『小林一』
僕、小林
現実と言うものは、針の
いじめなんてものは昔からあるし、どこへ行ったってついて回る。でも、僕が困っているのはいじめの事なんかじゃない。あんな奴らのことなんかは気にしなければなんてことはない。僕は独りで居ることにも慣れている。
今、最も僕を傷つけているのは、僕の股間にぶら下がっているものだ。
こんなものが何故ついているのか、毎日見て、触れなければならない屈辱。悍ましく、汚らわしく、忌々しい。
そして、クラスメイトの三島君。
彼は正義感が強く、彼だけは僕の味方をしてくれる。彼がいるから僕は無視されるくらいで済むし、嫌がらせもほとんどされない。せいぜい陰口くらいのものだ。
彼のことは小学生の頃から知っているが、昔から変わらない。いつだって僕が困っている時に助けてくれる。
僕はその頃から彼のことが好きで、それが恋だと気づくのにそんなに時間はかからなかった。
僕は思いきって告白したこともある。だけど、僕の気持ちは受け入れてはもらえなかった。あるいは?と期待はしていたが、断られることもまた、覚悟していた。
案の定断られた。良い友達でいよう、そう言われた。それからも彼は普通に接してくれたが、僕が彼に告白するところをクラスの女子に見られていたらしく、その噂は一瞬でクラスに広まった。
三島くんまで変な目で見られるようになったので、僕には関わらないように三島君に提言したが、彼は別に構わないと言って、彼もまたクラスで孤立することになった。
苦しい。
彼のことが好きで好きで、好きが止まらない。だけどこの気持ちのやり場がない。出口がなく行き詰まった僕の心は、次第に荒んでいった。苦しくて、苦しくて、自分が男性であることを、男に産んだ親のことを恨むようになった。
わかっている。僕は性別ガチャでハズレただけだ。親のせいでもなんでもない。ただ、誰かに八つ当たりでもしなければ、僕は僕でいられなくなりそうだったのだ。
僕は、躰は男、心は女。
しかし、時代は進んでいる。世間では性の在り方の多様性が進み、昔に比べればずっと受け入れられるようになったものだろう。
そしてコレ。
ふう。
電子タバコだ。火も使わなければ、匂いも少ない。何より強制的に心が凪ぐ。元来のタバコみたいに煙や匂いでバレることはほぼない。
もちろん、僕は未成年なので買うことは出来ない。たまたまショッピングセンターの男子トイレに置き忘れていたものを拝借しただけだ。
ふう。
むなしい。何一つ満たされない。僕の心は空虚だ。いっそこの世から居なくなってしまいたい。はあ……。
特に何も考えず、吸い終わった吸殻をポイ、と捨てた。
その時。
「おはようございます」
何処からともなく声が聴こえた。
声をした方へ目線を遣ると、地面から首が生えている。
……。いや、そんなことはないだろうとよく見てみると、半地下になった所に男性が立っていた。
ドキッとした。
白いシャツ。黒いベスト。黒いスラックス。黒いネクタイ。黒縁メガネ。長身のイケボ(イケてるボイス)。
見覚えはない。見ると
「すみません。拾います」
僕は掃除中のところへ吸殻を捨ててしまったらしい。僕はすぐに吸殻を拾おうとしたが、男性はそれを掃き取ってしまった。
「かまいませんよ」
あれ? 何だろう、良い香りがする。
香りが漂ってくる男性の背後へと自然と目が行った。『鳩小屋』と書かれた看板と、開かれたドアの奥に、落ち着いた雰囲気の店内が見えた。どうやら男性はこの店の店員らしい。
こんな通学路に喫茶店があったなんて知らなかった。
「あの」
思わず声を出してしまった。
「はい」
素っ気ない返事が帰って来た。それはそうか。店の前にゴミを捨てるような相手だ。愛想よくする必要なんてないだろう。
「お店、もうやってますか?」
「……いえ」
「そうですか。ゴミを捨ててごめんなさい」
僕はゴミを捨てた申し訳無さとお詫びのつもりで、深々と頭を下げた。頭を上げ、僕が踵を返そうとした時。
「お待ちください」
思いがけず呼び止められた。
「少し手伝っていただけないでしょうか?」
「はいい?」
「いえ、見ての通り掃除が終わっておらず、そろそろ来店されるお客様の準備が出来ていなくて……お時間は取らせませんので」
正直、言っている意味がわからない。しかし、吸殻を捨ててしまった罪悪感の手前、申し訳無さもあるにはある。どうせ、学校なんて行きたくもないのだから。別に……。
