第3話
そんな妄想から覚めると、満月はちゃぶ台の上にあるまだ保護シールの剥がされていないノートパソコンを見て、ハッキングとは恐らく映画などでよく見るあのハッキングだろうなと思ったが、実はハッキングとは一概に悪いとは言えない行為も指す言葉だと聞いたことがあったので、長田が果たしてどちらの意味でハッキングと言ったのかを確認する必要があった。
ハッキングと聞いて、昔好きだった映画のワンシーンを妄想してしまった自分が恥ずかしい。
「ハッキングですか……。あの、そのハッキングとは一体どういったハッキングでしょうか」
「ハッキングと言ったら、あのハッキングに決まってっぺよ。なあ?」
長田は、満月の後ろのずらりと並んだ村人たちを見て言った。
長田の視線につられて満月が後ろを振り向くと、村人たちはんだんだと相づちをしながら、あのハッキングだっぺ、あのハッキングだっぺと繰り返し、老人の口から発せられるだろうハッキングという言葉を一生分聞いた気がした。
「あの、つまりその、あのハッキングと申しますと……」
満月は、あのハッキングというものは、やっぱりあのハッキングだろうなと思っていたが、もしかすると、自分の知らないハッキングというものがあり、それは人差し指だけでパソコンに文字を打つことしかできない自分にも可能なものなら良いなと思った。
「だから、ハッキングと言ったらあのにゃむにゃむにゃむ……」
長田の入れ歯が突然調子悪くなってしまったので代わりに説明すると、つまりハッキングというものは、まさに映画などで見るあのハッキングであり、パソコンを高速でパチパチやり、何かしらをして標的のデータを改ざんしたり、盗んだり、法的にいけないことをして、こちらに利益を得ることに決まってるだろう、というようなことを言いたかったのだろう。
入れ歯の調子が戻った長田は、たばこを一本取りだして火をつけた。最初の一口を大きく吸い込むと、怪獣のように煙を吐き出しながら言った。
「そのハッキングで、米の値段を上げて欲しいっちゅうわけだ。なあ?」
んだんだ、とうなずく老人たちも、いつの間にかタバコを吸っている。
「俺たち米農家はほとんどが赤字だ。それでも俺たちには米を作って売るしかない。こんな田舎じゃ他の仕事もたかが知れてるしな」
どこからか人数分の座布団が運ばれてくると畳の上に並べ、同時にガラスで出来た無駄に大きな灰皿も置かれた。長田を始め、その他の村人がどかどか座ると、立っているのは満月だけになった。
満月はハッキングなぞやったことはないし、パソコンだってどちらかというと苦手なのに、日本政府にハッキングを仕掛けて米の値段を上げろなどという、無茶な要求に腰が抜け、膝の力が抜け、崩れ落ちた先には座布団があり、ちょうど綺麗な正座となって着地した。
「どうしてハッキングなんですか? もっとこう、直談判に行くとか……」
「そりゃ何度も農協に行って話したっぺよ。でもよ、上が決めたことだからとかなんとか言って、俺たちの話なんかちっとも聞いてくれねえ。決まりなんで決まりなんでってよ、二言目にはそれだ」長田は、根元まで灰になったタバコを灰皿で強くもみ消すと、新しい一本を口にくわえて火をつけた。「それで思ったんだ。俺はこんな奴らのために米作ってんじゃねえってな。でも米作りを止めるわけにはいかねえ、生活が出来なくなっちまうからな。役所の連中は話が通じねえ、でも米作りを止めるわけにはいかねえ。だから、ハッキングなんだっぺよ。あいつらが聞く耳を持たねえってなら、こっちだって強硬手段にでるしかねえべ」
「……他になにか方法はありませんかね。ハッキングに頼らずとも、何か他に……」
「いや、ハッキングしかねえべ」と、長田はそれ以外に何があると言わんばかりに答えた。
なあ、と周りにいる村人に問いかけると、んだんだ、そうだそうだ、そうだっぺよ、と言い、二言目にはハッキングしかねえべと言って、そのあとは大体シュボっというタバコに火をつけるライターの音が聞こえるのだった。
「前の村長は大人しい奴だったからそんなことは一言も言わなかったけどな、俺は違う。大人しく国の言いなりにはならねえべ。ハッキングだべ」
長田の言葉にトゲを感じた。前村長とは上手くいってなかったのか、それとも方言交じりの言葉に違和感を感じただけだろうか。もしくは、場の雰囲気に気おされているだけかもしれない。
「……その、もしハッキングが成功して、お米の値段を上げれたとしてもそんなに意味がありますかね」両手の指先をもじもじと遊びながら、満月は言う。
「日本の景気は悪いですし、米の値段が急に上がったら米の売り上げは減るような気がするのですが」
長田は二本目のタバコをもみ消し、三本目のタバコをつまみながら言った。
「いや、それでも売れるべ。日本人は米が大好きだっぺよ。生まれてから死ぬまでずっと米食ってっぺ。だから米の値段が上がっても、やっぱり買う。どうしても買っちゃうんだな。日本人の体が、本能が米を求める。だから大丈夫だっぺ。それによ、米の値段が上がったことで米のありがたさを分かってくれるべ。んだ、日本人はもっと……米のありがたみを知った方が良いべ!」
長田老人の突然の激高に、満月は後ろにひっくり返りそうになった。長田は四本目のタバコに火をつけようとしているが、興奮しすぎたのか手元が震えてなかなか上手くいかないようだった。
「んだんだ、ありがたみを知った方が良いべ」と、他の村人たちも後に続く。そしてやっぱり「ありがたみを……知った方が良いんだべ!」と、ひとりが大声を上げると、他の者も「そうだっぺ、知った方が良いべ!」という風に、村人たちの温度が一気に沸騰したのを見て、これは不味いことになったと満月は思った。
「あんた、ハッキングが得意なんだっぺ? 確か電話でそう言ってたどな」ようやくタバコに火がつい長田は、落ち着いた様子で言った。
「あ、ああ、はい……」
満月はここに来る前、長田から電話を受けたとき確かに言った。
——じゃあ満月さんは、パソコンがお得意であると、そういうわけですな?
