角がすぐに見つかった。都会は星が見えないと言うが、実際は場所を選べばそれなりに見える。ここは大きな通りから外れた住宅街なので余計な光源がなく、私の地元に比べればその輝きは少し物足りなく感じるけれど、一等星ははっきりと目立つ。

 その中でもベガは、私には特に際立って輝いて見える。それは実際に夏の夜空で最も明るい星だという事実もあるけれど、私の思い出とそれに伴う心象が重なって、輝きがより増しているように感じているのだと思う。

 夜の帳が下りた静けさの中、煌々と青白く瞬くベガを見つめながら、私は親友と過ごした夏の夜を思い出す。


 中学二年の夏休み、私は親友と二人で自由研究として星の観察に取り組んでいた。

 夏休みの間、町の外れにある古い森林公園に私たちは何度も足を運んだ。そこには小高い丘があり、星を見るには良い穴場なのだと彼女は知っていたのだ。

 町の明かりは届かず、訪れる者がほとんどいないその場所は、夜が更けると濃紺の空と一体化したような無限の空間に感じられる。

 レジャーシートを広げて仰向けに寝ながら、私たちは天然のプラネタリウムを存分に満喫した。夏の大三角はもちろん、天の川やペルセウス座流星群も、夏に見たいものはなんでも見えた。

 最初の数日こそ、星座の早見盤や図鑑などを見ながら真面目に観察をしていたけれど、いつしかぼんやりと星を眺めながらおしゃべりをするだけの時間になっていった。

 学校のこと、家族のこと、将来のこと……満天の星は時間の流れを忘れさせ、話したいことはいつの日もとめどなく溢れ続けた。


 彼女とは、中学の入学式で声を掛けられて以来、誰よりも深くて長い時間を共に過ごしてきた。

「入学式で初めて会ったときのこと、今でもよく覚えている」

 隣で夜空を見上げながら、彼女はしみじみと語る。

「一人で震えながら、今にも泣き出しそうで……それを見て友達になりたいって思ったんだ」

 なにそれ、と私は笑った。

「私に縋るようなその顔がなんだかきらきらして見えて、とても綺麗だった」

 一体どんな表情だったのだろう、と私は少し恥ずかしくなった。

 しかし、私からすれば彼女のほうがよっぽど綺麗な顔をしていると思う。儚いくらいに白い肌と、芯の強さを感じる精悍な顔つき。どこにいても人目を引く存在感がある。

 そんな彼女とこうして二人きりで星を眺めて語らう夜は、どこまでも夢見心地でかけがえのない時間だった。

 煌めく幾多の星に私たちは様々な約束を誓った。同じ高校に行くこと、いつか部屋を借りて一緒に暮らすこと、そして、いつまでもお互いが一番の存在であることも。


 夏休みの最終日のことだった。その日も私たちはいつものように丘の上で並んで寝ていた。雲も風もない、いつにも増して静かな夜だった。

 私にぴったり寄り添って手を繋ぐ彼女が、遥か天頂を指差す。

「ベガって、ずっと昔は北極星だったんだよ。そして、ずっと先の未来にはまたその座に戻るんだって」

「ただでさえ、織姫としてロマンチックな星なのに、更にそんな魅力もあるんだね」

 彼女の白く透き通るような細い指と、その先で力強く輝きを放つベガを眺めながら、私は心の底から感嘆した。

「デネブもアルタイルも、もちろんポラリスも綺麗で素敵だけど、どの星よりも明るく輝いているベガが私は一番好き」

 そう真っ直ぐに言う彼女こそが、私には一番輝いているように見えた。

「これから夏にベガを見るたびに、こうして一緒に過ごした日々のことを思い出すんだろうね」

「……夏だけだなんて、嫌だよ」

 彼女のその声色はやけに真剣だった。その意図と心情が掴めず、私は返事の代わりに彼女の手を握り直す。彼女から伝わる仄かな熱が心地良い。

 しばらく手を握り合いながら、時が止まったような静けさに浸っていると、彼女は不意に音もなく上体を起こして私の顔を見下ろした。星明かりを背にした彼女の表情は、影に覆われてよく分からない。

 そして、突然顔を寄せたかと思うと、私の唇は彼女のそれによってそっと塞がれた。幽かに冷たくて、不思議な柔らかさだった。

 彼女はすぐに顔を離したけれど、星も月も息を潜めて見守っているような沈黙の中、私は仰向けのままで彼女を見つめながらしばらく呆けてしまった。

「ごめん」

 しばらくして彼女は起き上がり、そそくさと帰る準備を始める。慌てて言葉を探したけれど、今更何を言っても嘘臭くなるような気がして、私はただただ彼女の言葉を待った。けれど、彼女もまた、私と距離を取って待つかのように押し黙り続け、私たちは無言のまま家路を辿ることになった。

 夏休みが明けてから、私たちの関係は段々と希薄になっていった。私は一人で本を読む時間が増え、彼女は他の友人と過ごすようになった。

 彼女と過ごした夏の夜のことを、毎日のように思い返した。しかし、募る想いとは裏腹に、私は彼女に対して怯えていた。あの夜の口づけにどんな気持ちが込められていたのか、何も確信ができなかった。

