狂気 二
七月十九日、午後一時頃。
白戸総合病院に大量の重軽傷者が運ばれた。
現場はにわかにひっ迫する。ベッドが埋まり、救急が鮨詰めみたいになる。救急医が局所的に不足し、俺たちのチームも急遽召集される。研修医たちに貴重な教育の場を設けたいという意図もあるのかもしれない。
ところで急患のそのほとんどが熱傷であり、その内数人は集中治療が必要なほど重度の火傷を負っているようだった。
「真昼間の漫画喫茶に放火されたらしいですよ。SNSで話題になってます。すでに三名が無くなってるみたいです」
携帯を弄りつつそう宣う研修医の賀茂川の言葉を右から左へと流しつつ、担架で勢いよく運ばれてくる患者の様子を遠目で速やかにチェックしていく。
「十数名の重軽傷者です。赤タグ三名」
「三名か……ちょっとキツいかもな」
三人いる研修医の一人、市川遥が竹中さんにそう報告した。生真面目な彼女は既に一人の医師としての自立を始めているようだった。将来いい医者になるだろう。
「トリアージの内容は頭に入ってるな」
報告を聞いた竹中さんが、そう言いながら研修医たちに睨みを効かせる。これだけ多くの重症患者が一斉に運び込まれる経験が彼らにはない。ほどよい緊張感を受け付けようという意図だろうか。所謂新人いびりと言う奴だ。いびりと言っても、竹中さんはかなり易しい方だが。彼はなんだかんだで身内に甘い。
すると、
「当り前じゃないすか」
いや、研修医たちの中じゃお前が一番心配なんだけどな。マジで頭に入ってなさそうで。医師免許持ってるんだから、そんなわけがないのは重々承知なんだけど。つーか、ちゃんと試験受けてるよな? 国家試験に裏口合格とか、無いよな? 不安だ。俺の脳裏に、如何にも悪そうな顔をしながら偉そうな人の前に札束を積んでニヤニヤ笑っている賀茂川の姿が浮かんだ。全部俺の妄想だけどな。
「赤最優先黄待機緑保留黒死亡」
俺の不安を他所に、すかした様にトリアージの色分けをすらすらと応えたのは、同じく研修医の白戸秀之だった。ここに来た当初はこいつも賀茂川同様の不安の種だったが、しばらく仕事ぶりを見て、実際の所は「かなり優秀」なのだなと評せざるを得なかった。しかし、彼の性格上、同僚とのコミュニケーションに若干の難があるのは否めない。仮にそれらの問題を含めずともコイツは俺たちにとっての「地雷」なのだ。
「よし」
竹中さんは、頷いた。
それから、細かい指示をチームに対して的確に与えてゆく。竹中さんの指示のよどみのなさからはさすがの貫禄を感じるものだ。俺はこういうのが苦手だから、尊敬するよ。
そんなこんなで、チームは分担してそれぞれの患者を診ることとなった。
〇
福良美嘉の場合
「酸素飽和度88に低下」
「息ができてない」
福良美嘉は看護師の報告を他所に、息も絶え絶えな患者の口元にライトをあてた。
患者の胸には大きな火傷が生じているのが見て取れる。すぐにでも胸の治療をしなければならないのは明白だが、しかし、大きな火傷を負った患者を診る際には、まず真っ先にA(Air way)の確認、つまりは気道の熱傷の有無を確認すべきである。
大きな火傷を負っていなくとも、呼吸に何かしらの異常がある際は重度の気道熱傷を引き起こしている場合があり、早期に対応しなければ咽頭浮腫による呼吸障害の発生など、ほんの少しの対応の遅れが一瞬で患者の生死に直結するからだ。
福良は鼻孔と、それから口腔内を素早くチェックしていく。
「口を開けてくださいね」
口の中を覗き込みながら、
「顔に火傷はない……それに鼻口腔内に煤煙無し」
と言うことは、患者の呼吸障害は気道熱傷によるものではなく、胸の重度の熱傷による皮膚や筋肉の内圧上昇によって引き起こされていると推測できる。
「減張切開で十分ね」
福良美嘉は患者の胸に、メスを入れて皮膚を切り開いた。
減張切開。
これによって、見た目は悪くなるが、やけどによって上昇した皮膚や筋肉の圧力を低下させることができる。胸の熱傷によって引き締められていた皮膚や筋肉が切り開かれて緩み、患者はようやくまともに息をすることができるようになった。