——ええ、そうです。得意か得意じゃ無いかで言えば得意です。(文字くらいは打てるし)
——なるほど。じゃあハッキングなんかも朝飯前だ?
——え、あっはっは。はい、ハッキングだってモンダミンだってもちろんできますよ。(この人、映画の観すぎだな)
——そうですか、そうですか。そりゃよかった。じゃあ、採用ということで働いてもらう場所は……
というふうに、老人の戯言だと思って笑って合わせたのは確かだったが、まさか本気だとは考えもしなかった。まさかハッキングの仕事をハローワークで募集するとは誰も考えまい!
……当たり前だが、満月にハッキングなど出来るわけが無いし、キーボードを見なければ文字だって打てないし使うのは両手の人差し指だけで、インターネットを使えば必ず外国の成人向けサイトに迷い込んでしまうこともあれば、固まったパソコンの直し方が分からず、1週間にらみ続けたこともある。つまり、パソコンが得意とはとても言いがたい人間であることは確かである。しかし、正直にそんなことを言っていれば、ありつけるものにもありつけない。仕事の面接とは、いかに自分を大きく見せるか、それが合否の分かれ目であると誰かがどこかで言っていた。言っていなかったかもしれない。
満月は再び、ハローワークの超良心的な伝説の職員五条丸雅俊の顔を思い浮かべる事になった。五条丸は笑いながら、満月を見ていた。馬鹿者を諭すような、全てを包み込むような、仏様のような顔でこちらを見ていた。五条丸は福耳だった。
謝ろう。嘘をついたと、申し訳なかったと。金に目がくらんだ自分が悪いんです、楽して金が稼ぎたかったんです、自分は馬鹿者なんですと。そうやって正直に謝れば、まあ、許してくれそうな気がする。田舎者はおおらかだと聞くし、たぶん大丈夫だろう。きっと大丈夫。大丈夫だよな、きっと、たぶん大丈夫に決まってるさ。だって田舎者だもの。許してくれるさ。なあに、心配はいらない。絶対に許してくれるって。大丈夫大丈夫。そうさ、大丈夫。でも少しだけ……、いや大丈夫だろう。田舎者は優しいに決まってるって、信春おじさんが言ってたし。大丈夫大丈夫。でも本当に大丈夫か? いや、大丈夫だよ。本当に? お前さっきからなんだよ。大丈夫に決まってるだろ。いやあ、どうだろうねえ。なんだよ、言いたいことがあるなら言ってみろよ。まあ、言いたいことがあるとか無いとかじゃないんだけどねえ。果たして本当に大丈夫なのかなと思ってね。大丈夫に決まってるだろ、信春おじさんが言ってたんだぞ。その信春おじさんは、いま刑務所の中だ。……。電車で痴漢をして、嘘の言い逃れをしたあげくバレて捕まったんだ。……そうか、信春おじさんは捕まったんだ。そうだ、信春おじさんは痴漢で捕まったんだ。でも大丈夫。大丈夫? どうして? 春代おばさんは優しいからさ。
大丈夫。
そのとき、宇宙の片隅ではボマラッティ族最後の生き残りである、チャーミー・ゴマ・ブルンブルン五世が目的地に到着することを夢見たまま、大福のようなものを喉に詰まらせて絶命するところであった。これは、本筋に一切関係ないことなので忘れて頂きたい。
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