 三年生になってもクラスは一緒だったのに、私たちは最低限の会話しか交わさなかった。そして、私は隣県の高校に合格して地元を離れ、彼女はかつて私と行くと約束した高校に入学したのだった。


 今でも、ベガを見るたびに考える。

 どうしてあのとき、私は何も伝えられなかったのだろうか。彼女への恋慕は、間違いなくあったのに。

 彼女の美しく力強い輝きに怯んでしまったから。彼女が自分と同じ気持ちだと信じられなかったから。言い訳はいくらでも出てきた。

 それでも、もしまた会えるのであれば、あの夜の続きを今からでもやり直したい。そして、彼女の想いの全てを知りたい。


 同窓会の当日、会場のイタリアンレストランにギリギリの時間で到着すると、私はさっそく後悔した。久しぶりの再会を喜び合う人達はみな、活力に満ちてぎらついているように見えた。そして、唯一の目的であった彼女の姿はどこにも見当たらない。

 何人かが私に声を掛けてきたけれど、名前を聞いても特に何も思い出せず、適当に相槌を打ってやり過ごした。

 ほどなくして会食が始まり、各々が思い出話などに花を咲かせる中、私は端の席で縮こまって食前酒をちびちびと舐めていた。想像していた通り、居心地は最悪だ。

 もしかしたら彼女は遅れてくるのかもしれないと淡い期待を抱いていたが、周囲の会話によるとどうやら参加者はもう全員揃っているらしかった。

 しかし、抜け出す頃合いを見計らっていたそのとき、付近から不意に彼女の名前が聞こえた。

「今でも信じられないよね」

 斜向かいに座る、名前も思い出せない女たちが抑えたトーンで話すのを、私は硬直しながら聞き耳を立てた。胸の鼓動がにわかに速まる。

「美人薄命ってやつ?」

 その言葉で私の身体は小刻みに震え始める。

 去年の夏……家族で星を見に行った帰り……交通事故……。

 私は何度も唾を飲み込みながら、聞き取れた断片的な言葉を繋ぎ合わせて、ようやく思い出した。

 彼女がここに来るはずがない。もうこの世にいないのだから。

 そう、私は彼女の死を既に知っていたはずだ。当時、実家からの連絡でそれを伝えられた私は、何もかもを忘れたくてひたすら大学受験の勉強に打ち込んだのだった。

 もちろん、完全に彼女の存在を忘れることなどできるはずはなかった。負い目を感じていた私はいつかそれを払拭するために、彼女の死という情報を記憶の奥底へ強引に押し込んだ。その結果、私はこうして彼女との再会に期待してここへ来たのだ。

 我に返ると、女たちはもう彼女の死の話などしておらず、運ばれてきた料理に大袈裟なリアクションをしていた。

 急な吐き気と手足の先の痺れを感じながら、私はなんとか席を立ち、ふらつく足で店の出口へ向かう。そんな私を気にして呼び止める人など、誰もいなかった。


 どこまでも広がる夜闇の中、彼女との思い出を反芻しながら歩き続けた。少し湿った生ぬるい風が火照った顔を撫でる。空を見上げると、ベガはまるで私を導くように一際眩い青白さで煌めいていた。

 気づけばあの丘の上に私は辿り着いていた。当時と変わらないその光景は、かつての夏の夜が再び訪れたみたいだった。

 力尽きたように倒れて仰向けになる。あの日と同じように、物言わぬ綺羅星たちと、彼女の愛したベガが私を見つめていた。

 ベガはいつか再び北極星になる。夏だけでなく、いつだってそこにあり続ける。そう教えてくれた彼女は、もうどこにもいない。

「……また戻るって、言ってたじゃん」

 震えた声は、果てのない闇に飲み込まれていく。もう彼女には何も届かないのだと思うと、堰を切ったように涙が溢れだした。

 滲む視界の中、ベガは他の星たちと混ざり合って一つの大きな光となった。私は思わずそれに向かって両手を伸ばす。届くはずもないのに、どうしようもなく、その光に触れたかった。

 切なさに耐えられず目を閉じると、胸の中に宿る静かな熱に気付いた。私の中の彼女の存在……それは、紛れもなく「星」だった。儚くて、健気な、美しい光輝。胸に手を当てて、その神秘的な煌めきを感じ取る。

 「好きだよ」

 言葉が自然と漏れ出た。それに共鳴するかのように、「星」は何度も、何度も瞬いた。


 あの夏の夜空も、あの瞬間の感情も、全ては思い出として過去になった。それは記憶の中で、銀河の果ての星たちのように淡く揺らめいている。

 けれど、私にとっての彼女は今もなお、何よりも明るい光を放ってそこにいる。

 私はこの尊い輝きを決して忘れることはないだろう。季節がいくつ巡っても、それはいつだって私の中心にあるのだから。


 了

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