ストレイ・キャット
その
シノが最後にここへ来たのは、確か一年前。
敵方の恨みを買い、不運にも殺し屋を差し向けられたとき、避難先として使用したのを覚えている。ネコヅカ組にさえ知られていない個人による賃貸だった。
認証ロックではない物理キーによって開錠すると、室内からは黴っぽい臭いがし、空気中を細かなほこりが舞った。スキャンすると本当にあれから誰かが立ち入った形跡はなく、シノはようやく安堵のため息をつく。
電気はもともと付かないので明りはない。水は出た筈だ。シノは返り血に染まった服を脱ぐと、シャワー室に入った。
氷のような冷水のシャワーを浴びていると、様々な考えが浮かんでは消えていった。
ウイルスの送り主──それは、ヤヤ・ヤマか?
あるいは、やはりヨシローが別の誰かに私を売ったのか?
ウイルスはなぜ、私を助けるのか──?
けれども、目下の課題は逃亡の為の新しい身体だった。
街頭のカメラにせよ、ドローンの搭載カメラにせよ、今頃シノの顔は割れている筈である。そうなると新しいID、新しい見た目が必要だった。もしもの事態に備え、組織を介さない偽造IDと綺麗な金は持っている。
問題は、バレずに
シャワーを止めたとき、シノは見慣れぬものに気付いた。
自分の左腕に、いつの間にか
「──ダサい」
シノは削除した。
ボディペイントやタトゥーに抵抗はなかったが、デザインが好みではなかった。
全裸のまま部屋を歩き、戸棚に隠してあったウイスキーを取り出す。
ネコヅカが「科学合成でない本物の一本」と、仕事の成功祝いにくれた特別な品だった。一口飲んでほこりまみれのカウチに腰かけると、組に入った頃のこと、昔のネコヅカのことが思い出された。
そういえば初めのうち、シノはネコヅカの命令で少年のような恰好をさせらていた事があった。「もしかして親分の趣味?」と訝しんだこともあったが、後になってみると、周囲の目から守る為の思いやりだったと気付かされた。
一体どうしてこんなことになってしまったのか──考えれば考えるほど解らなかった。
やがて強い眠気が差してきた。
通常ではない身体性の情報処理は確かにデバイスが行うのだろうが、それを物理現実で実行し、体感するのは己である。想像以上の負荷であるに違いなかった。
シノは更にウイスキーをあおると、深く単純なその命令に従った。
※ ※ ※
目を覚ましたとき、まず気付いたのは床だった。
自分の身体は今、床の上でうつ伏せになっており、曲がるでもなく横倒しでもなく、ただ真っ直ぐに伸びていた。身体は一切、
ウイルスが何かしたのか? そう思ったが、唯一動かせる
「──シノ。どうして裏切ったんだ?」
ネコヅカの
隣には、シノと同様に組の中で汚い仕事を専門とする、ヌカスケの姿がある。
「おい! 親分が訊いてるんだッ! 答えねえか、ボケ!」
顔面に、ヌカスケの蹴りが飛んできた。
痺れるような激痛。
どうやら、痛覚神経を最大まで過敏にされているらしかった。
「──どうしてヨシローを殺した? ヤヤ・ヤマに寝返ったか?」
シノは口を開き、説明しようとした。
どうしてこうなったのか、自分に起ったことの全てを──
けれども、どう頑張っても声にはならなかった。
シノは悟った。
これは──ケジメ、なのだと。
弁明は許されず、その命で責任を取る──オトシマエ、なのだと。
「──儂はお前のことを本当の娘のように想ってきた。嘘ではない。そうでなければまだ子供だったお前を拾い、わざわざ少年の格好をさせたりするものか。
──ヌカスケは、散々痛めつけ、辱めてから殺せと言う。しかし儂にはとても出来ない。だから、一瞬で楽にしてやる。それが儂からのせめてもの親心と思え──」
ネコヅカの
鞘から流れ出る煙のような
内側に仕込まれた冷媒のせいだろう、パキパキと音を立て、柄から刃先に向かって
──こんなところで終わりなのか? シノは思った。
くだらない
組に残ったのも、汚い仕事を続けたのも、それは
渡世に綺麗も汚いもないが、これだけは言える。
私は生きたい。
例え裏切り者と罵られようと、生涯追われる身になろうと──私はまだ生きたいのだ!
そのシノの願いに応えるように、内側の何者かが動いた。
制御系を縛る為、シノに取り付けられた端子を経由し、ヌカスケの中へと侵入。
プロトコルを書き換え、騙し、アクセスポイントを割り出す。
飛んだ先、ネコヅカのインプラント・デバイスは、実に幸いなことに旧式だった。
彼が固着した古き悪しき
それが付け入る隙だ。
アップデートこそ、欠かさず為されている。
けれども、脳の奥深く──各神経領域に打ち込まれた刺激電極は、ほぼ全くといって良いほど無防備だ。
新しい命令──新しいプライマリ──
その全てを支配するのは──いとも簡単だ!
生まれたての
極寒に耐えるかのように、それは大きく激しくなってゆく。
次の瞬間、ネコヅカは摺り足の歩法で踏み込むと、ヌカスケに対し横一文字に斬りかかる。
ヌカスケの首が両断された。
脳細胞が破壊されるほどの、過剰な電気刺激によって生み出された人間技ではない力──あるいはこれが、
ほこりの積もった床の上を、ごとりごとりと首が転がる。
ネコヅカは一瞬、こちらを見やり、
「シ、ノ──。お前、が──?」と言った後、
柄を持ち替え、
サイボーグと違って生身の人体は瞬時に凍り付き、ネコヅカの首からは血の氷柱が無数の針のように垂れ下がって行った。
シノは
ヌカスケの脳死が、切っ掛けになっているようだった。
ゆっくりと身体を起こし、蹴られた顔面を触り、端子を抜く。
近寄ってみると、ネコヅカはすでに絶命していた。
命が助かって安心したような、曲がりなりにも親を失って悲しいような複雑な気分だった。百万回生きた猫はその生涯中、たった一度だけ泣くという。できることなら、シノもそうしたかった。ネコヅカだけでも葬ってやりたかった。けれども、そんな暇の無いことは解っていた。
ネコヅカの中に侵入したとき、そのバイタルが実に様々な関係各位へ紐付けされていたからである。
さすがに裸のままでは逃げられない。
ヌカスケの服を剥ぎ取ろうとして自分に腕に、あの
「サヨナラ。
ヌカスケのぶかぶかの服、背中には
最下層から見上げるシンジュクの空は、依然としてブロックノイズにまみれたままだった。
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