第2話
結局、何の鳥かは分からなかった。
老人は田原ジンという名前で、満月を迎えに来たこと、勤務地はここからそう遠くない集落であるということ、さっきのカラスはまだまだ諦めてはいないということ、タバコはいつもマイルドスペシャルナインであること、山田スズメという昭和の終わりに一瞬だけ売れたアイドルが好きだったことや、カラーテレビが人間の質を下げた理由なども教えてくれたが、なぜか年齢だけは頑なに教えてくれなかった。
白髪で覆われた頭はよく見ると頭皮が透けて見え、顔中には深いシワが刻まれていることから、どう見積もっても60歳を超えているだろう風貌をしていたが「あんたが思っているよりも若いよ」と薄ら笑いを浮かべるので、それ以上は言及しなかった。
しかし、軽トラのダッシュボートには無造作に置かれ、日に焼けホコリをかぶった田原の運転免許証があり、そこには昭和31年生まれと書いてあったということは、計算すると68歳であることが分かった。そのすぐ下には運転免許証の有効期限が見えたが「平成」と読めたところでそれ以上は見るのをやめた。今は令和である。
あんたが思っているよりも若いよ、という言葉の意味を頭の中でぐるぐる回しながら、永遠に続くと思われた砂利道を進み続ける軽トラックは、いつの間にか舗装された道路を走っていた。それもそのはず、舗装されてはいるが軽トラックの乗り心地はほとんど変化していない、いや、なまじ舗装されてしまっているので所々に空いた大きな穴があだとなりガタガタからガタンガタンに感じる始末だった。
砂利道から抜けたということは、もうそろそろ目的地に着くのかと思ったが、やはりこの道も地平線の向こうまで伸びており、行けども行けども同じ景色が続くばかりだった。
満月は、超良心的なハローワークの伝説的職員である五条丸雅俊の「人生楽あれば、苦ありだからね。満月さんも今は大変かもしれないけど、きっと良い仕事が見つかるよ。だからこの求人だけはやめておいた方が良い。悪いことは言わないから、他を探しましょう。私たちもお手伝いしますから」という会話を思い出していた。
超良心的なハローワークの伝説的職員の忠告を無視してしまったばかりに、悪夢のような永遠の田圃道を進み続ける満月は、やはりこれはハローワーク側の試練なのではないか、どこか向こうの方から望遠鏡でこっちを見ているハローワークの職員たちがいるのではないかと思ったが、見渡す限りの田圃に人影は無いし、空を見ても監視ドローンの代わりに飛んでいるのはカラスかトンビくらいだった。
不安で頭がいっぱいだった満月は、田原の妻が卵を丸呑みにする健康法に熱心になっていることや、その健康法で去年、親戚のひとりが死んだことや、税金が無ければいまごろ俺は大金持ちだったはずだ、という話は全く入ってこなかった。
「あの、僕はどこで働くのでしょうか」
「ああ、大丈夫。もう少しで着くから。大丈夫大丈夫」
「はあ、そうですか」
何が大丈夫なのか全く分からないが、田原は軽トラックのハンドルを片手で器用に操りながら、とっくに満タンを過ぎた灰皿にタバコを突っ込むと、おそらく八本目であろうタバコに火をつけたので、この人の体調こそ大丈夫なのかと思った。
それから、もう少しという言葉の範囲をだいぶ過ぎたころようやく村に到着し、これはハローワークの罠ではないのかもしれないとやっと思えた。
そこは田舎の村という言葉以外では表せないほど、田舎の村であり、もしこの村を他の言い方で表す言葉があるとするならぜひ教えてもらいたいほど、田舎の村だった。
茅葺きの屋根を乗せた木壁の住宅がポツポツと建っていて、軽トラックに乗っていなければ自分は昔話の世界に迷い込んでしまったのでは無いかと錯覚してしまいそうだったが、田原の口から吹き出し続けるタバコの煙で咳き込むと、ああ、ここはちゃんと現実なのだと思い直すことができた。
村のメインと思われる通りは、コンクリートを敷いた道であったが、やはり路面のいたるところがひび割れていて、乗り心地は相変わらず最低だ。
