狂気 一
「先生は脳腫瘍のスペシャリストだと聞いています! どうか! どうか!」
診察室に入ってくるや否や、外来でやってきた母親らしき女性はそう言って懸命に頭を下げた。彼女の傍らには、彼女の息子であろうか、ぼんやりとした男の子が丸椅子に座って虚空を眺めている。
俺はしばらく、こちらに向かって平に頭を下げている彼女の、頭頂部のつむじを所在なさげと言った風に眺めた。
髪の毛がちりちりと縮れている。ストレスだろうか。
あ、円形脱毛もある。
……。
しばらく、診察室内にくるくると沈黙の妖精が踊り回った。気不味くてしょうがなかった。
そのあと、ひっそりと天井を仰ぎ見た俺は、相手に聞こえないように喉の奥を目いっぱい使って、低く唸った。手元の電子カルテを診ながら、
「えーと、確か息子さんが患っているのは――」
言いながら、ちらりと母親の横に座っている子供に目を向ける。十歳くらいだ。当の本人は、状況をわかっているんだがわかっていないんだか、ぼんやりと虚空を眺めていて、懸命な母親には目もくれない。やはり無関心を貫いている。
「確か、びまん性内在性橋神経膠腫(DIPG)、でしたよね」
「はい」
「でしたら、現代の医療技術では治療はほぼ不可能なんです」
「それは何度も聞きました。だから先生の元にやってきたのです。先生は脳腫瘍摘出のプロフェッショナルだと聞きました」
「はぁ」
そんないい加減な噂を流した奴はどこのどいつだろう。三流の週刊誌が頭の悪そうなランキングでも作ったのだろうか。「脳腫瘍のスペシャリスト医師トップ10!」みたいな。もしそうだったら是非ともその週刊誌を刷りやがった出版社へ殴り込みにいってやりたい。そもそも俺は超絶若手のペーペーだぞ。
「先生の腕を見込んでここまでやってきたんです!」
「非常に申し上げにくいのですが、私はあくまでも専門は外科医ですので……。外科的アプローチでのみ治療可能な腫瘍しか取り扱っていないんですよ」
「治せないんですか」
「まあ、そうですね」
「どうしてですか!?」
それは既に散々説明されてきたはずだけどな。軽い吐き気を覚えつつ、机の中に手を突っ込んで、手探りで目当ての資料をどうにかつかみ取ってから机の上に引っ張り出した。それを母親の目の前に広げて、描かれている二つの絵を指さす。
「脳腫瘍には主に二つの分類がありまして、
脳実質外腫瘍 と 脳実質内腫瘍
に分けられます」
描かれている内の手前の方、『砂山の上にボールが置かれた絵』に指をあてる。
「脳実質外腫瘍は主に良性で、増殖様式も圧制性で緩徐です。わかりやすいイメージですと、脳実質外腫瘍はこの砂浜に乗せられたボールです。砂浜は脳で、ボールが腫瘍だと考えてください。ボールは砂浜の上にのせられているだけですので、砂浜をくずさずにボールを取り除くことは比較的容易です」
それから今度は、奥の方の絵を指さす。『砂浜と、水の入ったじょうろ』が描かれている。そしてじょうろは水を、砂浜へと注いでいる。
「脳実質内腫瘍はこちらのイメージです。脳が砂浜だとすると、腫瘍は砂浜に注がれた水そのもの。水を砂浜のてっぺんに注ぐと、水(腫瘍)はどんどん砂浜(脳)に染み込んでいきますよね。この性質のことを「浸潤性」と言います。浸潤した腫瘍すべてを取り除くのは、砂浜に染み込んだ水を全て取り除くのと同様に、非常に困難です。無理にスコップか何かですべてを取り除こうとすれば、砂浜(脳)が途端に崩れてしまう。そうなれば、脳機能に重大な障害が残る可能性が高い。そして、浸潤性の腫瘍は一パーセントでも除去できなかった場合ほぼ確実に再発します。ですから、脳実質内腫瘍を外科手術で治すのは難しいんですよ」
「でも、浸潤性の腫瘍でも場合によっては手術で治るっておっしゃられていた先生も……」
おい、やっぱちゃんと知ってるじゃないか。いや、それはともかく。
「確かに、部位や腫瘍の種類によっては、或いは化学療法や放射線治療との併用で、浸潤性であっても治るものもあります。しかしお子さんの腫瘍は脳幹部全体にびまんに(広く一面に)浸潤しているのです。脳幹は脳の非常の重大な器官です。ですから手術で切り取ることはおろか、生検すら危うい。まあ、お子さんの腫瘍はまず間違いなく悪性度の高いガンですので生検の必要はないですけども……。
ともかく現状では放射線による治療しか効果が認められていません。頼みの化学療法も、現状では有用性が示された事例はほぼありませんね」
そう言えば一度どこかの国で化学療法による臨床実験が行われたが、結果は惨惨たるものだったな。
「……放射線治療では治るんですか」
「……治りません。治療を受けても生存期間の中央値は約十一か月、二年生存率は10%もありません。
結局のところ、我々にできることは放射線による、激しい苦痛を伴うなけなしの延命治療を続けるか、続けないかの選択だけなんです。結局はどの段階で妥協するか、それだけなんです」
そう言い切った時点で、母親はヒステリックに泣き始めた。一体何人の医師にこの泣き顔を晒したのだろう。
これは拙いな。ちょっと、俺も悲観的にものを言い過ぎたかもしれない。患者に不用意に恨まれるのも御免なので、一応フォローを入れておく。
「まあまあ、自然完全寛解の可能性が残されていないわけではないですから」
「かん、かい……?」
母親は顔を上げた。
まるで、「洞窟に引きこもって修行していたら天使がお出迎えしてくれました!」、とでも言わんばかりの恍惚の表情だった。申し訳ないが、その天使、十中八九幻覚だと思うんだよな。個人的には。
「医学的アプローチをせずに、自然に腫瘍が消えてしまうことです」
「そんなことがあるんですか!?」
「ありますよ。まあほぼ確実にありえない確率ではありますけども」
後半部分は聞こえていたのか聞こえなかったのか。ともかく母親は泣き止んだ。
「ですから気を強く持ってくださいね。奥さん」
「あ、いえ、今は離婚して独身です」
「……そうですか」
なんだこれ。
気まずい空気が流れる中、事情を分かっているんだかわかっていないんだかイマイチ釈然としない子供の、暇そうに揺れる頭だけが呑気そうにゆらゆら動いているのみであった。
〇
どっと疲れが溜まった気がする。いや、気のせいではないか。
結局診察だったのか何だったのか、イマイチよくわからなかった何かを終え、さあ昼休みだと診察室から退場しようとした、その間際の出来事であった。
緊急のコールが掛かった。
どうやら、大きな火事がウチの病院付近で発生したらしい。
大量の重軽傷者が運び込まれてくるようだ。かなりの数なので、ER勤務でない俺にも声が掛かったようだ。やれやれ、昼飯を食い損ねた。
俺はため息を吐くと同時に、さっと立ち上がって現場へと急いだ。
別に珍しいことでもない。
医師にとって昼飯を食いっぱぐれることなど、日常茶飯事なのだ。
まあ、この後起こることは、全く日常茶飯事ではなかったけれども。
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