第7話
目を覚ますと、一瞬自分がどこに居るのか分からなかった。空気が乾燥しているのか、それともとてつもない副流煙のせいか、喉が痛い。
枕元には水の入ったガラス容器と、コップがひとつ置いてあった。満月が寝ている間に黒方愛子が用意してくれたものらしい。
それを見た途端、無性に喉の渇きを感じた。水を注ぎいっきに飲み干したいところだが、満月にはそれが出来なかった。小さい頃からの癖で、コップを水ですすいでからでないと使用することができないのだ。
コップを持ち洗面台に向かおうと立ち上がる瞬間、入り口のふすまがスッと閉じた気がした。村人の誰かが訪ねてきたのかもしれないが、時計を見ると午前六時をまわったところだ。陽は完全に昇っているが、田舎者の朝の早さに呆れる。
廊下に出ると、人がぞろぞろ着いてきた昨日とは違って、シンと静まりかえっていた。外の明かりが入り、中は明るく照らされているのにどこか気味悪さを感じる。
満月は洗面台に向かって歩き出したが、廊下の両脇にある締め切った障子の向こう側に、大勢の人間が潜んでいるような気がして早歩きになった。
部屋に戻ると、朝食が用意されていた。朝日を受けた湯気が、汁椀から立ち上っている。布団も綺麗に片付けられていた。これも黒方愛子がしてくれたに違いない。彼女は、満月が部屋を出るタイミングを見計らって、諸々の用意をしてくれるらしいのだが、昨夜、顔を合わせて以来一度も黒方の姿を見ていない。気配も全く感じない。この部屋の近くに待機しているならば、物音がしたり、すれ違ったりするのが普通だと思うのだが。そういうものが一切感じられなかった。
ああいうのが忍者の末裔だったりするのだろうか、なんてことを考えながら朝食を済ませた。
歯を磨きに部屋を出る。襖を閉めて、すぐに振り返り襖を開けた。中の様子に変わった所はない。食べ終わった朝食の茶碗類もそのままである。
洗面所で歯を磨き、部屋に戻るとそれらはもう綺麗さっぱり無くなっていた。部屋を出て五分と経っていない。ここから洗面所までは徒歩で数十秒である。いくら丁寧に片付けをしたとしても、茶碗である。少しくらいの音は聞こえると思うのだが、それに、満月以外の足音も聞こえない。もしかすると、本当に忍者なのかもしれない。
しかし、いまはそんなことどうでもいい。深い呼吸をしてから、座布団の裏を確認してみると昨日渡された茶封筒があり、中身を見ると札束が入っている。夢では無い。
昨日、満月は一〇〇万円を貰ったのだ。一〇〇万円だ。こんな大金を実際に見たのも初めてであり、手に持ったのも初めてだった。昨夜貰ったものであるが、あのまま、まじまじと見ていたら気がどうにかなっていたかもしれない。ひと晩おいても、動悸がし手足が震えている。
この金を貰ってしまった手前、もう後には引けない。どうにかしなければならない。
でもやっぱり、どうにもならないことは満月が一番分かっていた。ハッキングのハの字も知らない自分が、いったいどうすればいいのか。そもそも、米の値段を上げるためにはどうしたらいいのか。それすらも分からない。どこのどのデータを、どうしたらいいのか。何も、さっぱり、一切、全くもって分からない。
とりあえずパソコンを開いて「ハッキング 方法」と検索し、一番上に表示されたサイトを見てみるが、何も頭に入ってこない。単語ひとつをとっても意味が分からなかった。本でも買ってじっくり読むしか無いか、などという悠長なことを考えたりもしたが、今からハッキングを学ぶとなるとそれなりに時間もかかるだろう。そもそも、そんな本を読んでいるところを見つかれば、大変なことになりかねない。では、貰った百万円を元手にハッキングスクールにでも通うべきかなんてこも考えたりしたが、そんなスクールが存在しているのか、存在していたとして、どうやってこの村から通うのか、村人にはなんと言い訳をすればいいのか、そしてやはり実用的な知識を要するまでにいったいどれくらいの期間がかかるか、到底予想できるものではなかった。
こうなれば、この百万円を山の麓の街でぱーっと使ってしまい、盛大に火あぶりとなって人生を終えようかなどと考えていると、襖がザーッと開いて、えびす顔の長田が入ってきた。
開口一番「先生、流石です」と言って、おでこを畳に擦り付けた。
当然、何のことか分からず「えへへ」と、不気味な笑いをすることが精一杯だった。
「私はてっきり、今日から頑張っていただくと思い込んでいたのですが、まさかまさか、昨夜のうちにもう仕事は済んでいらっしゃったとは」
長田は、土下座をしたまま話し続けた。しかし、満月は話の内容が見えてこなかった。
「はあ、あの。まあ、その……」
「そうだ先生、これをご覧ください」
長田は、満月の前に新聞を広げた。新聞には米の買い取り値段が暴騰したという話題が大きく書かれていた。
「さっそく新聞に載っています。いやすごい。先生ありがとうございます」
長田は、おでこを畳に叩きつけて言った。「はあ、あの。どうも……」訳も分からず、苦笑いをするしか満月にはできなかった。
なんとなしに庭を見ると、直径一メートルほどの空間がぐにゃりと歪み、そこがにわかにブルブルと震えだした。
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