「……いいですよ?」
「ありがとうございます」
メガネの奥の目がにっこりとわらうと、彼は店の中を指差した。
「カウンターにクラッシュしたピーナッツが置いてありますので、間もなく来店されるお客様へ差し出してください」
「へ?」
おっと変な声が出てしまった。しかし、とても
「ほら、あちらにお見えになっておりますでしょう?」
僕は彼が指し示す先を見て納得した。
「なるほど。わかりました」
「必ず、店内に入ってから提供してくださいね? お名前はチュン子様とアンチョビ様です」
僕は言われた通りカウンターに置いてあったピーナッツのお皿を用意すると、お客様が入店するのを待った。
──チュン、チッチ。
来た。
僕が近付いたら逃げ出すのではないかと、少し緊張したが問題なさそうだ。
彼らはピーナッツが目に入ると僕の足元まで寄って来た。
可愛いな、チュン子とアンチョビ。
──ことり。
僕がそっと小皿を置くと、二羽は仲良くついばみ始めた。
良いなあ、鳥は……。
僕はお客が帰ると小皿を取り上げて、カウンター向こうの流し台へと運んだ。
「ありがとうございます。今、飲み物を入れますので、カウンターにでも腰掛けて下さい」
店員が入口の掃除を終えて戻って来たらしい。
どうせ学校へは行く気がしなかったし、このままご馳走になろう。そう思った。
大きな一枚板のカウンター。顔が映るくらいに綺麗に磨かれていて、木目が非常に美しい。触れれば解る、この木に込められた丁寧な仕事の施しようと、毎日の手入れ。
──ことり。
「くるっぽー」
……えっと。何だって?
「こちら、一日五杯限定の水出しコーヒーです。そしてこちらは、先程お客様へ出していただいたソルトピーナッツ。ミルクをおつけしましょうか?」
「えっと? そんな五杯限定とか貴重そうなコーヒーをいただいても良いんですか?」
「水出しコーヒーは温めても飲めるのですが、夏場にアイスでお飲みになられる方が多く、この時期はあまり出ません。なのでご遠慮なくどうぞ?」
「そう言うことでしたら……」
一口。
濃い。とても濃い。今まで飲んだどんなコーヒーよりも濃い。いやまあ、学生だもんで、飲んだと言っても知れている。しかし、こんなに濃いのに後味がスッキリと雑味がない。鼻に抜ける香りがとても爽やかだ。そして。
落ち着く。
「濃いでしょう? 甘いのがお好きでしたらこちらのシロップをお使いください」
「いえ、ミルクをいただきます」
僕は用意してくれたミルクを少しだけ注いだ。
綺麗な琥珀色のグラスが乳白色の液体が入ることにより、マーブル模様を描きながらベージュ色へと変わってゆく。
「美味しい……です」
「それは良かった」
今の僕の一番口に合うコーヒー。苦くもない。甘くもない。琥珀色でもない。白でもない。このマーブルに入り混じった、とても中途半端な存在。
そんな中途半端なものなのに、こんなにも美味しい。
僕は男なのか、女なのか、ずっとそんな事に捕らわれていたけれど、どっちかじゃなくたって良い。そのままだって、別に構わないんだ。
そう教えてくれるような飲み物だった。
「店員さん……いえ、マスターさん」
「はい」
「また、お邪魔しても………良いですか?」
「……邪魔はしないでいただけたら助かりますが?」
「あはっ♪ マスターさん、僕、また来ます!」
「はい、お待ちしております」
僕は、店を出ると学校へ急いだ。
世界は自由じゃないかも知れない。学校に行ったって、現実は何も変わらないだろう。
だけど。
僕は僕のまま、この不自由な世界を、着の身着のまま、思うままに生きよう。
僕は他の誰でもない。
僕なのだから。
男のまま男を好きになったって良いんですよねっ、マスター?
「くしゅんっ……ん?」
──────────────
・センシティブな内容となっておりますが、このお話はフィクションです。
・未成年の方は電子煙草であっても喫煙は禁止です。
・このお話は不登校を推奨するものではございません。
・登下校の寄り道は、校則に従ってください。
・基本的に野生の生き物への餌やりは違法ではありません。しかし、近隣への迷惑となりますのでお控え下さい。
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