憑依 拾
あれから何日も時間が過ぎ、そしてその間にループ現象はただの一度も起きなかった。
アレは、やはり幻覚か何かだったのだろうか。
それとも、腫瘍の拡大がもたらした、一時的な奇跡、或いは呪いだったのだろうか。
わからないが、一つだけ確かなことがある。
俺はまだ生きている。そして、症状も悪化していない。つまり、俺の頭の中の腫瘍は悪性ではない可能性が、高い。
だから安心だというワケではないけれど、いつしか俺の頭の中から腫瘍や謎のループ現象に対する悩みが薄れ、やがては医師としての仕事に再び没頭するようになった。
何時俺は死ぬのだろうか。
死ぬまでに、何人の人間を救うことができるのだろうか。
もうすぐ死ぬかもしれない人間が、どうすれば幸福な人生を歩むことができるのだろうか。
不幸中の幸いと呼ぶべきか、俺は今、社会に大きく貢献することができる職種に就いている。
それが幸福なことなのかどうかはわからないけれど、
俺は死ぬ未来にひたすら抗うかのように、
人を直接自身の手で救うことのできるこの医師としての仕事に、
この頃を境に、徐々にのめり込むようになったのだった。
〇
「アイツ、最近また雰囲気変わりましたよね」
会議室に屯していた杉原が、唐突にそんなことを言い出した。
「なんか元に戻ったような、戻ってないような」
杉原は竹中を見やった。今会議室には杉原と竹中の二人しかいない。
「そうだなぁ、色々あって一皮むけたのかもな」
「一皮?」
「ああ、この前の患者の娘――未森未来だったかな、彼女の父親の虐待を真っ先に疑ったのもアイツだし、そのあと迅速に対応したのもアイツ。以前の安藤なら逆立ちしてもやらなかっただろうな、あんな面倒こと」
「一体、何があったんですかね?」
「さあな、なにかヘンなもんにでも取り憑かれたのかもな」
「はは」
杉原は竹中の言葉に苦笑した。
「そう言えば、あいつ今どこで油売ってるんですか」
「安藤なら手術中だよ」
「アイツ、昨日の夜も緊急の手術してませんでしたっけ。確かどこぞの耳鼻科医のアホがミスって動脈を破っただとかで」
「ああ、もう二徹してる」
「のめり込み過ぎてるんじゃないですか?」
ニヤニヤと笑いながら冗談半分にそう言った杉原に、しかし竹中は無表情のまま応えた。
「一皮むけすぎて妙な病気に罹ってなきゃいいけどな……」
〇
午後四時四分。
開頭手術を行う。
頭部の皮膚切開を開始。
「十番」
手渡されたメスを使い、頭部の皮膚を半円状に切開していく。頭部は血流が集中しているので、細心の注意を払いながら。それから、筋肉を開き、露出した頭蓋骨にドリルで複数個所穴を空けてゆく。その穴に沿って、カッターで頭蓋骨を円状に切断。さらに、鉗子を使って硬膜を切り開き、脳が露出する。
ここから顕微鏡手術に移行する。最新の注意と、集中力が必要とされる。大きく深呼吸をした。
……。
それから数時間後。
手術は完璧だった。少なくとも、自分はそう感じた。俺が顕微鏡から頭を離すと、にわかに現場の空気が弛緩する。自分も肩から緊張がドッと抜けた。
手術はもう何度も繰り返したことだ。何度も何度も失敗を経験した。それでも、手術に慣れは一生やってこない。それは手術の出来が人の命に直結しているからだろう。凝り固まった肩をほぐして、あと一息だ、と頭蓋のクリッピング作業に取り掛かろうとした
その時だった。
再び頭部に集中し、鉗子を向けた時だ。
思わず眉を顰めた。
俺が操作している鉗子の他に、もう一つの鉗子の先端が、俺の構えている鉗子に衝突すれすれの位置で、ゆらゆらと揺れていた。
おいおい。
温厚な俺でも流石に声を荒げそうになった。
何をやっているんだ。
ありえないぞ。
一体誰だ? こんなことをする馬鹿は。
そう思い、若干の怒りと共に顕微鏡から目を離して顔を上げた俺は、眉を顰めてこちらを睨んでいる俺と目が合った。
「……」
そんなわけがない。
目を見開いて静止している俺の姿をぼんやり見つめながら、考える。なにせ、仮に巨大な鏡を俺の真正面に設置したって、こうはならないのだから。
なんだこれは、何を見ている。
まさか、幻覚?
腫瘍の件が、脳裏を速やかに横切った。
その時、ふと、気が付いた。
正面にいる俺は、クリッピング作業に取り掛かろうとしている。
じゃあ、俺は今何をしている?
頭を下げると、綺麗に剃り込まれた患者の綺麗な皮膚が見えた。
傷一つない。
そして、周囲のチームらが、いぶかしげな眼で俺を見つめている。
そこで、俺はようやく悟った。
時間が、手術直後に巻き戻っていることに。
「……」
大きく、深呼吸する。
頭の中の悪魔が俺に囁いているのだ。
何かはわからない。
わからないが。
何か、取り返しのつかないミスを犯したのだ、と。
俺は失敗したのだ。
人は失敗する。
どんな名医だろうが、天才だろうが。
だが、悪魔は失敗を許さない。
成功するまで、何度でも。何度でも。
だから、やるしかないのだ。
どうにかして、成功させるしかない。
よし。
俺は覚悟を決めた。
永遠に回り続ける時間の牢獄をひたすらに彷徨う、覚悟を。
午後四時四分。
頭部の皮膚切開を再び開始。
「拾番」
(終)
――――
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