住宅と住宅の間には畑が広がっていて、いや、畑の中に住宅がぽつりぽつりとあると言った方が正しいだろう。畑には何人かの、端から見ても老人と分かる人物が、手ぬぐいをほっかむりにして農作業をしていたが、こちらのガタガタという騒がしい音に気がつくと、手を止めてゆっくりとこちらに向かって振り向くのだったが、その動きがデジタルなスローモーションに見えて薄気味悪かった。
ネコイヌウシブタニワトリなどが、放し飼いになっているようで何の束縛も受けずに自由に存在していた。一見すると人間と動物が自由に暮らせる場所のように思えるが、いたる所に立っている案山子を見るに、カラスだけは受け入れられていないようだった。
それらの景色を左右に見ていると、前方に大きな瓦屋根が見えてきた。他は茅葺きであるのに、この家だけが瓦で他の家々よりも一回りも二回りも大きかった。敷地をぐるっと塀に囲まれていて、さながら時代劇の中に迷い込んでしまったのかと錯覚するほどの屋敷だが、隣から継続的に流れてくるタバコの煙を吸い込む度に、ああそうだ、ここは現実なのだと思い直すことができる。
軽トラックは屋敷の敷地内に入ると、玄関の前で停車した。
後から遅れてやってきた土ボコリが風に飛ばされると、玄関の前にはいつの間にやら数人の村人らしき人物がたっていた。
誰もが老人とすごい老人で、若いと思えるひとりもいなかった。
「満月さん、ほれ、ここがあんたの職場だっぺ」
そう言って田原は、流れるように軽トラックを降りた。満月もあとに続いて降りると、すぐに一人の村人がニコニコと近寄ってきて、代わりにドアを閉めてくれた。
ベァン、という景気の良い音が響くと、村人たちは笑顔で「ぴっぽっぱ」と言った。
満月が戸惑っていると、それに答えるように田原も「ぴっぽっぱ」と言った。
なるほど、これはこの地域独特の方言か何かで、こんにちはとか景気はどうだいのようなそんな類いの意味合いの言葉なのだろうと思ったが、そのあとすぐに「こんちは。遠くまで大変だったべ。私がこの村の村長で満月さんに仕事を頼んだ、長田だ」と言ったあと、他の村人たちも口々にこんちわと言ってきた。
喉元まで出かかった「ぴっぽっぱ」を、なんとか飲み込み「どうも……こんにちは。満月鉄矢です。よろしくお願いします」そう言って、一礼をした。
長田は齢70を超えていそうな風貌で、ヨレヨレのポロシャツのポケットからはタバコが覗いていた。白髪で茶色に日焼けした肌と、泥だらけの地下足袋からして農家であるのは間違いないだろうが、腕にはどう見ても高級な時計をはめており、笑ったときに見えた前歯は黄金色に鈍く輝いていた。
それは村長だけでなく、他の村人たちも同じで一見するとみすぼらしい格好をしているのだが、時計や指輪などはやたらにごつく金銀に輝いているものばかりだった。
満月は、超良心的なハローワークの伝説的職員の五条丸雅俊の顔を思い出しながら、ほらやっぱり自分の選択は間違いなかったのだと思った。世の中まだまだ捨てた物じゃない、困った人の元には神様が救いの手を延べてくれるのだと、クリスマスもお盆も正月もバレンタインもハロウィンも楽しむ無宗教代表のようなこれまでを生きてきた満月の顔には、楽して金を儲けて何が悪いという、薄汚れた笑顔が浮かんでいた。
仕事場はこっちだっぺ、という長田のあとに着いて家の中に入ると、後ろから村人たちも着いてくるようだった。
玄関だけでも相当な広さがあり、巨大な大木から切り出した一枚板の衝立や、人を何人殺したのだろうかというほどの恐ろしくでかいスズメバチの巣、これがイエティと間違われたのではと思えるほど大きな熊の剥製、浦島太郎がもらったのはこれだと言われたら信じてしまうほど高価そうな玉手箱などが飾ってあり、満月が東京で住んでいたワンルームよりも遙かに広かった。
