『星新二』
鳩小屋の開店時間は朝九時からだ。学生の登校時間に開けるわけにはいかない。その時間は仕込みの時間に充てている。
早朝は掃除に時間をたっぷりと割いている。店の中は閉店時に清掃している為、朝は外周の掃除に時間を費やしている。
店を中心に近隣周辺を掃除して回るのだ。なんせ半地下と言う目立たない場所にある為、通りからは非常に分かりづらい立地だと言えよう。せめて小綺麗にして、気持ちよく迎え入れたいと思っている。
半地下になっていると風で運ばれて来た落ち葉やチラシなどのゴミが溜まりやすい。小まめに掃除しなければ、みすぼらしいったらない。
ちなみに店頭のオブジェは僕が作ったお手製の鳩だ。なぜ鳩かと言えば、僕の好きなゲームの喫茶店のマスターが鳩だからだ。店名もそこからの派生だ。
普通は店内に鳩時計なんかがあるのだろう? と思われるのだろうが、基本的に鳩時計はカッコウだから、納得いかないのだ。
掃除が終われば植え込みの手入れと水遣りだ。植え込みと言えど雑草は生えてくるもので、虫なんかもついたりするので、毎日のチェックは欠かせない。まあ、オリーブとローズマリーの植え込みと、季節ごとの花を植えている。
「こんにちは」
「あ、ども」
うちの店の上にも店舗が入っている。理髪店だが、
店は夫婦で切り盛りしていて、僕のことを気にかけてくれているとても優しい人たちだ。
店のシャッターを開けると、既に客が待ち構えている。うちの特製モーニングが目当てで、いつも店の前で、今か今かと待ち遠しそうにしている。うちの常連さんなので、無碍に扱うわけには行かない。丁重に、丁重に。
「チュン! チュチュン!」
流石に店の外にいる間はうちの客とは言えない。ただの野鳥、すずめだ。敷居を跨いでこそ、うちの客と言えよう。でなければ、野鳥に餌をやる不届き者になってしまう。
「いらっしゃいませ」
特製モーニングの『ソルト・ピーナッツ』ディジー・ガレスピーの名曲だ。ほら、チュン子とアンチョビもノリノリだろ。ん?いやこのすずめたちの名前ですよ、チュン子とアンチョビ。
一番客が帰るとランチの仕込みを始める。ランチは日替わりとカレーのみだ。今日の日替わりは煮込みハンバーグなので、ハンバーグとカレーの仕込みを始める。
「おはようさん」
「今日も早いですね、
「おおきに」
星さんは、関西の人らしいが、奥さんが亡くなって息子さんの家に引っ越して来たらしい。毎日朝の散歩を終えてから店に立ち寄ってくれる。
決まってモーニングAを頼む。ブレンドコーヒーとトースト、ゆで卵と言うとてもシンプルなものだ。あと、うちのコーヒーにデフォルトで付いてくるサービスのソルトピーナッツ。きっちりワンコイン、五百円だ。
私はコーヒー豆を煎りながら、トーストに切り込みを入れて軽く焼いている間に、コーヒー豆を挽いて、トーストにバターをたっぷりと塗って再度トースターへ放り込む。コーヒー豆をお手製の布で作ったネルドリップ方式だ。コーヒー豆はケチらずに大量投入。うちの豆はスペシャリティコーヒーと言うわけではないが、私が厳選したオリジナルのブレンドだ。香り高いのは勿論のこと、甘味、酸味、苦味が絶妙なバランスでなりたっていて、どの味もしっかり目に仕上げている。
この大き目のバッグでお湯をゆっくりと、静かに、少しづつ注ぎながら、トースターに再度バターを乗せてトースターの予熱で溶かす。
「先にこちらを食べててください」
「ん、ゆっくり待つわ」
星さんは、机に用意した塩をパラリと一振りすると、トーストにがぶりとかぶりついた。カリッと小気味よい音が店に響く。今ごろ口の中にバターがじゅわっと溢れているだろう。私のこだわりだ。
小麦粉の焼ける香り、バターの溶ける香り、そしてこのコーヒーをドリップする時の香りが入り混じる。その瞬間の香りが一番好きな香りなのだ。
「アホみたいにんまい! コーヒー欲しなるわ」
「アホみたいに」と言うのは星さんの口ぐせだ。
うちのコーヒーはドリップに時間がかかる。豆の量が多く、お湯を極力ゆっくりと注ぐためだ。これを怠ると雑味が入って台無しになる。なので、美味しいコーヒーを飲みたい人には待ってもらっているのだ。
星さんは、トーストをゆっくりと食べているつもりらしいが、まあまあの勢いでぺろりと一気に食べ進めてしまう。
トーストをお変わりすることも少なくない。
「おかわり、くれるか?」
ほらね?
「わかりました。二枚目もバターで良いんですか?」
「ん……いや、アレで頼む」
「ピーナッツバターですね」
「せや」
兵庫県の姫路の方に行くとアーモンドバタートーストがあるらしいが、うちは同じようにピーナッツバターを塗ってトーストするのだ。このピーナッツがローストされていく香りがたまらない。
おかわりトーストはコーヒーと同じタイミングで出す。
「星さん、お待たせしました」
「いや、この待ってる時間がええんやで? マスター」
「そう仰っていただけると嬉しいものですね」
コーヒーを作る工程の香りを楽しめる星さんは、この店の上級者だと言える。
トーストの角から美味しそうにカブッ、とかじりつく。こちらまでローストされたピーナッツバターの香りが漂ってくる。思わずつばを飲む。
「ん〜まいっ!! んっまいの〜!」喜色満面だ。
「美味しそうに食べますね」
「アホみたいに美味しいからしゃああらへん」
そしてチェイサー代わりに、コーヒーを一口。もう声もなくニマニマ笑ってますね、満足そうで良かった。
「ここのコーヒーはちょっと安過ぎへんか?」
「学生さんが多いものですから、お手頃な価格にしております。スペシャリティと言うわけには行きませんが、皆でさんに気軽に美味しくコーヒーを楽しんでもらいたくて」
「感心やなあ。まあ、おかげでワシみたいな年金生活者でも毎日来れるんやけどな?」
「常連さんはとても有り難いですね」
「お昼も来てみたいんやけど、なんやいっぱいやろ?」
「お昼は満席が続きますし、すぐにその日の分のランチは出てしまいますねぇ」
「せやけど、一回ここのカレーは食べたろ思てんねん。毎日こうして仕込み見とったら、これがどんな味になるのんか、気になるやろう?」
「どうぞ、一度食べに来てくださいよ」
「せやな。死ぬまでには来るわ!」
「また、縁起でもない……」
「うわははは !冗談、冗談♪ ご馳走さん。これ、お釣りはええで」
「いえ、そう言うと思って、ちゃんと用意しておりますよ? はい、三百万円」
「うわははは! なんや得した気分になるわ! ほな、また来るよってな!」
「お待ちしております」
──カランコロンカラン♪
こうして『鳩小屋の一日は始まるのだ。』
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