「酸素飽和度、元に戻りました」
「デブリドマン(壊死組織の除去)を行う。無菌室へ」
「はい」
〇
杉原瑞樹の場合
「痛ぇ、早く麻酔でもなんでも打てよ!!」
担架の上で騒ぎまくる二十代ほどの男性に対して、杉原瑞樹は努めて無表情で対応に当たる。
「うーむ」
数秒程、火傷の度合いを確認した後、
「大丈夫だな。表皮熱傷だから」
あっさりと別の患者の診察へと移った。
「おい、ふざけんな!!」
「その程度じゃ麻酔もいらねぇよ、適当に患部を冷やしとけ」
未だ騒ぎ続けている患者を適当に見送った後、杉原は続いて三十代ほどの、若禿の目立つ男性の診断へと進む。
「どうやらあなたは見るからに意識がありますね。気道も問題なし」
こちらの患者は比較的落ち着いており、
「あ、ああ、僕は大丈夫です。全然痛くないですから……」
「痛くない? そりゃ不味い」
杉原はお道化た口調でそう言うと、軽快な動作で火傷のある右足の方を指さした。そこには、完全に皮膚が炭化して黒くなっている脚があった。どうやら自分の脚の状態を一切把握していなかったらしい。患者はぎょっと目を見開いて足を凝視した。
「Ⅲ度の重症だ。意識をまだ保ってるのは奇跡というか、完全に不幸中の不幸ってやつだな。よし、無菌室に連れてけ」
最後に余計な一言を加えて患者を青ざめさせつつも、杉原もまた、的確に指示を与えてゆく。
〇
安藤周吾の場合
「市川。この患者の熱傷面積は?」
運ばれてきた患者を前に、安藤は市川に質問した。
「め、面積ぃ!? そんなのいいから早く治してくれよぉ」
「彼の体形は見るからに成人ですから、9の法則かLund&Browderの法則が当てはまります。そして彼の熱傷はそれほど大きいものではないので、この場合は詳細な面積の決定に用いる後者の法則を利用しましょう。彼の場合は右手の平と、それから右脚の下腿半面に熱傷らしきが見られますから、局部面積を体表全体の一パーセント程度の面積だと仮定した場合、彼の熱傷面積は1.25+3.5=4.75%だと推測できます」
自分をガン無視で何やら難しそうな話を始める気難しそうな医師二人に、患者は顔を青ざめさせて、それから手で顔を覆って嗚咽を漏らし始める。
「なんだよそれ! 死ぬのか? 俺……」
「大丈夫です。死ぬほど軽傷ですから」
市川がそう言って、看護師に患者を運んでもらう。患者は顔を茫然とさせながら、からからと担架に乗ったまま何処へやら運ばれていった。さっきのはただの雑談だ。治療には何の関係もない。いや、若干はあるか。
もうすでに、急患の搬送は大方終了していた。だけど、遅れて運ばれてくる急患がいた。赤タグだ。弛緩し始めていた現場の空気に再び緊張が走る。
「じゃああの患者は?」
安藤は流れるように、今しがた救護班に運ばれてきた新たな患者の方を指さした。
「アレは……」
市川は数秒程患者をじっと凝視したが、やがては首を振って応えた。
「わかりません。ですが概算でも30%以上は確実に」
正直、安藤の目から見ても、あまり予後はよろしくないように思えた。二人はそんなことを話しながらも運ばれてきた患者の元に駆け寄って、
「二十歳くらいか。容体は?」
「ショックを引き起こしています」
「熱傷ショックか」看護師の言葉に、安藤は顔を顰める。「火傷から数時間は経過してるってことだ」
患者の意識は完全に消失している。一応、気道の確認を行うが、熱傷らしきものはない。
「どうして対応がここまで遅れたんでしょうか」
市川の最もな疑問に、救護班の一人が、
「現場から離れた位置で捕まったんです」
「……捕まった?」
「はい。どうやら彼が件の漫画喫茶に火を放った放火犯らしくて」
市川が、ハッとして患者の顔を確認する。安藤と市川の間に、若干の緊張が走った。
市川はともかく、安藤はこれまでに何度か、所謂犯罪者を診察、手術したことがある。だからと言って全く緊張しないわけではない。相手によっては診察中や術中に暴れ出す危険性があるのだから。まあ、その危険性は程度の違いはあれど、犯罪者だけでなく一般の患者全般に言えることではあるが。
