遺されたもの

遺されたもの - 1

 西暦二二六五年に三百歳を迎えてから半世紀がとうに経過している。アメリカの特殊部隊に所属するアンドレイ・ゼフィンは時間の経過と死ななくなった自分の体を実感するしかなくなっていた。


 メトセラの子らと名付けられた技術が確立し、老化を止められるようになって百年、世界に全く普及しないこの技術の影響もあり、アンドレイにとって生きやすい世の中にはならなかった。だが不満はない。


元々人間社会は人間が生きるために成立したのだ。そうでない者にとって生きにくいのは受け入れざるを得ない。今日も人間によく似た男アンドレイは人間の一人として生活を送っている。だが、今日は少し憂鬱だ。


ロシア連邦サンクトペテルブルク、三百年ぶりの里帰りをする羽目になったのだ。仕事でモスクワを訪れ、休暇としてもらったこの日を、里帰りに使うように言ったのは彼の部下だ。断ってしまいたかったが、かつて暮らした家が今では博物館らしく、どうなっているのか結局確かめずにはいられなかった。


宿泊しているホテルから地下鉄に乗り、アンドレイはかつて暮らしていた家の最寄り駅で降車した。当然のように駅舎は新しくなっており、改札機も今ではカードを機械に当てる必要性は無くなり、ゲートを通り抜ければ携帯端末内の定期券を勝手に読み取ってくれる。


いくら引かれたのかを考えないようにし、アンドレイは街路を歩いていく。流石に十八世紀に作られた都市というのもあり道は殆ど変わっていない。建物の色は変わっているものもあるが、大体は三百年前と変わらない故郷だ。


だが戻ってきたという実感はない。街はあれど、もうこの街はアンドレイが生きたレニングラードではなく、あの頃生きた人も誰もいない。そのような地を、アンドレイは故郷と呼ばないのだ。


 久しぶりに訪れる地を見回しながら歩いていると、三十年弱暮らした家が目の前に見えた。有力貴族の家とまではいかないが、こうして見れば周りの住宅よりは広い土地を持っている。


常に閉ざされていた門は人々を迎え入れるように開かれ、表札が付けられていた箇所には「旧ゼフィン子爵邸及びロシア帝国博物館」と書かれていた。観光地図の案内によると、ロシア帝国時代のサンクトペテルブルクにおける展示や、二二世紀初頭に活躍した児童文学作家、ゲオルギー・ベスプラントについての展示があるらしい。


後は旧貴族の家の見学が可能と書かれている。かつて祖父の使っていた書斎、アンドレイ自身の部屋、ずっと整理されることがなかった一九世紀のままの空き部屋たち、それらが今どうなっているのだろうと考えつつ、アンドレイは三百年ぶりに実家へ足を踏み入れた。


 二一世紀も終わりに近づいていた某日、アンドレイはヴェネツィアでとある一報を受けた。最後の家族でありアンドレイの甥にあたるナーヴィ・ゼフィンが危篤であり、数日以内にサンクトペテルブルクの家へ来てもらえないか、と。


家族との時間は大切にするべきだ、という仲間から受け取ったことのある助言に従い、アンドレイはすぐに飛行機を予約しサンクトペテルブルクの実家へと向かった。夜遅くだったというのに、家の門の前にはナーヴィの娘である女性がおり、アンドレイを見ると待っていたと話して自宅へと招き入れた。家の中を進み、かつてアンドレイの父親が使っていた昼間になると一番太陽の光が差し込んでくる部屋でナーヴィはベッドで横になり眠っていた。


掛け布団が上下している様子からするに、まだ息はある。どうやら間に合ったらしい。


「父は三年ほど前から肝臓を悪くしていて、二か月前までは入院していたんです。しかし、あなたを待たなければならないと無理やり退院し、最期まで自宅で過ごすこととなりました。正直な話、私はあなたが未だ生きているという事実に対して半信半疑でした。それにあなたは私の祖父の弟と聞いています。父の言っていたことは本当だったのですね」


ナーヴィの娘である女性はそう言って微笑む。すると部屋の奥、ナーヴィのいる方から話声が聞こえてきた。


「お客様か? こんな時間に……。申し訳ないが、要件なら明日にしてもらえると助かるよ」


その声は、掠れていたがナーヴィの声だとすぐに分かった。同時に、彼は本当に生と死の瀬戸際にいるのだとアンドレイは実感せざるを得なかった。


「ナーヴィ、私のことは分かるか?」


アンドレイはナーヴィの寝かされているベッドの元まで駆け寄り、彼の手を握った。ナーヴィはその手を握り返すと、ゆっくりと目を開けた。青いその眼にはアンドレイのことがはっきりと見えていたわけではない。


しかし、手の感触や声、ぼんやりとした視界に浮かぶ人物の姿に確信を得たのか、力無くだが微笑み


「来てくださったんですね……キリルさん。凄い、本当に、変わっていない」


キリル、アンドレイが二十五年だけ呼ばれており、もう二度と誰にも呼ばれることはない名だ。敬愛する祖父から与えられた、聖人キュリロスに由来する。


「ナーヴィ、お前は立派にこの歳まで生き続けた。今の時代、結婚こそが至高ではないが、家族を持ち仕事をし、人々の為に生きた。私はお前の家族であることが出来て、誇りに思う」


元々年齢不詳にしか見えない外見を持つことになったアンドレイだったが、ナーヴィと初めてあった頃は流石にナーヴィより歳上に見えていた。


しかし、長い年月は二人の外見を逆転させてしまった。もしこの瞬間を何の事情を知らない者が見れば、アンドレイをナーヴィの息子か何かだと思うだろう。


「ターニャ。今日は二人にしてくれないか」


ナーヴィはターニャと呼ばれた彼の娘にそう頼む。ターニャは何か言おうとしたが、すぐに口をつぐみ、分かったとだけ答え部屋の扉を閉めた。扉が閉じられる音と共に、静寂が訪れる。