靴を脱いで玄関から上がると、足元がひやり気持ちよかった。廊下と呼ぶには幅がありすぎる廊下を進むと、突き当たりを左に、その先を右にと曲がり、その先の突き当たりをさらに曲がるので、いったい自分はいまどのあたりにいるのか全く分からなくなった。
外から見てもかなり大きな家だとは思ったが、実際中に入ると予想を超えた広さがあり、しかし、どれくらい部屋数があるのかは全く分からない。廊下に面した部屋の障子が全て閉じられていたので、果たしてそれが一つの大きな部屋なのか、それともひとつひとつの分かれた部屋なのかが確認できなかった。
しかし、これだけ大きな屋敷で暮らし、前歯は金歯、値段の張りそうな時計をしているところを見ると、長田はこの辺りを取り仕切る権力者のような存在なのかもしれず、そう思うと、満月の頭の中は月給百万円という文字がぐるぐる回り、伝説的職員の五条丸雅俊の顔もあっという間に忘れてしまった。
だいぶ歩いたはずなのに、到着した部屋からは玄関先の庭が見え、さっき乗ってきた田原の軽トラックが見えた。
そこは十畳ほどの広さで、満月の正面は二畳分の床の間があった。その壁一面を覆い尽くすほどの大きな掛け軸があり、ミミズのような細かい文字が上半分にびっしりと書かれ、下半分は忍者のような人物が数人と刀を持った侍のような人物が対峙した場面が、ふたつみっつ描かれていた。
文字はその場面を説明しているように見えたが、これを解読するのは難しいだろう。
掛け軸の前には、たいそう大事そうに飾られた大小の刀と、鉄の面のようなものがあった。
まさか、本物の刀じゃないよな。
ふと、田舎者は物騒だということを、いつかどこかで見たのか聞いたのか読んだのかは思い出せないが、そんな情報を頭に入れた気がした。
温厚そうに見えるこの村人たちだって、裏を返せば残虐極まりない二面性を持ち合わせているのかもしれない。
部屋には、ちゃぶ台と座布団が用意され、その上に小さなノートパソコンが一台置いてあった。隅にはそのパソコンの外装と思われる段ボールが置いてあった所を見ると、この仕事の為だけに購入したのだろう。
仕事の詳しい内容はまだ聞いていないが、いままで鉛筆と紙を使ってやっていた何かしらの作業を、パソコンで管理しようとでも思っているのかもしれない。
「じゃあ、パソコンは用意しといたから。あとは満月さんのやり方で頼むべよ」
後ろからついてきていた村人たちも、んだんだ、そうだっぺよと和やかな雰囲気だった。
「これでうちの村も安心だっぺ」
「役場の連中もびっくりすんだろうな」
「憎らしいかったけど、これで清々すんべ」
「明日っからまた畑仕事のやりがいがあっぺよ」
安堵する村人を見ていると、よほど面倒な作業だったに違いない。しかし、それはパソコンというものが存在しない環境でのことであり、おそらくそういった問題はとても簡単に解決するはずである。デジタル化の流れに置いて行かれた田舎者を思うと、満月は苦笑いをして「そうですね」と言うのが精一杯だった。かといって、自分もパソコンを使いこなせるわけではないのだが。
満月は、笑いながらバッグの中から求人票を出した。仕事内容はパソコンの出来る人、と書いてある。村の予算管理でもするのだろうか、そんな経験は無いが予算管理のソフトでも使えば恐らく簡単だろう。
「あの、それで仕事内容なのですが、具体的に何をすればいいですか。求人票にはパソコンの出来る人、としか書いてないのですが」
満月が聞くと、長田は笑顔で答えた。
「日本政府のコンピューターをハッキングすんだっぺよ」
満月の頭の中に、五条丸雅俊の顔がはっきりと再構築された。ホクロから生えた毛まで見えた。
瞬間、地響きのようなものが聞こえ、屋敷全体が揺れた。あまりの揺れにその場にいた全員がバランスを崩し、畳の上に倒れた。
「あれを見ろ」
ひとりの村人が指差した先を見ると、庭の地面が割れ、中から人間の頭にも見える巨大な何かが出てくるところだった。
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