田舎のベァン
中野半袖
第1話
宇宙では春、地球では秋のことである。
住み込み月給百万円というとてつもなく怪しい、良心的なハローワークの職員ですら本気で止める求人に応募した満月鉄矢はいま、地平線の向こうまで広がる稲刈りの終わった田圃地帯のど真ん中に立っていた。
その求人に応募したのは満月以外に誰一人としておらず超良心的なハローワークの伝説的職員とも言われる五条丸雅俊の制止を振り切って、履歴書を勝手に送付すると、翌日には電話がかかってきて、はいもしもしといった三分後には採用と勤務地と明日には来てくれんだっぺな、というカップラーメンもびっくりのトントン拍子で働くことになったのだ。
ところが、指定された場所でしばらく待っているのだが、いつまで経っても誰も来ない。向こうの田圃に降りたったカラスが、めぼしい餌が無くなったのでもうひとつこちらの田圃に移動してきて、そこでまた餌を探していると、どうやら小動物の死骸を見つけたようでついばみ始めたが、運悪くトンビがやってきて、向こうは二羽、こっちは一羽なので後ろ髪を引かれる思いで飛び立っただろうカラスを見送ったが、それでも誰も来る様子は無かった。
やはり月給百万円などという、上手い話など無いのだ。これは、楽して金を稼ごうという馬鹿者にハローワークが用意した罠で、おそらくどこか遠くの方から望遠鏡を通して、待ちぼうけをしている間抜けな自分を見ているに違いない。ちくしょう、悔しいがこれを機に真面目に働くか。しかし、そうなるとまたハローワークに行く羽目になり、再び職を探しにノコノコやってきた馬鹿者の自分をマスクの下で嘲笑する職員たちに囲まれながら、歯を食いしばって求人を探すしか無いと思うと、気が重かった。
足元にある大きな砂利を蹴り飛ばし、その下の土をつま先でぐりぐり穴をあけ、そばにあるまた別の石をその中に入れると、土をかぶせて穴を埋めた。そんなことを三、四カ所でやったが、やはり誰もやってはこなかった。
満月はがっくりと肩を落とし、南に向かって歩き始めた。最寄りの駅まで二時間の道のりをもう一度歩くのかと思うとさらに気が重かった。
ああ、なんで自分はトンビじゃないんだ。もしトンビだったら、カラスが見つけた餌を奪い取って食べ、満腹になったら空に飛び立ち、次の空腹が来るまでぴーひょろぴーひょろ鳴いているだけでいいのに。
そうやってまた、どうにかして楽なことだけしていきたいと考えていると、どこからともなく「おーい」と言う声が聞こえた。
こんな田舎だから見たことも聞いたことも無い知らない鳥がいるのだろうし、その鳥の鳴き声が「おーい」だとしても何らおかしいことは無いのかもしれないが、満月の心の底から湧き出る楽をしたいという気持ちが、もしかしたら今の「おーい」は人間のものだったかもしれないと思わせた。
満月は足を止め、辺りを見渡したが果てしなく伸びる田圃と砂利道があるだけで、自分以外の生き物といえば、二羽から三羽に増えたトンビと、恨めしそうに上空を飛ぶカラスだけで、なんだやっぱり気のせいかと思ったとき、さっきよりもはっきりとした「おーい」が聞こえた。
二度目の「おーい」は、一度目の「おーい」よりも近くに感じ、それと一緒にガタガタという音も聞こえてきた。
満月が振り向くと、まっすぐ北に延びる砂利道の向こうから、もうもうとホコリを巻き上げた軽トラックがこちらに向かって走ってくるのが見えた。
十月だというの、この残暑はいつまで続くのかと思われるほどの気温で出現した蜃気楼の上にのって、元は白だったらしい泥とホコリとその他もろもろで汚れたような軽トラックの運転席から、老人が右腕を出して手を振っている。よく見るとその手先には、吸いかけのタバコが握られていたが、満月の近くに来るまでにはポイと捨てられ、慣れた手つきでどこからか新しいタバコを取り出し火をつけたところで、満月のすぐ横に到達した。
「あんた、満月さんか? 満月鉄矢さんだな?」
白髪でおでこの後退した老人の顔は、脂ぎって茶色だった。ギロリとこちらに向けられた目は、まるで熊のように思えたが、満月は動物園にいる油断した熊しか見たことはない。
この老人が果たして月給百万円の仕事を持っているのかどうかは定かではないが、その迫力に「は、はいそうです。私が満月、満月鉄矢です」という、おかしな返答しかできなかった。
そのとき、満月と老人の間を一筋の鳥影が飛びぬけた。カラスかトンビか、はたまたスズメか。しかし、そんなことは……。
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