狂気 八
白戸総合病院は、市内では最も規模の大きい病院である。
施設も福利厚生も充実してるし、毎日のように押し寄せてくる患者の数に忙殺されることを除けば、職場環境に否応はない。院内の飲食店は美味いし、コンビニもあるし、のんびり落ち着ける場所もたくさんある。緑にだって囲まれている。
ただ、これは風の噂で聞いた話だけど、どうも一見平和なようで結構派閥争いが激しかったりもするらしい。けど、俺には何の関係もない話だった。
「とんでもない馬鹿をやったって話だけど?」
昼下がりことである。
そんな白戸総合病院の広大な中庭にて、風で地面をクルクルと滑ってゆく木の葉を眺めつつ一人ベンチでコーヒーを飲んでいると、あの福良美嘉が突然やってきて、俺に話しかけてきた。
「……福良先生」
「だから、先生っての、止めてってば。気持ち悪いから」
「悪い」
気持ち悪いは言い過ぎだろ。
俺は視線を再び中庭へと向けた。彼女の言う馬鹿っていうのは、先日の一件だろうな。俺は白衣を着たまま街を駆けずり回ってまで、いるかもわからない瀕死者を探し回ったという話が、看護師を媒介にして病院全体に膾炙したようである。
ちなみに看護師たちの形成しているネットワークの通信速度は半端でなく、女性の看護師に対し少しでも下心を働かせようものなら、即座に病院全体にスケベ野郎の汚名が院内を膾炙するのだ。実名と共に。
と、杉原が憎々し気に語っていた。
まあ、噂されようが、何だろうが俺はどうでもいいけどな。
「……」
しばらく無視していれば消えるだろうとタカをくくっていたところ、そんな俺の心情を察したのかどうか知らないが、福良は俺の隣にどっかりと座ってきた。なんだ、当てつけか?
福良美嘉はじっとこっちを見ながら、口を開いた。
「何か悩み事?」
「いや……」
しばらく無言になった。それが気不味くて、俺はつい口を開いた。
「患者に言われたよ。俺が人の命を選んで殺してるゴミだって」
さすがに事実を詳らかに語るつもりはなかった。頭の中で言ってはいけないことと、言ってもいいこととを区別しつつ、良い感じに真贋を織り交ぜながら。
「それは随分な物言いね」
「言われた時は聞き流してたけど、改めて思い返すと、医師って人を生かすよりも殺すことの方が多いよな」
「結果的にはそうね」
福良は呆れたように言った。
「医療技術が進歩して、老衰寸前の高齢者やひん死患者を生かすことができるようになってしまった現代医療じゃ、医者は寧ろそういう患者をどのタイミングで切り捨てるか、つまり『死なせる医療』に注力しなくちゃならなくなった。このまま医療が進歩すれば、ますますその傾向が強くなるでしょうね。皮肉な事に」
これからも、俺はそういう人を殺し続けなければならないのか。もちろん、それを責められる道理などありはしないが、心情としてはあまり気持ちのいいものではないし、何度も繰り返していけばその内大きなストレスとなって自責の念に苛まれるようになってしまった、なんてこともあるかもしれない。
あの時、俺は運ばれてきた放火犯、津田道夫を切り捨てる選択を取った。奴は予後不良だったし、他にも助けなければならない患者は数多くいた。だから俺の判断が「人」しても「医師」としても大きく間違ったとは全く思わない。
だけど、奴が放火した本人だと知って、ホッとしなかったと言えば嘘になる。
別にそれも、悪いことじゃないと思う。でも、いつかそういうことでいちいち頭を悩ませなくなる自分がいるんじゃないかと思うと、なんだか言いようのない不安に襲われるのだ。
そんなことを漫然と考えつつ、眉を顰めて気難しそうに虚空を睨む俺を見て情けない奴とでも思ったのか、福良は「あのね」と前おきをした後、
「現代の医師はね、人の命を選定する死神になる運命なのよ。私たちは何れ、いいえ、今も既に、誰を死なせるかを常に考えていかなくちゃいけない。
でも、そんなことに悩んでたって無駄に気疲れするだけよ。
例えどんな手段を用いても、医師として治すべき人を出来得る限り治すっていう、強い意志の力があれば、どんな倫理的課題も些細な問題でしかないわ。強い意志の力だけが人を前へと進めるの。だからアンタも、いつまでもうじうじしてないで前を進むの」
強い意志ね。
「すごいな、福良さんは」
「さんづけもやめて」
「ゴメン」
「昼ごはん代で許す」
そう言って、福良は背を向けて歩き出した。背中で「食堂まで着いてこい、おごれ」と語っている。
強い意志か。
人を助けたい、という強い意志が、俺の心を倫理的葛藤による精神的ダメージから己を守ってくれる。
そんな熱い気持ちが、俺の中にあるのだろうか。
自分じゃわからないな。あることを、信じてみるしかない。俺は福良の後を追いかけようと、やれやれと腰を上げて、
ふと、面を上げた。
「……」
いつか見た、少年がじっとこちらを見ていた。
あれは確か、俺が予後不良を宣告した子供だ。
びまん性の悪性脳腫瘍を患っていた。
もうすぐ亡くなる子供。
母親が無意味な延命を、放射線治療を止めたから。
俺が命を、切って捨てたから。
その子供が、俺をひたすらに睨み続けていた。
「……」
ように
見えた。
(終)
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