『村上春』その二
ようやく。
ようやくだ。先日宮部さんと目線が合った気がした。しかし、合ってもすぐに目を逸らしてしまうので、がっちり合った、とは言えない。
向こうもずっと僕を見ているわけではない。そしてあの分厚い眼鏡のせいで、実際の視線はよくわかっていない。何となく僕を見てると思っただけだ。
そんな見たか見ていないかくらいの事で、宮部さんに話しかける勇気はない。
しかし。
先日、宮部さんはスコーンをめちゃくちゃ美味しそうに食べていたものだから、後日僕も同じスコーンを食べたんだ。
めちゃくちゃ美味しかった。
これならいける。そう、思って今日、宮部さんに思い切って声をかけようと、朝起きた時から決心していた。
しかし。
決心とは揺らぐもので、宮部さんと話せないまま、昼休みになり、その昼休みの時間もどんどん過ぎ去ってゆく。
宮部さんはと言うと、窓際の自分の席でブックカバーの付いた文庫本を読んでいる。僕の席はひとつ席を挟んだ横の席だ。流石に何を読んでいるのかまでは窺い知れない。しかし口元は笑っているのできっと面白い小説なのだろう。
僕はそんな彼女をちらちらと見ては機会を窺っていた。
ああ。
なんて可愛いんだ、宮部さん。宮部さん。宮部さん。宮部さん……。小さな目、小さな鼻、薄い唇、切り揃えられた前髪、きっちり結ったおさげ、そのどれをとってみても、可愛いと思える僕は、完全に彼女に恋をしている。好きが過ぎる。
──っ!?
しまった! 気付かれた? 好き過ぎるあまり、見惚れてしまっていた!! 恋が盲目と言うのはこう言うことなのか? 何か違う気もするが、そんな事はどうでも良い。
気付かれた? 気付かれた? 気付かれた!?
あ……。
宮部さんは何も無かったかのように読書の続きを再開した。俯いていて、分厚い眼鏡の向こうは、その表情まではわからない。それにしても僕って完全に不審者だよね!? すぐにでも弁明したいが、いきなりそんな事をしても不審者だ。
いや待てよ?
もしかすると、僕が彼女に興味を持っている事がバレたと言うのであれば、それはそれで良いのか? 告白するチャンスなのか!?
彼女が僕の視線をどう思ったかは判らない。そっぽを向かなかったところ、ワンチャンあるのではないかとさえ思える。
とりあえず昼休みの機会は逃した。こうなったら下校時にかけるしかない。
今日も『鳩小屋』へ行くだろうか? だとすれば話しかけるチャンス? 上手く行けばそのまま一緒に『鳩小屋』へ行けるかも?
気が早いな。先ず、声を掛けると言うハードルを超えなければ。
あ、笑ってる。可愛いな。
──放課後。
彼女も僕も帰宅部だ。今日は委員会なんかも無い。つまり真っすぐ帰るか店に寄るかの二択だろう。
僕は彼女が教室を出るのを見計らって、その後を追うように出る。
彼女の歩みは速い。ズンズン進む足取り、それにあわせてピョコピョコと揺れるおさげが可愛らしい。華奢な肩。細い腰。足は長いわけではないし、そんなに細くもない。スカートの裾も短くないし、靴下も普通丈だ。速く歩くのでお尻が左右に揺れる。
ずっと見てられる!
いや、ストーカーじみた変質者だな。気をつけなければ本当にヤバい。でも、人を好きになるってそう言う事だろう。
そうこう考えているうちに、彼女が靴箱の前で止まる。
今がチャンスだろう。
「宮部さん」
言えた! いや、言っちゃった!? ついに呼び止めちゃったよ……。
彼女は首だけこちらに向けて言う。
「何?」
う……もしかして機嫌悪い? 僕の事、不快に思ってるとか? だとしても後戻りなんて今更だ。行くしか無い!
「あの……」
「何?」
う……心が折れそう。頑張れ僕!!
「今日も鳩小屋行くんですか?」
「だったら何?」
くっ。何だかわからないけど、ダメージが……。
「ちょいちょい鳩小屋で宮部さんを見かけるから、何となく?」
「……何が言いたいの?」
何が言いたい……何が言いたいんだ? 違う。僕は宮部さんとどうしたい?
