異邦人

異邦人 - 1

 川の向こう側には摩天楼が望める。夜になっても眠ることなく輝きを保ち続ける街は三十年近く暮らしてきたマンチェスターとはまた異なる繁栄をしていた。


かつての宗主国すら追い抜かした、この星の文明の最高峰をマンションの一室で望むというのは、どこか自分が世界の頂点になったように感じられた。


窓ガラスに映る自身の姿はエメラルドグリーンの髪が輝き、着ているバスローブも肌なじみの良い一級品。ここまで昇りつめるのには十五年の年月を有した。


故郷の技術力を応用しコンピューター系の会社に就職し、新しい検索エンジンのシステムを開発することに成功した。その報酬が今の生活だ。


世界的に見てもとても幸せで最高。しかし心だけは満たされない。満たされないのが普通なのだ。心の幸せはこの地で得られるものではない。


ハンノ、かつてそう名乗っていた青年は理解していた。一度の失敗だったが、とても大きな失敗だった。一人に愛されれば、周りの人間皆が愛してくれるとは限らない。


 何マイルも離れたこの地ですら、かの工業都市へ置いてきたはずの悲しみや後悔は消えず、摩天楼の夜を知らない明かりがこれらを心の表に引きずり出しているようだ。


ハンノはカーテンを閉め、ベッドとして眠ることのできそうなソファに座り、常温に戻しておいたワインをグラスに注ぎ、空虚な毎日を少しでも飾り立てようとした。悪くはないが、心の安寧が永遠に訪れない毎日。


だがそれを打ち砕くようなことが再び起こる。ピンポンというドアのチャイムの音で。この文明圏では高度に分類されるセキュリティを誇るこのマンションの玄関チャイムを直接押すような人間は恐らく内部の人間だ。


とはいえ万が一のことも考え、床に置きっぱなしにしていたシャツとズボンに着替えると、腰のベルトに小型の拳銃を差し、玄関のドアを開けた。玄関前に立っていたのは、この国では平均くらいの身長のハンノと比べても頭一つ分くらい背が高い、西アジア系を思わせる若い青年だった。


背中辺りまで伸ばした髪を青く染め、髪の内側だけは赤に近いオレンジにしているのが印象的だ。にもかかわらず、ハンノはこの青年に見覚えはない。


「すみません、どちら様でしょうか」


 青年はハンノを見おろす。その明るい青の眼とハンノの緑色をした目が合った。瞬間、ハンノは理解した。この青年も自身と同じ存在であると。もしかしたらと思ったが、やはり人を不老不死にするこの技術はこの星を生きる人間にも適合する。


目を見た感じこの青年はハンノよりも八千年から一万年後の人物だ。ちょうど指導者が一線を退いた時期と重なる。思いがけない仲間との出会い、それに気を取られて、ハンノは青年の話を聞き逃すところだった。


「お前は俺より歳上らしいな。なら理解しているだろう。知らない顔の奴だったうえ、顔見知りに似ていたから、ここまでつけてきた」


どうやってこのマンションのセキュリティを突破してきたのだろう、という疑問は残るが、ハンノにはそれよりも聞くべきことが他にあった。


「顔見知り? つまりは私のような風貌をした者を他にご存じということですね」


若い男は頷く。


「ああ。唯一俺よりも長く生きる男だ。鮮やかな青の髪を持ち、人類を無意識に蔑んでいる。そんな屑のような奴だ」


 ハンノが故郷で憧れていた指導者のことだ。すぐに分かった。分かっていたことだが、改めて指導者が生きていると実感できて、そんな場合ではないのに安心感を覚えてしまった。


「とりあえず、中へ」


新しい検索エンジンの開発者の友人、という風貌ではない青年をこれ以上大衆の目にさらしたくない、ハンノはそう考え、青年を部屋へと招き入れた。


コーヒーを淹れるのでソファに座るようにと指示を出すと、彼は静かにうなずき、ソファから右手に広がる摩天楼を眺めていた。背筋を伸ばし、話すべき時かそうでないかを見極める力はどうやらあるらしい。


やはり外見というものはハンノ達にとっては何の意味も為さない。


「どうぞ」


 ソファ前の小テーブルにコーヒーを置く。青年は長い手を伸ばし、カップを受け取った。上司や同僚にとって飲みやすいものしか用意していないので、彼の口に合うかは分からないが、緊張をほぐす材料が今は多くない。


「わざわざ……感謝する」


彼がおそるおそるコーヒーに口をつける様子を隣に、ハンノはソファに体をしずめた。


「それで、あなたの名前と今は何者なのか教えてもらえますか?」


青年はコーヒーを一口飲みこむと、典型的なアメリカ英語で話をはじめた。


「トヒル、そう呼べ。仕事は服を売っている。お前は誰だ。俺は聞きたいことを沢山持っているんだ」


トヒル、確か死んだ言葉で黒曜石を指す言葉だ。今は青く染められた髪も彼の民族から推測するに元々は黒髪なのだろう。派手でありながらどこか年相応の落ち着きを有しているあたり、似合っている名前かもしれない。


