23:30『腕の中』


 突然の事態に、思考が止まったのは一瞬だけで。



「ちょっとあんた何してんのよ!」


 すぐに我に返ったあたしは、抱き締める腕から逃れようと腕を突っ張った。



 だけど男の力に勝てる訳もなく、がっしりとあたしを抱き締める腕からは脱出出来なかった。



 正直、抱き締めてるってより、押さえ込んでるって感じ。



 天川智明は力ずくで、あたしを腕の中に納めてる。



 それでも。



「俺に惚れた?」


 上から落ちてくるのは、腕の力とは全く真逆の、柔らかく優しい声。



 この、あたしからすると緊迫してるように思える状況には、似つかわしくない穏やかな声。



「あんた、何言ってんの!? 彼女に悪いから離して!」


「うん。彼女いないから」


「はあ!? 何言ってんの!?」


「うん。女いるっての嘘だから」


「はあ!? 何言ってんの!? そんな事で騙されないし! 今の電話も彼女でしょ!」


「いや、友達。今日飲む約束してたの忘れててしつこく掛かってきてるだけ」


「騙されないって言ってんの! あんな声出してたくせに!」


「あんな声?」


「優しい声で話してたでしょ! 彼女だからそうしてたんでしょ!」


「いや、普通だけど」


「普通!?」


「俺、電話の時あんな感じ。営業だから普段から電話では柔らかく話すようにしてる」


「…………は!?」


「女はいない」


「はあ!?」


「色々説明したいんだけど」


「はああ!?」


「先に、ちょっと腕緩めていい?」


「緩めなさいよ! 苦しいじゃないよ!」


「逃げるなよ?」


「…………」


 逃げないって返事はしてないのに、天川智明は腕の力をフッと緩める。



 それはある意味チャンスはチャンスで、逃げようと思えば逃げられたかもしれない。



 途中で追い付かれる可能性はあっても、とりあえず今この腕の中からは逃げられたかもしれない。



――でも、逃げたくなかった。



 心地好かった。



 アノ時のように。



 抱かれたあの時のように、肌が吸い付くような、引き合うような、その感触が心地好かった。



 そんなフワフワとした感覚に、どっぷりはまり込むあたしに。



「水戸さんは、ちょっとすっ呆けてるとこあるよな」


「はあ!?」


 天川智明は突然とても失礼な事を口にする。



 だけどその声は凄く穏やかで。



「おかしいと思う事はなかった?」


 凄く優しい。



「お、おかしいって何が!?」


「昨日、俺が水戸さんを連れて帰った事」


「は!?」


「普通、友達が一緒にいたら、俺に預けたりしないだろ」


「で、でも、朱莉が言うには同じ会社の人だからって、スマホの番号も教えてくれたからって――」


「うん。それにしてもおかしいと思わなかった?」


「は!?」


「……思わないのが凄いよな」


「はあ!?」


湊西みなとにし高校」


「湊西高……? それってあたしの――」


「うん。水戸さんの出身校で、俺の出身校でもある」


「はあ!?」


「水戸さんの友達は俺の事覚えてくれてたんだけど、水戸さんは全く覚えてなかったっぽいよな」


「はあ!?」


「俺が三年の時、水戸さん一年」


「え!?」


「一応、一年間は同じ高校にいたんだけど」


「ええ!?」


「まあ、俺高校の時は野球部で坊主頭だったし、基本部活ばっかで特に目立ってもなかったし」


「野球部って……高校球児?」


「地区予選一回戦で負けるような弱いチームだったけどな」


「…………」


「俺の事、全然知らないみたいだから、ヒントは出したつもりだったんだけど、やっぱ知らなかったみたいだな」


「……や、野球には詳しくないの……」


「うん。水戸さんあの時、サッカー部の奴と付き合ってたしな」


「…………」


「あの居酒屋で会ったのはたまたま。たまたまだけど、水戸さんがよく行く居酒屋だとは知ってた」


「はい!?」


「テーブルに突っ伏して寝てる水戸さん見て、友達に声掛けた」


「声って――」


「俺に送らせてって。悪い事しないからって。どうしても告白したいからって言った」


「……告白?」


「初恋だったんだ」


「ええ!?」


「いや、今がって意味じゃないぞ? 高校の時好きだったって意味。別にずっと引きずってた訳じゃないし、それなりに女と付き合ってたし」


「……それは聞いてない」


「…………」


「…………」


「と、とにかく、水戸さんは俺の初恋の相手で……三年前、水戸さんが新卒でこの会社に来た時、また気持ちがぶり返した」


