第7話

 



 夜中に目が覚めてしまった。月明かりに照らされた部屋は私以外の人の気配がない。

 リアンはまだ仕事をしているのだろうか、もう月が高くのぼっていた。何か忘れている気がする、なんだったかしら。

 サイドに置かれているレースショールを肩にかけて、薄ら寒い夜、私室の机の上に置かれた水差しで水分を摂ると、いつもの癖で扉のドアノブを捻る。


 ──あら、開いてる。


 いつもは鍵がかかって閉まっていた扉が、今日は開いていた。

 今のうちにメモを書き残して、帰ってしまおうかしら。そんな考えが頭をよぎるが、いやだめだと首を横に振る。リアンにはここずっと、衣食住の面倒を見てもらった。そんな不義理なことはできない。

 あれから多くの日数薬局を閉めてしまっているし、中和薬の改良のための研究をしたい。そろそろ、潮時だろう。

 出ていく時、一言リアンには声をかけるべきよね。そんなことをぼんやりと考えながら扉を開けると、ひんやりと冷えた夜風が吹き込んだ。

 城の奥にあるこの部屋付近は、人払いをしているのか人通りが少なく、全体的に暗い。

 リアンはどこにいるのだろう。

 使用人たちは私にあまり良い印象を持っていないという。当然だと思う、彼が優しいのだ。

 きっとリアンがいるであろう執務室を探そうにも、聞ける人がいない。

 良い機会だし、探検感覚で探してみよう。

 静まり返った廊下を裸足のまま、音を立てないようにそっと歩く。

 今の働かなくていい、リアンに囲われて誰に文句も言われないようなぬるま湯の生活も、根が怠惰な私にとってとても魅力的だ。

 リアンはとても優しい。ラフェリエールでされた過去を微塵も会話に出さず、私を甘やかしてくれる。

 薬局を開かずに一般の生活を送っていたら、リアンに甘えていたかもしれない。それほど薬師の仕事は、私のライフワークになっていた。


 それに、リアンには少し引っかかるところがある。


 城へ連れられた時やたまに漂う冷たい雰囲気が、私は怖いと思ってしまった。あの一面も確かに彼なのだとしたら、きっと気が休まらない。

 改良した中和薬を作れたら、リアンと今より適切な距離の友人関係を構築できるかもしれない。きっと、リアンなら笑って私を褒めてくれるだろう。

 私が離れても、リアンなら分かってくれる。


 想像した明るい未来にワンピースの裾を翻して、ふわりと回ると──

 背後から声をかけられた。


「何をしている?」

「え……?」

 振り向くと、表情の消え失せた顔のリアンが静かに私を見下ろしていた。

 ああ、まただ。

 心臓が大きく脈打って、胸の前で重ねた手を握る。機嫌が悪いのか、リアンの雰囲気が冷たい。

 月が雲に隠れて、二人の周りが暗くなる。

「あ……あなたを探していたの、目が覚めちゃって」

「……そうか、なら早く部屋に戻れ。ここの連中がクレアに何かするかもしれない」

 急かすように私の肩を抱いて歩こうとするリアンを引き留める。

「ちょっと待って、リアン。話があるのよ」

 至近距離にいるリアンを、なぜか見ることができなくて目を伏せて口を開く。

「私、そろそろ……お暇しようと思うの。薬局もかなり休んでしまったし、それに、あなたの中和薬も早く研究しなければと思って」

 ばっと顔を上げると、リアンの宝石眼の眼光が鋭く光った。雲の隙間から漏れ出た月の光が、彼の銀髪をきらりと輝かせる。

「クレアがこの城から出る日は一生無い」

 リアンが低い声に見開かれた目で、瞬きせず私を見下ろした。

「どういうこと? 意味がわからないわ」

 思わず、リアンの腕を振りほどく。

「そのままの意味だ。クレアは俺の傍にいるだけでいい」

 リアンから異様な熱を感じて、身を引いた。

「納得できない、なぜあなたが私の行動を制限するの?」

 怒りを滲ませた声で問いかけると、リアンは目を細めて口の端を吊り上げた。

「分からないのか? 全部お前たちにされたことだ」

 私たち……ラフェリエールにされたことだと言うの?

