狂気 四
福良美嘉の場合
「……」
福良美嘉は悩んでいた。病院のエントランスで一人、脚を組みながら虚空を見やった。
やはり、わからない。もう一度手元の資料を、カルテを診て、呟いた。
「一体何を見つけたの?」
安藤周吾。
今一つ情熱に欠ける若い医師だが、その手術の腕前は確かであり、密かに院内で尊敬を集めている脳神経外科の一人だ。所謂若手のホープと言う奴であり、時期外科部長候補の一人と噂されることもある。ちなみに同僚の杉原は彼を一方的にライバル視しているらしいが、当の本人は全く気にしていないようで、杉原が突っかかってきてもいつもどこ吹く風である。
斯く言う私、福良美嘉も一時期は彼のことは目の敵にしていた。
彼は、あまり仕事に熱心でないように見えた。
もちろん、それだけなら私は目の敵にするどころか、興味すら抱かなかっただろう。
だけど、少なくとも私の目には、彼の手術の腕前はこの病院の誰よりも優れていると感じた。特に開頭手術においては、最早一種のパフォーマンスとしての芸術の域に達しているとすら感じさせられた。
外科は総じて、実力社会であるのがほとんどである。酷くシビアで過酷な労働環境、手術に関わる医師一人一人の一挙手一投足が、患者の生死に直結するという極限の現場。普通の神経をしていたらまず耐えられない。
当然、集まってくる者たちはどいつもこいつもタフな体育会系の猛者で、かつ上昇志向とエリート基質を兼ね備えたいけ好かない連中ばかりである。
そんな彼らは実力主義者であり、実力が何よりものを言う。
手術の上手さが、彼らの地位を確たるものとするのだ。そして、上下関係も実力によってはっきりとしていて、かつ絶対的だ。
福良美嘉は度々上司に食って掛かって問題を起こすことがあるのだが、彼女のように上司に嚙みつきまくって云々、なんてことは内科が主な主戦場だからこそ可能な芸当なのだ。そして、そんな福良美嘉ですら、外科の連中には頭が上がらないことがしばしばある。
だからこそだろうか。福良美嘉は外科医にある種のコンプレックスのようなものを抱いていた。なまじ、彼女は外科としての素養もあり、あくまでも専門は内科なものの、外科的手術を経験したことも何度かある。が、故に、内科医だからとコケにしてくる年配外科医の老害どもが腹の底から許せないのである。
また、だからこそ安藤周吾が腹立たしいのである。
安藤は若手だが、あれだけの腕を持っているならあのシビアな外科医社会でもトップにまで上り詰めることが十分にできるはずだ。そうすれば、癌のように蔓延っている上層部もまとめて「切除」してしまえるに違いない。
だか、当の本人にその気が一切ない。
上昇志向もない。
プライドもない。
出る杭を打たんばかりの上からの圧力により、出世が大幅に遅れているにも関わらず、文句の一つも零さず、クソ真面目に業務に励んでいる。
――情けない奴め。
そう思っていた。
つまり、福良美嘉は安藤周吾を一方的に逆恨みしていた。
彼の、ぼんやりとした表情を見かけるたびに、無性に苛ついた。
だけど、最近は少し事情が違う。
彼は、何かが変わった。その何かはわからないが、彼は妙な行動をとるようになった。
今回もそうだ。
大量の急患を凄まじい勢いで捌くと(あまりの手際に熟練の救急科医も白目を向いていた)、それから、いるかもわからない別の急患を探しに、白衣を着たまま外に飛び出したと院内では専らの噂である。また、予後不良の患者の治療に異常に執着していたという話も聞いた。
福良美嘉が今見ている電子カルテは、その予後不良となった患者のカルテだ。
ただの火傷。しかし、重度の。気になる所は特に無い。
一体何が彼をそんなに夢中にさせたのだろう。
それから、福良は携帯電話の液晶に表示された文章に目を落とした。
この文章は、今回の放火事件を起こした犯人がインターネットに投稿したものだと話題になっている書き込みである。
彼はまた、ここから何かを得た。
それも、確証に似た何かである。
もし。
これを読んで、「犯人が逃亡中に誰かを傷つけたかもしれない」などと考え、更にはいるかも定かでないその被害者を探しに、一人外を飛び出したのだとすれば。福良は思った。
彼は今狂ってる。
そして、医者にはそれが必要だと。
〇
休憩室にて、杉原は白衣を脱ぎ捨てて机の上に放り投げた。それから、椅子にどっかりと座って、
「眠たいっすね」
と、同じく休憩室にやってきていた竹中に話しかけた。
「そうだな。久々の36時間勤務だよ」
「丁度当直と被ったんですね」
「俺も年食ったなぁ。昔は徹夜も全然平気だったんだけどな」
「昔はどんだけ働いてたんすか」
「36時間と12時間の連勤だな」
「……」
36時間と12時間の連勤。つまり、朝八時から36時間ぶっ通しで勤務した後に、次の日の午後八時に帰宅、その翌日に午前八時から午後八時まで勤務、そのあとはまた午後八時に帰宅し、それから再び36時間勤務。その繰り返しである。
「それって死なないんですか?」
「大丈夫だ。激務に耐えられなくなった奴は死ぬ前に頭がおかしくなって再起不能になるから」
「……」
「大きな問題になる前に、法律が変わったよ。今じゃ、研修医はもうそんなに働けない」
「それ研修時代の話だったんすね」
「うん」
しばらくの間、休憩室には時計の秒針が刻む音しか聞こえなかった。
「あー……、そういえば。安藤の奴はどこだ?」
気まずい空気を払拭しようと、杉原はわざとらしく人のいない室内をきょろきょろと見渡しながら、
「アイツどこで油売ってんだか。携帯にも反応がないし……。竹中さん、何か知ってますか?」
「安藤なら外に行ったよ」
「外? 外でサボってるんですか?」
「いや、どうも現場に行って、他の負傷者探してるらしい」
「マジか……あいつ、マジか」
杉原は「信じられない」とばかりに目をぐるりと一周させる。竹中も同意見だったようで、神妙な顔で頷いた。
「だよな。あんな熱血系だったかな? アイツ」
そうやって二人して頭を傾げていると、休憩室のドアがあいて、白戸が入ってきた。
「竹中さん」
「こんなところにいたのか」とでも言いたげな表情を浮かべながら白戸は、
「そろそろ時間なんで、僕は先に上がらせてもらいますよ」
「ああ、うん。あ、いや、待て」
返事を聞くや否や足早に帰ろうとした白戸の背中を、竹中は慌てて呼び止めた。それから、
「悪いんだけど、帰る前に研修医たちみんなで外に行った安藤をさ、連れ戻してきてくれないかな」
「えっ?」
「帰りも遅いし、ちょっと心配なんだよな。アイツ見つけたら言伝だけしてそのまま帰宅していいからさ。頼むよ」
「マジかよ……」
白戸はあからさまに嫌な顔を浮かべながら、そう呟いたのだった。
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