「私はハンノ、と名乗っています。仕事はあなたがたの使っている検索エンジンの開発、改良です。これが上手くいけば私たちの検索エンジンは皆様の調べたいことを瞬時に理解し、最善の結果を提示できるようになるでしょう」


青年、改めトヒルはハンノの仕事には興味がないのか、特に反応を示すことも無く彼へ質問をぶつけていった。


「お前はどこから来た。それと、シンという男を、外見についてはさっき話したが、そいつを知っているか」


 恐らく指導者がシンという名で今は暮らしており、彼の正体をトヒルは探っている。ハンノはそう理解したが、指導者は今までの生に区切りをつけることを望んだ。それ故にこの地へやってきたのだ。


下手にハンノが接触し、記憶を呼び起こしてしまうのは申し訳ない。それにきっと怒られてしまうだろう。


「そのシンという男については全く知りません。私はここに来る前はイングランドのマンチェスターで暮らしていました」


トヒルはふん、と鼻を鳴らすと、ハンノの答えに不服だと言わんばかりの声色で


「手ごわいな。まあ一万年前の時点で膨大な科学的知識を有する男を排出した文明社会だ。簡単にはいかんのは予想がついていた。俺には同じことができなかった。俺はあの男になりたかったのだ。人に慕われ、導いていくような、優しさだけで人を惹きつけられる。だがその力に溺れることは無い」


 トヒルはそこまで話し終えるとコーヒーをまた一口飲む。遠い過去となってしまった思い出と共鳴し、先ほどは癖がないと感じていたそれが、苦く、突き刺すような痛みを有しているような心地がした。


「分かります。本当に素晴らしい人でしたから。どれほどの痛みを知っても、絶望を知っても、彼は平和のために決してあきらめませんでした。誰より強くとも、力には頼らず、常に言葉を信じ続けていました。彼がいなければ私たちは永遠に戦闘民族のままだったでしょう」


ハンノは思わずそう答えてしまったが、後悔はなかった。ここまで彼のことを尊敬してくれているなら、彼を生き返らせたくはないという思いも分かってもらえるはずだ。


「お前と、かつて土着の信仰につけこんだお前らの仲間は何がしたい。また、シンはどうして記憶を失い、お前らは彼を取り戻そうとはしない」


早速核心を突く質問。しかも過去、まだハンノが働いていたころに本来何をしていたのか、それも把握の上のようだ。ただの原始人と侮らなくて正解だったらしい。


「単にあなたがたと私たちの、未来を作りたかったんです。また、シンが記憶喪失になったのは新しい人間になるためです。そんな彼の決断を尊重して、我々は彼を連れ戻さないと決めました。私も、あのお方に顔を合わせるつもりはありません」


するとトヒルはこの行動を理解したかのようになるほど、と呟き


「分かったぞ。お前らは記憶を消せばその者は死ぬと考えているのだな。故に、死者を生き返らせはせんと。ばかばかしい。記憶喪失のメカニズムなど、とうに解明しているのだろうに」


トヒルは嘲笑する。ハンノは反論してやりたかったが、それが不可能なことも知っていた。永遠の生を求めながら、それを持て余し、本当の終焉を見つけるよりも先に代替案で満足してしまう。そんな集団に堕ちてしまった。それは紛れもない事実だからだ。


「感情任せにならず、己がどのような立ち位置かはしっかり弁えている。良い文明人だ。今ここで不死の命、その終焉とは何かを考えるのはやめにしよう。お前の意志は分かったし、尊重してやる。あれが記憶を取り戻したら厄介になるのは俺も同じだ」


油断すると会話の主導権をとられてしまいそうだ。ハンノは生まれつきの気が強くはない性格を久しぶりに呪いたくなった。


「大体のことは分かりました。まあ、こちらも同胞がいることを再確認できてこちらも嬉しいです。よろしければまた来てくださって構いませんよ。私もそのシンという方には興味がありますし」


トヒルはコーヒーを一気に飲み干すと、カップを机に置いて立ち上がる。


「また次、金曜にエントランスで待たせてもらう。隙を見て入り込むのは、防犯カメラが普及した現代において何の意味も為さん」


「変な真似はやめてくださいね。私の経歴に傷がつきますし、別人になるにもまだ早いので」


トヒルは黙ってうなずくと、ハンノへとポケットに入れていた財布から名刺を取り出して渡す。それは彼が近くの商業施設に入っているアパレルブランドの従業員であることを示していた。


「どうしても困ったら来い。一応この国のことは俺の方が詳しいからな」


ハンノが戸惑っている間に、トヒル、異郷の神の名を名乗った青年は玄関のドアをくぐり去ってしまった。


 同胞の有無の確認はしたいと思っていたが、最初から手ごわいものに出会ってしまったかもしれない。ハンノのトヒルに対する第一印象はそういったところだった。


ほんの数十年前なら、新しい仲間との出会いに喜びを表し、友人になろうと話を持ちかけただろうが、今はもう違う。どんな存在であろうといずれハンノを見捨て、孤独にさせる。


さよならだけが人生だ、なんて言葉は嘘だと思っていたが、実際人生はさよなら一つだ。いくら歳が近くとも、心を開いてはならない。心の痛みに耐えられるほど、ハンノの心は強くない。

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