3-dwo-

 「シャッツ・フォン・デーホフ……?」

 

 突然後ろから声をかけられた。驚いて振り返ると、入り口のそばでロイエが佇んでいた。シャッツはある一つの理由から彼に鋭い目を向けた。


 「ラストネームで呼ばないで」


 「おっと、これは失礼。不快にさせる気はなかった」


 敵意はないと両手を軽く上げながら、ロイエはシャッツの隣まで来た。ロイエが何か言い出す前に、シャッツはぶっきらぼうに聞いた。シャッツの指差した先には、球状に巻かれた金属籠があり、その中にゆっくりと回り続ける砂時計が入っていた。一目では仕組みも分からず、砂時計が勝手に回っているように見える。


 「これ何?」


 「ああ、良いものを見つけたね。Tes rel ny-mis-kkek c(テス レー 二マイスケック カ)」


 「え、な、なんて?」


 シャッツは目をぱちぱちとさせた。


 「無限仕掛けさ。回転する砂時計が永遠のときを表していると言われている。古い小国の品だ」


 「それもそうだけど、今、何しゃべったの?」

 

 シャッツの頭は取っ散らかっていて、ロイエの言ったことは何一つ頭に入ってこなかった。意味をなさない音の羅列が脳内を駆け巡っていた。ロイエは不思議そうな顔をしたが、すぐに納得顔になった。


 「小国語だよ。無限仕掛けは小国語ではny-mis-kkek(ニマイスケック)になる」


 シャッツな訝し気にロイエを見上げた。


 「小国語?本当に?もう誰も使ってないでしょ」 


 「だからこそだよ。失いたくないんだ、我々の世界を」


 「世界?」


 ロイエは無限仕掛けを手に取った。中の砂時計はまだ回り続けていて、いつまで経っても砂が片側に寄ることはなかった。


 「僕らは言葉を使って考える。そして、僕らの思考は言語体系の域を超えることはない。例え望んだとしても、逃れられないんだ。分かるかい?」


 シャッツはロイエの手の中にある無限仕掛けを見つめたまま、肩をすくめた。


 「例えばりんごとこの球体」ロイエは無限仕掛けを掲げてみせた。


 「どちらも丸い。僕らは二つを区別する。でも、もし丸いものを全てりんごと呼ぶ言語があったら、彼らにとってりんごとこれは何も違わない。二つのりんごを並べて見せられているのと同然だ」


 シャッツは無意識に首をかしげていた。りんごは食べられる。でも無限仕掛けは違う。色も違う。比べる方がおかしいと思ったのだ。ロイエは話を続けた。


 「要は、ものの名前は僕ら人間が付けたものに過ぎないんだ。もとから名前を持っていた訳じゃない。僕らが、僕らの認識に基づいて、呼んでいるだけ」


 シャッツが今度は頷いたのを見て、ロイエはにこりとして無限仕掛けを講壇に置いた。シャッツはもう無意識にロイエの一挙手一投足に注目していた。基本的にはすとんと下りた癖のない茶髪は今と変わっていない。初めて会った時も茶髪は寝ぐせのように一部だけ流れを変えていた。壇上に上がったロイエに引き寄せられるように、シャッツも壇に近づいた。


 「もう少し授業といこうか」


 ロイエはウォールラックから水筆を取り出した。先が丸く布に覆われていて、筆先が湿っている。小国ではよく使われているタイプの筆だ。


 「さっき僕が言ったのはTes rel ny-mis-kkek c(テス レー 二マイスケック カ)」


 ロイエは裸の壁にすらすらと文字を書き連ねた。筆先から滲んだ水が壁面を濡らし、文字が浮かび上がった。文字で見ると、一つ一つの文字は知っているものだった。ただ読み方は直感と反していて、単語も全く分からなかった。ロイエは筆先で最初の単語、Tesを指した。


 「Tesはこれ、relは等しい、nyは否定、misは時間、kkekは装置。最後のcは文章の終わりを指すんだ」


 シャッツは単語ずつ噛みしめるようにぶつぶつ唱えた。発音の仕方が合っているのかもよく分からなかったが、何となく心地よく口に合っていると思った。


 「共通言語で言うと、This is an infinity device.(これは無限仕掛けです)ってこと?」


 「That's right.(その通り)」


 ロイエはいたずらっぽく笑ってウィンクした。シャッツもつられて口角を上げた。


 「今、小国クラインの民は大国語を話している。歴史的に仕方なかったが、小国語はもう研究対象でしかなくなった。でも僕は小国語を学ぶこと、ひいては小国について知ることが僕らのアイデンティティを守ることだと思っているんだ」


 ロイエがラックに水筆を戻すのを目で追いながら、シャッツは小さく頷いた。


 「もう少し話していたいが、君のおじいちゃんに話が長いと怒られたくないからね」


 ロイエは急に部屋の後方を指差した。シャッツがそれまで感じていた高揚感から現実世界に引き戻されて振り向いた。ハイラントはロイエの言葉を否定するように手を振りながら笑みを浮かべていた。

 それからシャッツはロイエが夜な夜な子どもたちに向けて授業をしていると知った。小国語ハイラントの強い勧めもあってシャッツはその授業に加わることになったのだった。

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