「僕もあのお店が好きでよく行くんです」
「それで?」
一緒に行きませんか? って、この空気で言っても大丈夫? 変じゃないよね? いや、変? 他に何か話題……あ。
「マスターさ」
「うん」
「初めて会った時僕、『くるっぽー』って言われたんだけど、宮部さんの時も言われたのか気になって……」
「……ぷっ!」
笑った!
「ね、やっぱりそう? 言ったよね? あれ絶対に『くるっぽー』って言ったよね? 聴き間違えじゃなかった! あはははは♪」
よーっし! 今僕、めっちゃ宮部さんと会話出来てる!!
「僕さ、絶対に聴き間違いだと思えなくって、でも、そんな事確認出来ないだろう? それがもう、気になって、気になって!」
「わかる! 私もそう! だって、普通言わないよね? あのマスター、本当に鳩だわ! あははは」
よし、自然な流れで話せてる。しかもこんなにスムーズに。鳩マスターに最大級の感謝を!
「ねえ、今日もいつもの紅茶?」
「そうよ?」
「僕、今日は冒険してみようと思ってるんだけど、何かオススメの紅茶ってある?」
「それは鳩に聴くのが正解じゃない?」
「それはそうなんだけど、僕よりは宮部さんの方が詳しいだろうと思って……何かない?」
「私、冒険したことないから、わかんない。だいたいいつも、『本日の紅茶』を頼んでるから」
「そっか……。じゃあ、鳩マスターに聴くよ」
「ねえ、は……鳩といつも何話してんの?」
「え……」
「え……?」
まさか宮部さんのこと聴いてるとか言えないし……。
「そう言えば、こないだスコーン食べた時にクロテッドクリームの話を聴いたよ?」
「え、アレ食べたの? めちゃくちゃ美味しい、てか、スコーンそのものがヤバいよね? てことはFTGFOPも飲んだってこと?」
「え、何すか? それ?」
「ええ!? 何だ、飲んでないんだ? FTGFOPつまり、Finest(素晴らしい)、Tippy(先端のティップが多い)、Golden(金色でつやのある茶葉)、Flowery(かたちが良くととのった)、Orange Pekoe(7mmから12mmほどの茶葉)って言う意味の紅茶の階級らしいんだけど、すっごく美味しいの!」
ん? なんつった?
「ふぇ? 全然頭に入んない。よく覚えられたね?」
「ふふん。あんな美味しい紅茶を飲んでないなんて、まだまだね?」
何目線かわからないけど、ご機嫌みたいだし、順調に話が続いてる。
「でも、普段は高いから『本日の紅茶』になるまで待つしかないわね?」
「そっか、残念だな……」
「鳩小屋ってスイーツも美味しいでしょ?」
「うん」
「もし今日も何か食べるなら、それに合わせて鳩に選んでもらえばいいんじゃない?」
「あ、それ良い。そうしようかな」
良い。一緒に店に行く運びだ。てか、店はもうすぐそこだ。
そう店は……。
「え……」
「えぇ……」
店はシャッターが下りて『臨時休業』の札が出ている。
ねえ、マスター。それはあんまりじゃないですか? 僕は心底がっくり来た。代わりの店なんて知らないし、これ以上話を続ける自信もない。
終わった……。
僕の時代は終わった。
「鳩のくせに生意気だわ」
「え?」
宮部さんは、何故かものすごく怒っている。
「ねえ、他の店に行かない?」
「良いけど……」
渡りに船? とにかく僕たち二人の時間は続く事が確定したようだ。
その後、僕たちは鳩マスターの文句をあれこれ言いながら、彼女の先導で近くのフタバに行って紅茶を飲んだ。しかし、珈琲屋だからだろうか、紅茶が全然美味しくなくって、宮部さんの愚痴がますますヒートアップした。僕はそれを延々と聴くと言う、何とも言えない時間を過ごしたのだが、僕には宮部さんと二人で過ごすと言う時間は、至福の時間とも言える。それに、話題には事欠かなかったのだから何も文句なんて無い。
鳩マスター、ありがとう!
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