憑依 八
三月十九日 午後六時十二分。
少女の容体が悪化。
急激な発熱。
四十度近い体温。
すぐに治療を行わなければ、少女は死ぬ。だけど俺はただ独り、何もせず少女のいない病室に腰を据えていた。
何故なら、もう少しで彼がやってくるからだ。
ほら、来た。
「娘の治療はどうなっているんですか!?」
勢いよく病室に入ってきたのは、未森劉生。
「落ち着いてください」
俺が一言そう言い添えると、父親は思いの他すぐに落ち着きを取り戻した。いや、或る意味予想通りだともいえる。
「まずは、血液採取のご協力感謝します」
「私の血などいくらでも渡しますよ! あの子の命が助かるなら」
「ありがとうございます。
しかし……娘さんは今、非常に危険な状態です。体温が四十度まで上昇しました」
「もっとひどくなるんですか?」
「なりません。四十一度で上げどまりです」
曰く言い難い表情を浮かべる父親、未森劉生に言葉を続ける。
「人間の脳を構成するたんぱく質は四十二度程度で変異します。つまり、人間の体温は四十二度以上まで上がることは無いんですよ」
「は、はぁ」
「つまり、体温が上がる間もなく娘さんは死ぬということです」
「だ、だったら!!」
「そうです」
また騒ぎだそうとする父親を手で制する。
「時間がありません。あの子の命を救うには、あなたの全面的な協力が必要です」
じっと、父親――未森劉生の目を見つめる。俺の纏う異様な雰囲気を察したのか、ごくりと固唾を飲みこんで黙りこくった。
「だから、正直に話してほしいんです」
そう、正直に。
「娘さんに、性的虐待を加えたという事実はありますか?」
「は?」
俺の言葉に、未森劉生は逡巡した。或いはただ呆けていただけかもしれない。しばらくしてから、彼は絞り出すようにして、言った。
「そんなわけ……ないでしょう」
彼の言葉に被せるようにして言葉を続ける。
「娘さんに現れた症状は、
てんかん発作、
幻覚、幻聴、せん妄
そして、発熱。
私たちは初期の時点で脳に腫瘍を見つけた。
「これは、例えるなら、殺人現場付近で血に濡れた包丁を手に持った人間を見つけたようなものです。当然、私たちは腫瘍が一連の症状の原因だと断定しました。でも、もしそうじゃないのなら。
腫瘍が犯人ではなかったのなら。
この急激な発熱は感染症の特徴です。
それに、てんかん発作。幻覚、幻聴。人格変化。
おそらく、娘さんの急激な体調不良は脳腫瘍が原因じゃなく、脳炎。おそらく性器ヘルペスによる単純ヘルペス脳炎が原因です」
「性器? それにヘルペスって……」
「そうです。性感染ですよ」
ギョッとする父親の顔を見るに、彼は本当に心当たりがないのか、またはトンデモない役者なのか。俺としては、もう結論は出ているのだけどな。裏を取るために探偵も使ったわけだし。
杉原の言うとおりだと思う。「信じられるのは物理的証拠だけ」だと。
「そして、あなたもヘルペスを患っている。唇の赤みとかさぶたが、その証左です」
俺は指を差した。未森劉生は思わず、と言った風に自身の唇に手を当てた。かさりと、唇のかさぶたに爪が当たって乾いた音がする。ような気がした。実際にはそんな音は聞こえない。
「唇、少しピリピリしてるんじゃないですか? 全て口唇ヘルペスの後遺症です。ヘルペスは自覚症状がないことがよくある。男性は特に無自覚であることが多い。おそらく娘さんは、あなたの唾液から性器へとヘルペスウイルスが感染して、そこから単純ヘルペス脳炎になった。ヘルペス脳炎は早期治療が肝心ですのですぐに抗ウイルス剤を――」
「何かの間違いだっ! 再検査を」
言葉を遮るようにして、未森劉生は吠えた。だが、俺は一切動じない。通常に患者と違って、こいつに対して俺が下手に出る必要は全くないからだ。
「実はもう検査済みなんです。ウチの女性医師が娘さんの身体検査をしました。
本来なら児童の身体検査を行う際は両親の許可を得るのが望ましいのですけど、今は一刻を争う事態でしたから、無断でさせていただきました。何せ特定の部位を診察すれば、性器ヘルペスにり患しているかどうかは、症状が出ていれば一発で診断できますからね。時間のかかる血液検査を行う必要はありません」
「……血液、検査?」
未森劉生は、そこでようやく自分が罠に掛けられたことに気が付いたらしい。茫然と呟いた。
「そうです。あなたに先ほど受けてもらった血液採取ですが、あれは輸血目的の検査じゃありません。そもそも感染症の治療に血液なんか必要ありませんから。欲しかったのはあなたが患っているヘルペスウイルスのDNAですよ」
「……」
「ウイルスっていうのは固有のDNAを持っていますから。あなたの体内にあるウイルスのDNAと、娘さん――未森未来さんのそれとを比較すれば、彼女が誰からウイルスをもらったのかが一目瞭然だということです」
いよいよ、彼の視線は定まらず、俺と、彼の間の空間を彷徨っているようだった。
「まあ、一応、ヘルペスウイルスには油膜があって感染力が高いですから、性交渉以外で家族間に感染するという可能性も大いにあります。例えばウイルスが含まれた体液に接触する……とか。湯船からの感染はありえませんが、ウイルスが含まれる体液のついたバスタオルを共有したりすると、感染することが極稀にあります」
「じゃあ!」
「ええ、性感染云々は全てこちらの憶測です。憶測ですから、それを確かめるために検査と同時に、あなたには無断で治療済みの娘さんにお話を伺っているそうですよ」
「……」
父親は黙っていた。
彼の目には、動揺こそあるものの、疚しさのようなものはあまり垣間見えない。性交渉と言っても大したことはしなかったから大丈夫だとタカをくくっているのか、本当に欠片も覚えがないのか、イマイチ判別がつかなかい。悪いがこちらは榎田さんを通して個人的に裏を取っているのだから言い逃れは不可能、というより絶対に認めないつもりなのだけどな。
或いは、娘は自分を売らないと確証があるのだろうか。だとしたら厄介だな。
と、そこで病室の外からぞろぞろと多数の足音が近づいてくるのを感じた。
「結果は知りませんが、どうやら話が終わったらしいですね」
俺がそう言うのとほぼ同時に、病室の中にスーツを着た一団がのしのしと上がり込んでくる。謎の集団の乱入に動揺する未森劉生には見向きもせず、スーツの一団の一人が口を開いた。
「先生。彼が未森劉生ですね」
「ええ」
「未森劉生さん」
続いて、未森劉生に、死刑宣告のような厳かさで彼は言った。
「多少時間はかかりましたが、娘さんからお話を伺うことができました。あなたに児童虐待の疑いがあります」
病院は既に然るべき機関に通報していたらしい。
「未森未来さんは我々が保護しました。それから、あなたには未森未来さんに対する一切の接触を禁じます」
彼の顔から、あらゆる色が一斉に抜け落ちていった。斯くも人の顔色は急激に変わるのかと感心させられたほどに。医師の自分にとって、患者の顔色が急変することなど見慣れたものだが、さすがに病気以外の自由でここまで変色するのは、ちょっとお目に掛かったことがない。
なんてことを考えている間にも、狼狽し通しの父親を、スーツの一団が流れるように、半ば強制的に連行していく。凄まじい手際の良さだった。あ、ウチのソーシャルワーカーもなんでか知らないけど後ろにいるぞ。全然手伝えてないけど。
そう言えば、確か未森未来の検査と診断は彼女に頼んでいたはずだが……。彼女はどこにいるのだろうか。
「待ってくれ! 何かの間違いなんだ!」
未森劉生は無茶苦茶に騒いでいるが、スーツの一団――警察関係者やら児童保護団体の方々――は全く意に返さない。彼らの代わりに、未森劉生の言葉に応えたのは、
「間違い? それはないよ。処女膜は欠損してたし、ウイルスのDNAも一致。本人も行為があったことをそれとなく認めてる」
と、そこで俺は、厳かな一団の後方から、これまたランウェイを歩くモデルと見紛う程の迫力でこちらに近づいてくる人影に、ようやく気が付いた。
福良美嘉だ。
なるほど、道理で手回しが速いわけだ。
「お疲れ」
「いや、こちらこそありがとうございました」
「本当にあるのね、こんな事」
「ドラマで似たようなのを見た事ありますね」
俺たちがそんな会話を交わしている間にも、未森劉生はズルズルと部屋から引っ張り出されてゆく。こちらを凝視しているけど、……あまり気にしないでおこう。
「敬語はいいから。それより、ヘルペスのこと、よく気が付いたわね。感染症は専門じゃないのに」
「やるじゃん」とばかりに、福良美嘉はこちらを流し目で見てくる。こういうなんてことのないちょっとした仕草が異様に極まってるあたり、彼女はやはり所謂ところの「美人」と言う奴なのだろう。
そんなこと、口が裂けても口に出しはしないが。軽く咳ばらいをしつつ、つとめて平静を装いながら、
「一応、脳が専門だからな。脳炎ヘルペスの症状くらいは押さえてる。だけど彼女が11歳だったから性感染の線を殆ど追ってなかったのが痛かったな」
「気づくのに遅れたのはそれが要因の一つね。失敗したわ。ちゃんと私もサボらないで診察しとくべきだった」
「まるで俺の診察が悪かった、みたいな言い方じゃないか」
「そうよ。どうせほとんど父親の話しか聞いてなかったんでしょ」
「うっ」
確かにそうだ。反省しなければ。仮に未森未来に助けを求める医師があったとして、父親が傍にいたら密告などできようはずもない。
それに、未森未来くらいの齢では虐待の自己申告がないことが多い。大抵誰にも言わず、助けも求めずに只管耐える選択を取る。一般的な親が子を護るのと同様に、一般的な子もまた親を護ろうとするものなのだろうか。
まあ、未森未来が一般的な子供なのかどうかは若干疑わしいところではあるが。しかし、どちらにせよこれでもう安心だ。
「ま、何にせよ。今回は助かったわ。ありがとう」
「いや、福良先生の言うとおり、これからは気を付けて診るよ」
「……先生はやめて」
まあ、なんにせよだ。後は、娘の快復を待つばかり。
俺は窓の外を見た。暗くなってきている。よし、時間は巻き戻っていないみたいだ。ループは終わったのだ。やはりループの原因は未森未来の死だった。そして、未森未来は死ななかった。何度もループする事態にならなくてよかった。あれ以上は身が持たないからな。
と、その時。
遠くの方で、どんと音がした。
なんだ。
振り返ると、天井が見えた。
おかしい。後ろが天井なわけがない。足を動かそうとしたが、全く動かない。違う。そうじゃない。俺は今、地面に倒れている。ジワリと、背中が熱くなっていくのが分かった。背中の、腎臓付近だろうか。なにか、冷たいような、熱いような、奇妙な感触がある。それから、でっかい人影の俺の上にのしかかっているのもわかった。
未森劉生だ。
なにやら、試練だとかなんだとか、ぼそぼそ呟いていて不気味だった。尋常じゃない様子だ。目がイッてる。こういう患者は何度か見かけたことはあるけど。
それよりも、なんだこれは。
なんなんだ。
「――っ! ――っ!」
耳鳴りの向こう側から、何かの叫び声が聞こえてきた。これは、福良先生の声か? それとも、警官たちの声だろうか。脇腹付近から、だくだくと血液が流れだしていく。この出血量は拙い。致命傷じゃないのか。
混濁しつつある意識の狭間で俺は悟った。
俺は刺されたのだと。
おいおい、こいつ刃物を持ち歩いてるのか? 凶器はどっから湧いて出てきた。
ああ、視界がぼやけてきた。
嘘だろ、死ぬのか。
頭の奥から、何かの呼び声が
天井が廻って、
それから
ああ
あ
あ
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