ストレイ・キャット

 その長屋タウンハウスは、うら寂しいシンジュクの外れにあり、ほとんど倒壊しかかった廃墟のようだった。

 超高層建築メガストラクチャが、まるで沈みゆく島か何かのように上へ上へと建増しされる以前、ここはそれなりに栄え、地価も相当であったに違いない。しかし今となっては日の光も届かぬような下層ゆえに、身を隠すには打って付けだった。


 シノが最後にここへ来たのは、確か一年前。

 敵方の恨みを買い、不運にも殺し屋を差し向けられたとき、避難先として使用したのを覚えている。ネコヅカ組にさえ知られていない個人による賃貸だった。


 認証ロックではない物理キーによって開錠すると、室内からは黴っぽい臭いがし、空気中を細かなほこりが舞った。スキャンすると本当にあれから誰かが立ち入った形跡はなく、シノはようやく安堵のため息をつく。

 電気はもともと付かないので明りはない。水は出た筈だ。シノは返り血に染まった服を脱ぐと、シャワー室に入った。


 氷のような冷水のシャワーを浴びていると、様々な考えが浮かんでは消えていった。


 ウイルスの送り主──それは、ヤヤ・ヤマか?

 あるいは、やはりヨシローが別の誰かに私を売ったのか?

 ウイルスはなぜ、私を助けるのか──?


 けれども、目下の課題は逃亡の為の新しい身体だった。

 街頭のカメラにせよ、ドローンの搭載カメラにせよ、今頃シノの顔は割れている筈である。そうなると新しいID、新しい見た目が必要だった。もしもの事態に備え、組織を介さない偽造IDと綺麗な金は持っている。

 問題は、バレずに手術テックしてくれる医師ドクターの存在──だけだった。


 シャワーを止めたとき、シノは見慣れぬものに気付いた。

 自分の左腕に、いつの間にか牡丹ピオニーのようなテクスチャが張り付いていたのだ。それはヤクザの入れ墨ガマン・タトゥーによく似ていたが、違っているのはラメのような細かい光があること、角度によって、まるで立体かのように動いて見えることだった。こんなものを設定した覚えは全くなかった。


「──ダサい」


 シノは削除した。

 ボディペイントやタトゥーに抵抗はなかったが、デザインが好みではなかった。

 全裸のまま部屋を歩き、戸棚に隠してあったウイスキーを取り出す。

 ネコヅカが「科学合成でない本物の一本」と、仕事の成功祝いにくれた特別な品だった。一口飲んでほこりまみれのカウチに腰かけると、組に入った頃のこと、昔のネコヅカのことが思い出された。


 そういえば初めのうち、シノはネコヅカの命令で少年のような恰好をさせらていた事があった。「もしかして親分の趣味?」と訝しんだこともあったが、後になってみると、周囲の目から守る為の思いやりだったと気付かされた。

 孤児ストレイ・キャットだったシノにとって、その思い出はある種の可笑しさと同時に温かさを感じさせた。


 一体どうしてこんなことになってしまったのか──考えれば考えるほど解らなかった。


 やがて強い眠気が差してきた。

 通常ではない身体性の情報処理は確かにデバイスが行うのだろうが、それを物理現実で実行し、体感するのは己である。想像以上の負荷であるに違いなかった。

 シノは更にウイスキーをあおると、深く単純なその命令に従った。


 ※  ※  ※


 目を覚ましたとき、まず気付いたのは床だった。

 自分の身体は今、床の上でうつ伏せになっており、曲がるでもなく横倒しでもなく、ただ真っ直ぐに伸びていた。身体は一切、制御コントロールを受け付けず、以前のように指一本動かせない。


 ウイルスが何かしたのか? そう思ったが、唯一動かせる眼球アイボールがすぐに事態を理解させた。


「──シノ。どうして裏切ったんだ?」


 ネコヅカの親分ヤクザ・マスターが、どこか遠くを見るような目でそう言った。

 隣には、シノと同様に組の中で汚い仕事を専門とする、ヌカスケの姿がある。

「おい! 親分が訊いてるんだッ! 答えねえか、ボケ!」

 顔面に、ヌカスケの蹴りが飛んできた。

 痺れるような激痛。

 どうやら、痛覚神経を最大まで過敏にされているらしかった。


「──どうしてヨシローを殺した? ヤヤ・ヤマに寝返ったか?」

 シノは口を開き、説明しようとした。

 どうしてこうなったのか、自分に起ったことの全てを──

 けれども、どう頑張っても声にはならなかった。

 