「私はやってないわ、全部お父様が原因よ」

「主犯はな。だが同じだ」

 容赦ない物言いに、目の縁に涙が盛り上がる。今のリアンは変だ。話題を変えなければ。

「……私がいなければ継続的に薬を飲んでいる人が困ってしまうわ」

 ぽろぽろと涙を零しながら訴えると、リアンが笑みを深くする。

「そうだな」

 その言葉に希望を持つ。

「でしょう? だったら……」

「王宮薬師の弟子がそろそろ独立する頃だと言っていた、彼に跡を継がせよう」

 頭をガツンと殴られたような衝撃が走る。

「そんな……横暴だわ。私の店よ!」

 あの店は私が譲り受けたもの。リアンに壊されてたまるものか。

「クレアにあの店を譲った薬師は、その弟子の親族だ。彼に渡して、元に戻すのが摂理だろう?」

 親族……なぜそれを知っているの?

 そういえば、王都にやってきて私は、異様に早く仕事に採用された。そして都合よく、歳を理由に退いた先代の店を貰い継いだ。なぜ疑問に思わなかったのだろう。


「もしかして……リアンが全部仕組んだの?」

 リアンは何も答えず、艶然と笑った。


 その笑みが答えだった。


「全部知ってたってこと? 私が薬屋を開いていたことも、懸賞金を出して私を探していたあなたに怯えて、隠れ住んでいたことも」

 あまりの仕打ちに、身体の震えが止まらない。

 正面から睨みつけるも、リアンはその視線を軽く流して、私に近づいてきた。

「クレアが薬屋に対して異常に執着するのは、客に感謝されることで承認欲求を満たしていたからじゃないか?」

「……え?」

 心臓がどくんと大きく跳ねた。

 黄金の瞳に、怪しく、危ういものが宿る。

「幼少期のラフェリエールの教育からか、人から必要とされたい、自分に価値を見出して欲しいという欲求が、クレアは人一倍強いようだ」

「違う、違うわ……」

「何が違うんだ?」

 リアンが遮るように口を開いて、膨らんだ言い返そうという反抗心が萎み、押し黙る。

「私はただ、人の役に立ちたくて──」

「本当に?」

「え?」

 どこか浮かされているような調子のリアンがゆっくりと手を伸ばして、私の頬に触れる。

「だって、クレア……お前は、俺が王子だと気づいていただろう?」

 耳元で囁かれた内容に顔を逸らそうとするが、頬に添えられた大きな手がそれを許してくれなかった。

「地下には他に捕らえられていたものも大勢いた。それでもクレアは俺だけを助けて、他は見殺しにした」

「違う……」

「違わない。俺は王子だから助けたのだろう? ふっ、ずるい女だ」


 その言葉にぷつん、と“クレア”を保っていた矜恃の糸が切れた音がした。


 小さな声で、呟く。

「なんだ?」

「ええ、そうよ。あなたは王子だったから助けてあげた」

 真っ直ぐに彼の瞳を見返して、捲し立てる。

「しょうがないじゃない! 生まれた生家が、ラフェリエール家が、中心まで真っ黒の腐った地獄だったんだもの。見殺しにしなかったら、私が殺されていたわ!」

 リアンは変貌した私に、獣のような爛々と輝いた瞳を向けて、低く笑う。

「そうして、助けられた俺はクレアの狙い通り、お前だけは殺すなと父上に進言した」

「ええ、上手く当たったと思ったわ」

「だから、俺がクレアに好意を抱くことも、思い通りなのだろう?」

「え?」

「クレアの本音も全て分かった。ひどいじゃないか、幼年の純情を弄ぶなどと。だからクレアは責任を取って、俺と結婚しないといけないな」

 触れればたちまち火傷してしまいそうな熱を持った瞳で請われ、後ずさりする。

「なに、言ってるの……?」

 目の前の男は、意味不明な理屈を並べて、結婚しろと言う。私が……この国の王である、あなたと?