「尿量が低下。浮腫もある」
あくまでも安藤は平静に診察を続ける。その様子を見て、市川もすぐに動揺を捨てた。
尿量が低下しているのは、皮膚のバリアが無くなったことで体液が急速に蒸発し、全身の液量が急低下しているからだ。
「治療しないと死ぬぞ」
まあ、しても死ぬけどさ。安藤は暗にそんなことを考えていた。
「熱傷面積と熱傷度合いを軽く見ました。BIは40以上です。予後の見通しは極めて悪いですね。対応も相当遅れましたし、持って数時間です」
「そうか……」
安藤はしばらく考え込んでいたが、やがて、
「他の患者の治療にあたるぞ」
と言って、患者の元を離れた。安藤も市川同様、彼を助けることはできないと判断したのだ。いや、彼は初見の時点で既にそう考えていた。
市川は、一度だけ患者の方を振り返ったが、すぐに安藤の後ろを速やかに追随してゆくのだった。
〇
午後七時頃。
数時間が経過して、ようやく現場は落ち着いた。杉原や竹中さん、福良はどうやらまだまだ手術などに追われているようだったが、俺は比較的直ぐに休憩に入ることができた。
「はぁ……」
院内に敷設されているソファーに腰を下ろして、一息ついた。と同時にどっと疲れが湧き上がってくる。
「中々ハードな午後でしたね」
研修医たちも近くで休憩を取っている。市川が言いながら、俺に自販機のコーヒーを手渡してくれた。
「そうだな。お前らそろそろ帰れ」
俺が市川、それから眠たそうにあくびしている賀茂川、目を閉じて腕を組んで狸寝入りしている白戸にも声をかけた。
二人はようやくかとばかりに腰を跳ね上げさせてソファーから立ち上がったが、市川だけは若干不服そうに眼鏡のツルを指で押さえた。
「私はまだ大丈夫ですけど」
「いや、研修医の残業は法律で禁じられてる。残業なんて研修医じゃなくなってから腐るほどやるんだから、今は休んどけ」
「えっ、別に医師も残業できる時間は決まってるでしょ?」
俺の言葉に、賀茂川が突っかかる。どうやら彼にとっては死活問題らしい。
「何言ってんだ、患者なんて年中無休でやってくるんだぞ。休む暇なんかない」
「いやいや、働き方改革で残業はなくなったんじゃないんですか」
「残念ながら働き方改革でなくなったのは残業代だけだよ。お前らも外科医になるなら覚悟しとけ」
そもそも、わざわざしたくもない残業をしているのは単純に四六時中仕事に追われているからであり、病院側の搾取でも何でもない。それを横から「残業を失くせ」などといきなり宣われても、労働力と資金が倍にでもならない限りそんなことは物理的に不可能だった。
「えぇ……」
絶望の表情を浮かべる賀茂川と、やれやれとニヒルに笑みを浮かべる白戸は対照的だった。確かに、白戸は賀茂川とは事情が違う。研修医を卒業した後のキャリアには雲泥の差があるのだから。
と、そのとき、研修医たちと俺の業務用の携帯から、一斉にコールが鳴る。
「なんだ?」
それから、大量の患者が突如として運ばれてきた。
なんだこれ、デジャヴかよ。
大きなため息が出た。
「おいおい、またどっかで大きな事故でも起きたのか? もうウチは限界だろうに」
「またって何の話ですか?」
「あ?」
俺は市川の方を見た。
市川は不思議そうな顔で、俺を見る。
そんな市川の頭の向こう側で、看護師たちが砂糖の山に群がる蟻みたいに忙しなく動き始めているのが見て取れた。
そこで、はたと気が付いた。
昼過ぎに見ていた光景と、うり二つ。
まるでうり二つだということに。
それは出来の悪い焼き直しのビデオ再生を見ているかのようであり、脳みそが数度ほど傾いているかのような、非常に気持ちの悪い感覚のズレに苛まれた。
強力なデジャヴの体感。
でも、デジャヴと違って、脳の錯覚なんかじゃない。
まさか、これは。
今、何時だ?
携帯を取り出した。
液晶を見た。
時刻は、正午過ぎ。
「おいおい、嘘だろ」
思わず、そう呟いた。
いつの間にか、時間が昼過ぎにまで巻き戻っている。
再び、ループ現象が起きたのだ。
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