 シノは悟った。

 これは──ケジメ、なのだと。

 弁明は許されず、その命で責任を取る──オトシマエ、なのだと。


「──儂はお前のことを本当の娘のように想ってきた。嘘ではない。そうでなければまだ子供だったお前を拾い、わざわざ少年の格好をさせたりするものか。


 ──ヌカスケは、散々痛めつけ、辱めてから殺せと言う。しかし儂にはとても出来ない。だから、一瞬で楽にしてやる。それが儂からのせめてもの親心と思え──」


 ネコヅカの親分ヤクザ・マスターは言い、脇に差していた名刀・村雨丸シャープブレイド・ムラサメマルを抜いた。

 鞘から流れ出る煙のような冷気コールドウェーブ

 刀身ブレイドはウラン化合物が放つ妖光イルミネーションに煌めき、まるで通り雨レインシャワーのように、あるいは涙のように濡れそぼっている。

 内側に仕込まれた冷媒のせいだろう、パキパキと音を立て、柄から刃先に向かってフロストが這い上って行く。


 ──こんなところで終わりなのか? シノは思った。


 くだらないヤクザ・コードの為に、本当に死ななければならないのか?

 組に残ったのも、汚い仕事を続けたのも、それは処世術キャット・ウォークではなかったのか。

 渡世に綺麗も汚いもないが、これだけは言える。

 親分ヤクザ・マスターは間違っている。

 私は生きたい。

 例え裏切り者と罵られようと、生涯追われる身になろうと──


 そのシノの願いに応えるように、内側の何者かが動いた。

 制御系を縛る為、シノに取り付けられた端子を経由し、ヌカスケの中へと侵入。

 プロトコルを書き換え、騙し、アクセスポイントを割り出す。

 飛んだ先、ネコヅカのインプラント・デバイスは、実に幸いなことに旧式だった。

 彼が固着した古き悪しき任侠道ニンキョー・ウエイ

 それが付け入る隙だ。

 

 アップデートこそ、欠かさず為されている。

 けれども、脳の奥深く──各神経領域に打ち込まれた刺激電極は、ほぼ全くといって良いほど無防備だ。

 新しい命令──新しいプライマリ──

 その全てを支配するのは──いとも簡単だ!


 ブレイドを上段に構え、今にも振り下ろさんとしていたネコヅカが動きを止めた。

 生まれたての子猫キトンような、小刻みな身ぶるい。

 極寒に耐えるかのように、それは大きく激しくなってゆく。

 

 次の瞬間、ネコヅカは摺り足の歩法で踏み込むと、ヌカスケに対し横一文字に斬りかかる。

 蛍光色の緑ネオン・グリーンが尾を引き、刀身は白く靄を生じ、剥落した細氷ダイヤモンドダストが無数の輝きを放った。


 ヌカスケの首が両断された。


 脳細胞が破壊されるほどの、過剰な電気刺激によって生み出された人間技ではない力──あるいはこれが、名刀・村雨丸シャープブレイド・ムラサメマルの切れ味か。

 ほこりの積もった床の上を、ごとりごとりと首が転がる。

 

 ネコヅカは一瞬、こちらを見やり、

「シ、ノ──。お前、が──?」と言った後、

 柄を持ち替え、刀身ブレイドを自らの首へと当てると、力いっぱいに切り抜いた。

 サイボーグと違って生身の人体は瞬時に凍り付き、ネコヅカの首からは血の氷柱が無数の針のように垂れ下がって行った。


 シノは制御コントロールを取り戻した。

 ヌカスケの脳死が、切っ掛けになっているようだった。

 ゆっくりと身体を起こし、蹴られた顔面を触り、端子を抜く。

 近寄ってみると、ネコヅカはすでに絶命していた。


 命が助かって安心したような、曲がりなりにも親を失って悲しいような複雑な気分だった。百万回生きた猫はその生涯中、たった一度だけ泣くという。できることなら、シノもそうしたかった。ネコヅカだけでも葬ってやりたかった。けれども、そんな暇の無いことは解っていた。

 ネコヅカの中に侵入したとき、そのバイタルが実に様々な関係各位へ紐付けされていたからである。

 

 さすがに裸のままでは逃げられない。

 ヌカスケの服を剥ぎ取ろうとして自分に腕に、あの牡丹ピオニーのテクスチャが再び張り付いているのに気が付いた。それは何度消しても独りでに浮かび上がり、シノはやがて削除を諦めた。もしこれが、データ階層の深部に意図的に仕掛けられているとすれば、それは何かの糸口になるかも知れなかった。


「サヨナラ。親分ヤクザ・マスター──」


 ヌカスケのぶかぶかの服、背中には名刀・村雨丸シャープブレード・ムラサメマル。そんな奇妙な出で立ちで、シノは長屋タウンハウスを後にした。

 

 最下層から見上げるシンジュクの空は、依然としてブロックノイズにまみれたままだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る