「それって……片想い的な?」


「『的』じゃなくて、正真正銘の片想い」


「…………」


「だからずっと見てた。昼休み、食堂で飯食いながらいっつもスマホで彼氏にメッセージ送って、返事が来るのを待ってる水戸さん見て、俺がその彼氏だったらって思ってた」


「ひ、昼休みって――」


「俺、今までも結構水戸さんの近くで飯食ってたんだけど、全然気付かなかったみたいだな」


「マ、マジで言ってんの?」


「マジ」


「ええ!?」


「水戸さんの一途さすげえな。一切周り見えなくなる」


「…………」


「だから、俺を見て欲しいってずっと思ってた」


「…………」


「で、俺、一応告ったんだけど」


「ええ!?」


「酔っぱらった水戸さん送ってく時、告ったんだよ」


「…………え?」


「覚えてないみたいだけど」


「…………」


「俺、直後に『ホテル行こう』って誘われたんだけど」


「え!? あたし!? あたしが誘ったの!?」


「そう、水戸さんが誘った。告白の返事もなしで、俺を誘った」


「嘘!?」


「マジ」


「嘘だよ!」


「いや、マジ」


「何で!?」


「知らね」


「ええ!? 何で!?」


「知らねえって」


 まさかの事態にパニックになるあたしとは対照的に、天川智明はクスクスと笑い声を洩らす。



 特に怒ってる様子もなく、軽蔑してる感じもなく。



「まあ俺も好きな相手に誘われたら……なあ?」


 照れ臭そうに言葉を紡ぐ。



「で、起きたらアレだ」


「……アレ?」


「忘れてくれって言葉」


「…………」


「正直ヘコんだけど、一回抱いたら歯止め利かねえし。どうしても手に入れたくなった」


「……は?」


「だから、女がいるって嘘吐いた」


「は?」


「そう言えば、俺の事気になるだろ?」


「はあ!?」


「あとは全部作戦」


「作戦!?」


「水戸さんのお望み通り」


「お望み!?」


「ドラマみたいな恋愛したかったんだろ? 居酒屋で話してんの聞こえてた」


「はい!?」


「すげえドラマみたいだったろ?」


「何が!?」


「ヤった男に女がいて、その男が意地悪い奴。それが気に入らないのに気になって、本当は良い奴かもって思うくらい優しくされて、惚れていく」


「ちょ、ちょっと待って! それって――」


「全部作戦」


「ええ!?」


「倉庫に行ったのは、水戸さんがいるって分かってたからだし、最初から手伝うつもりで行った」


「ええ!?」


「ぶっ倒れられたのは予定外だったけど、いい演出にはなったよな」


「ちょ、ちょっと待って!」


「ん?」


「そ、それが本当だとしても!」


「いや、本当だし」


「だ、だから、もし本当だとしても、あたしが天川さん好きになる確率って低いじゃん!」


「いや、高い」


「はあ!?」


「つーか、最初から俺に惚れてたろ?」


「はああ!?」


「俺、何人かの女と付き合った事あるけど、別に経験豊富って訳でもないんだよ」


「な、何の話!?」


「けど、善かったろ?」


「な、何のセクハラ!?」


「めちゃくちゃ乱れてたもんな」


「セクハラ反対!」


「愛情たっぷりの俺のテクにヤラれた時点で水戸さんは、俺に惚れてたって事」


「な……!」


「俺の愛に溺れたろ?」


「な……!?」


「だからある意味惚れさせるってより、悟させるって感じだな」


「あ、あたし別に――」


「あのさ。意地の悪い事言ったのは謝るし、水戸さんがそういう女じゃないって事も知ってるから、俺の女になってよ」


「…………」


「大事にするから、その一途で真っ直ぐな気持ち、俺に向けてくれない?」


「…………」


「出来ればずっと」


「…………」


「重いって思うくらいの愛情ちょうだい」


 ズルい――と思う。



 こんな事言うのズルいと思う。



 言われた事ない言葉ばっかり並べられて、その上顔が好みの理想の男に、こんな事言われて、抱き締められて、「嫌だ」なんて言える女きっとどこにもいない。



「ド、ドラマにしては展開早すぎる!」


「一応、まだいくつか作戦は残ってたけど」


「て、展開が早すぎるから、何だか信じられない!」


「んじゃとりあえず、ホテルにでも行く?」


「はあ!?」


「ホテルに行って、じっくりと俺の愛情注ぐから」


「あ、あたし、相当重いよ!?」


「うん」


「常にメッセージとか電話とかするよ!?」


「うん」


「すぐに会いたいって言うし、会いに来てって言うよ!?」


「うん」


「お風呂入ってる隙にスマホ盗み見ちