憑依 六
三月十九日 午後六時頃。
患者の体温が急激に上昇した。
39度から40度近くまで上昇。
「このままじゃ脳が沸騰して死ぬ」
これ以上体温が上昇するのは、拙い。そうでなくとも、既に重度の障害が発生しているかもしれないのだ。早急な対応が求められている。
しかし……。
「なんで急に悪化した」
「腫瘍が拡大したんだよ! 言い争ってるヒマはねぇぞ。すぐにオペしないとヤバい」
杉原が怒鳴った。患者を早く手術しなければならない。確かに杉原の言う通りではある。取り敢えずナプロキセンは投与したが……。
俺たちは手術室に入る前に、素早く念入りな手の消毒、それから各装備の着用を行った。看護師が俺たちの術衣の着用を速やかに手伝ってくれる。熟練の手際だ。
彼らに手袋をはめてもらっている最中、俺の脳裏には疑問で埋め尽くされていた。確かに杉原の推測通り、腫瘍が急に悪化したという考え方も、できなくはない。脳腫瘍による発熱はよくある症状の一つだ。
しかし、ここまで急激な発熱などありえるのだろうか。しかも、父親の話を信じるならば患者の幻覚症状は二年前からあった。つまり、腫瘍は二年前からそこにあったということになる。そんなものが今さら急激に悪性化するとは考えにくい。
いや、今は考えることよりも手を動かすことが先決か。
三月十九日 午後七時四十二分。不安と疑念を抱えたまま、手術が始まった。
頭の皮膚と筋肉をメスで切り開き固定する、それから頭蓋にドリルで穴を空ける。
慣れたものだ。
素早く開頭。開頭は比較的楽な作業。本題は開いてからだ。
ナビゲーションシステムを用いて、術前画像を主に、病変と操作端子との位置関係を慎重に、それでいて手早く確認する。俺は顕微鏡を覗き込んで、ワイヤートラップのように張り巡っている前大脳動脈を避けつつ、鉗子を慎重に突き進ませた。
「……あった」
十分ほどたち、数センチほど進んだあたりで、俺はその違和感に気が付いた。
腫瘍は肉眼では正常脳との区別が難しい。だが、俺には分かる。何度も見てきたからだ。具体的にどう違うのだと言われてもちょっと言語化するのが難しい。例えるなら欧米人はアジア人の顔を中々区別できないことが多いらしいのだが、俺たち日本人はそれぞれの顔を「アイツはイケメン、アイツは不細工」といった風に区別することができる、でも具体的に何がどう違うのか、欧米人にそれを上手く説明できない。みたいな感じ。
それに、鉗子から伝わってくる手触りも違う。グリオーマは正常脳と比べてちょっと硬質化している……ような気がするのだ。本当にそんな気がするってだけで、実際にどれほどの違いがあるのかどうかはわからない。ていうか、ぶっちゃけグリオーマなのかどうかすら、本当はわからん。中国人なのか韓国人なのか日本人なのか。そんな感じ。グリオーマなのか? お前は。
「腫瘍鉗子をくれ」
鉗子で腫瘍の一部を切除し、標本を数点採取しておく。迅速に組織検査だ。標本を乗せた救急車が大学病院までレッツラゴー。深夜遅くにすまないな。
だけど、検査するまでもなく、俺の頭の中の疑念は悪性腫瘍のようにずぶずぶと膨らんで浸み込んでゆく。
「術前画像は最早役に立たないと思ってたけど、やっぱり腫瘍はそれほど拡大していないぞ」
本当に腫瘍が原因の発熱なのか?
悪性度はそれほど高くないのではないか?
わからない。だが、一度手術を始めてしまった以上、もう後は突き進むしかない。
開始から数時間。
三月二十日、午前零時過ぎ。
確認できる腫瘍の全摘終了。念のため周辺組織も切り取りマージンを確保。浸潤性の悪性腫瘍だった場合、一パーセントでも組織が残っていれば、確実に再発するからだ。まあ、その場合全摘なんてのはほぼほぼ不可能みたいなものなので、放射線との併用という形になるが。
しかし、そんな必要は感じない。俺の勘が告げている。
そして、やはりと言うべきか……
「体温が上昇、40.8度」
発熱は収まらない、どころか燃え盛る炎に油を注いだかの如く、勢いよく上昇を始めたのだった。
「んなバカな。高すぎるぞ」
緊急で助手を務めてくれていた杉原が、思わずと言った風にうめいた。手術を見学していた研修医たちにも動揺が走る。いや、よく見たら白戸はいない。あいつ帰りやがった。マジかよ。いや法律上はそれで正しいんだけどさ。普通帰る?
いやいや、今はそんなことを気にしている時じゃない。
それよりも、この症状はやはり脳腫瘍によるものじゃない。
急激な発熱……。これは、まさか。
「まさか、感染症?」
これは、誰の声だ?
市川か?
隣にいた杉原がギョッと目を見開いて、それから素早くバイタルをチェックした。
そして、叫んだ。
「心拍数170!」
「頻脈。 やはりそうだ」
急激な発熱に頻脈。感染じゃなきゃこうはならない。
「アセトアミノフェン投与」
「体温41度まで上昇」
感染症は初動が肝心だが、その初動をミスった。
グラグラと、地面が揺れ動いているかのような気がした。
なまじ初期の診断で腫瘍を見つけてしまったから、俺たちはそれが原因だと決めてかかってしまった。だが、本当の原因は別にあったのだ。
てんかん。
発熱。
幻覚、幻聴。
まさか、いや、そんな馬鹿な。
何に感染しているか、早く特定しなければならない。
いや、しかし。
――もうこれ以上は……。
「体温――42度」
もう、ダメだ――っ
「先生のも取り除くの?」
その時、患者が、未森未来の声が聞こえてきた気がした。
そんなわけがない。ありえない。
麻酔で意識はないはずだ。
幻聴か?
幻覚なのか?
まさか、俺の腫瘍が悪化し始めたのだろうか。
「―――」
?
「先生のも取り除くの?」
「……」
は
話している。
そんなわけがない。
目が覚めるわけがないんだ。
と言うことは、俺が今見ているこの現実は、俺の妄想……。幻覚の世界?
「安心してください」
「は?」
父親が話しかけてきた。
何言ってんだ。というか、何故こいつが手術室にいる。
「娘は二年前から今までで、時々神がかるんです。これは予言の前兆なのですよ」
あたりを見渡した。
で、気が付いた。ここは、手術室じゃない。病室だ。
先ほどまで患者の娘が、未森未来がいた病室だ。
未森未来がこちらを見ている。術中ではたとえ起きていたとしても起き上がることはおろか寝返りを打つことすら不可能なのに。普通にベッドの上に寝ている。
ありえない。
俺は半ば転ぶようにして駆け出し、もつれる脚に叱咤して病室を後にした。
後ろから父親の声が聞こえるが、そんなことは知ったことではなかった。
背後から、何か大きなものに追われているような気がした。
俺は病院を駆けずりまわった。
〇
何が起こったのか。
それを知るために、それほどの労力は必要がなかった。震える手で、携帯電話を取り出して、見て、気が付いた。
『三月十八日午前九時』
見間違いじゃない。三月十八日だ。
時間が二日分巻き戻っている。
眩暈がした。
天井が廻っている。
「どうしたの?」
福良美嘉だ。なぜこんなところに、福良美嘉がいるのだろうか。
「診察は終わったの?」
福良美嘉が何かを言っている。だが、そんなことはどうだってよかった。ありえない現象が目の前で起きていた。
福良美嘉の後ろに福良美嘉がいる。
「安藤先生?」
まるで合わせ鏡のように、福良美嘉が大量に重なって見えた。
「安藤先生?」
「診察はどうしたの?」
後ろを振り返った。
「診察はどうしたの?」
「安藤先生?」
新感覚のホラー映画の中に入ったかのような気分だ。
俺は走り出した。
「「どうしたの?」」
後ろからも、前からも、横からも、上からも下からも聞こえる。
「「安藤先生?」」
走った。
どこを走っていても、まるで移動している気がしなかった。同じところをずっと走っている気分だ。永遠に続くと思われた。
でも、そうじゃなかった。
院内をひたすら走った。
扉を何度も空けて、ドアを潜り抜けた先に、
未森未来の病室にたどり着いた。
どの扉を出ても入っても。
未森未来のいる病室にたどり着く。
何度やっても。
「先生の中にも「あくま」がいる。私の中にも」
「あくま」だと?
脳がきしむ。
そんなことがあり得るのだろうか。それとも、これも全て腫瘍による幻覚なのだろうか。
幻覚にしては、あまりに現実だ。
だが、あまりに非現実的な現象が起きている。
「「あくま」を倒さないと」
未森未来がベッドの上から俺のじっと見つめている。
まさか、俺がループしていることに、コイツは気が付いているのか?
未森未来が、にやりと笑った。ような気がした。
悪魔みたいな笑みで。
おいおい。
「……マジかよ」
〇
ハッとして飛び上がると、そこはいつぞやの休憩室であった。
「……」
辺りを見渡したが、部屋には俺以外の人間はいない。目の前の机に顔を突っ伏して、しばらくそのまま目を閉じていると少しだけ気分が落ち着いてきた。そして、考えた。
さっきのは、ただの悪夢だったのだろうか。それとも現実に起きたことなのだろうか。
俺は携帯を取り出して、今日の日付けを確認した。
『三月十八日』
携帯を持つ手が、震えた。
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