 リアンにはアリスティアという立派なヒロインがいる。まだ出会っていないのかもしれないが、彼女がリアンの運命の人だ。

「お受けできません、陛下。今の私は平民です」

 硬い口調で断りをいれるが、

「問題ない。クレアは王族の傍系であるスウィフト家の養子になっている」

 リアンが衝撃的なことを滑らせた。

「……養子?」

 何から言えばいいのか、予想外すぎて頭が回らない。

「誰からも文句は言わせない。クレアは安心してスクワイアに嫁げばいい」

 月明かりに照らされて、黄金の美しい瞳が私だけを捉えていた。瞬きもせずにずっと瞳の中に私を映している。


 何故かリアンの瞳に底の見えない、得体のしれなさを感じてしまった。


「ひっ……」

 そんなどこか興奮しているようなリアンの様子に、思わず小さな悲鳴をあげて腕を振りほどき、後ずさる。

 伺うようにリアンを見上げると、その様子を見たリアンは黄金の瞳が瞬くと同時に、様々な感情をこそげ落としたような、凪のように静かな目で私を見つめた。

 場にしばし沈黙が満ちると、リアンはぶるぶると身体を小刻みに震わせて、喉の奥で笑った。

 笑い声が廊下に響き渡る。

 尋常ではないその様子に、両腕を抱きしめるように縮こまる。


「……クレア」


 リアンが切なそうな声で、私の名前を呼ぶ。首を傾げながらこちらへ一歩、また一歩とゆっくり近づいていく。

「なんでいつも、離れる……? なぜいつも、いつも! 俺から逃げるんだよ……」

 リアンが一歩近づくごとに、恐怖を感じて一歩後ろへと後ずさる。

 トン、とついに背中が冷たい硝子窓に当たって、それ以上後ろには行けなくなってしまった。

 その間、リアンはまた一歩近づいて、私の目の前に立つ。

 もう逃げられない。腹を括って、正面から彼を見据えた。

「リアン、どうか落ち着いて」

 恐る恐る刺激しないように話しかける。


「俺は、クレアにとってまだ目障りなのか?」


 目障り──二年前、リアンと別れる時につい放ってしまった棘まみれの言葉。

 ぽた、と私の頬に一粒の涙が零れ落ちる。

 透明度の高い宝石のような目から、流れた涙だった。

「クレアにとって、俺はっ──」

 リアンが、泣いていた。

 王様になったのに、誰よりも高い地位についているのに。


 あなたは私の言動一つで傷ついてしまうのね。


 呆然とした後、ああ、と思わずゆっくりと手を伸ばす。

「そんなことないわ、違うの。ごめんなさい、リアン」

 月光で、彼の流れた涙がきらきらと瞬いて、滑り落ちた。

「あの時はあなたを逃がすことに夢中で、思ってもないことを言ってしまったの」

 陶器のような頬に触れて、指先で涙を拭う。

「目障りなんて、思ったことない」

 リアンの大きな手が、頬から離そうとした私の腕を、掴んだ。


「今更、信じられるとでも?」


 そう言うと、リアンは苦しそうな顔で唇の端をゆがめて笑った。






◾︎◾︎◾︎






 リアンが私の左手の薬指を口に含み、歯を立てる。急に感じた痛みに身体が、指を引き抜こうとするけれど、彼は更に強く噛みつき、腰に腕を回した。

 ぽた、ぽたと私の白い腕を伝って、指の付け根から赤い血が流れていく。

 涙目で、抗議の意を含んだ視線を送っても、リアンは正面から平然と見返して、輪の形になった歯型を舐めた。

 それでも、逃れようともがくと、すぐにリアンの腕が絡みつく。自分より大きな身体に骨が軋むほど強く抱きしめられて、胸が苦しい。

「もう俺から逃げられないな」

 リアンは私の顔を見下ろしながら、ぞっとする声で囁いた。

「クレアが俺を拒絶しようとも、絶対に」

 反射的に腕の中から逃げようとするが、リアンがそれを許さない。

 最後に吐いた嘘がどれほどリアンの心を傷つけたのか、私は分かっていなかった。それまでの全てが私の演技だったと考えてしまうほど、深くまで抉ってしまっていた。


 でも、それがなんだというのか。


「リアン──」

 薬指から流れた血で濡れた指先を、リアンの輝く瞳に伸ばして、目元をなぞる。これはあなたのせいだと、皮膚の奥まで、染み込ませるように。

 私という最後のラフェリエールの毒を、一生抱えて生きていけと呪いをかける。


「どうか、私をゆるさないで」


 私は片頬をゆがめて、少しだけ笑ってみせた。


 あなただけは、絶対幸せになんてさせてあげない。

 彼に呪いをひとつ吐いた。

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ラフェリエールの毒 @eri_han

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