アンドレイは気まずさを誤魔化すかのように部屋から椅子を掴み、ナーヴィの枕元に引き寄せて座ると、久しぶりだなと改めて話す。


「こんな時間に押しかけることになって悪かった。疲れているようなら明日改めて伺おう」


ナーヴィは首を振り、良いんですと答える。


「もう二度と会えないと思っていました。僕の寿命はもう長くありません。今年を超えることも厳しいのです。最後にあなたに会えてよかった」


 死は意外と身近にある。どこかで誰かが常に戦争の為、平和の為、祖国の為、様々な理由で死に続けている。普遍的で、覆ることのない事実だ。にもかかわらず、アンドレイの脳は目の前の死を拒否しようとしてしまう。


家族の死であっても、悲しみなど感じたことはなかった筈だ。兄の死も、弟の死も、祖父の死も。


「そんなことを言うな。これは今生の別れではない。約束しよう。必ず、私はこの家へ戻る」


ナーヴィの目から涙が零れ落ちる。アンドレイにはその理由は分からなかった。


「そう言って下さるだけで嬉しいです。だったら僕も、ずっとあなたが帰ってくるのを待たなければなりませんね。実はもうその準備は出来ているんですよ。きっとキリルさん、喜ぶと思います」


ナーヴィはそう話すと咳こみ、息を切らしてしまう。


「分かった。必ず家へは戻ろう。もう喋るな、ナーヴィ。ゆっくり休んでくれ。また体力が戻ってから話は聞こう」


ナーヴィはアンドレイの冷え切った手をしっかりと握りしめる。


「僕は幸せでした。父と母のもとに生まれ、あなたの親族で、ボランティア団体で働いて、ミユキと結婚して、こうして人生の最後にはあなたが僕を覚えていてくれる。ここで僕は終わりだけれど、あなたが生きている限り僕も生きていられる。ありがとう、キリルさん」


ナーヴィは少ない時間に言い残すことが無いようにということなのか、言いたいことをまとめることなくアンドレイへぶつける。アンドレイは何も言わずにゆっくりと頷いた。


「おやすみなさい、キリルさん。話しすぎて、疲れてしまいました」


ナーヴィは目を閉じる。アンドレイは握った手に力を込めるが、ナーヴィから感じられる力はどんどん弱くなっていく。


「おやすみ、ナーヴィ。続きは、明日話そう」


アンドレイはそう答えた。しかし、アンドレイが両手でナーヴィの手を握ろうと、ナーヴィの手は動くことはなかった。


 三日後、ナーヴィは墓地へ埋葬された。アンドレイは用意しておいたカーネーションを墓の盛り上がった土の上へ置くと、涙を流す彼の子供や孫を眺めた。


アンドレイが不死の生き方を探している間に、ナーヴィは大人になり、老いていった。その過程で自分の命を次へと繋いでいったのだ。仮に自分が死んだとき、そこには誰がいて、誰が体を土へと還してくれるのだろうか? ふと疑問がよぎる。仮に死が来るとしたら、その時にはアンドレイを知る人はいなくなっているだろう。


死体はその場に放置される、或いは可燃ごみになるのかもしれない。恐ろしいことではないが、どこか寂しい。一通り埋葬が終わると、アンドレイはナーヴィの墓へ背を向け、今日中にヴェネツィアへ戻れるだろうかと歩きながら考えていた。


「キリルさん、お待ちください」


ターニャの呼び止める声がする。振り向くと、彼女が話を続ける。


「パミーンキを存じないわけではないでしょう。それとも、今すぐヴェネツィアに戻らなければならないような事情でもおありですか」


すぐにターニャの隣に立っていた、彼女の兄である男が彼女へやめるよう促す。


「妹が無礼な態度をとったことお許しください。ですが、私たち家族はあなたと共に父を神の元へ見送りたいと考えております。どうかこの後も、父が天国へたどり着くまで、側にいてはもらえませんでしょうか」


 ロシア正教の葬式では死者を追悼するために葬式後食事をし、四十日後に四十個のお茶の葉やグラスを親族などに配りきる。そこまでやってやっと死者は天国へと行くことが出来るのだ。


何日も魂に罪を見せ続ける神様の趣味はアンドレイにとっては理解できないものだったが、この数十年で人間以外の知的生命体は理解不能な思考回路で生きていることを実感させられてしまった。


「あの……キリルさん」


「気持ちはありがたいが、どうか私はここまでにさせてくれ。これは死者と残される人間の為の儀式だ。私のような者が邪魔するわけにはいかない。神聖な場に、あまり相応しくないだろう」


ターニャの兄、トモタカはアンドレイの方へと一歩踏み出す。


「そんなことありません。父は私たちにあなたのことをずっと話してくれていましたし、もう二度と会えないかもしれないあなたに会う日をずっと楽しみにしていたんです。人間とかそうでないとか関係なく、もう少しだけで良い。父と、あなたにとっては甥とですよね、一緒に過ごしてもらえませんか」


アンドレイは首を横に振った。


「ナーヴィにはすまないと改めて伝えておいてくれ。私には耐えられんのだ。この私が神とある儀式に参加しているという事実が」


アンドレイはそれだけ伝えると、トモタカの静止する声を振り切って地下鉄の駅へと向かい、そこから空港を経てヴェネツィアに戻った。


その選択への後悔はなかったが、時にあの様子をナーヴィが見ていたらどう思ったのか、という考えがアンドレイの頭にこびりつくこととなった。

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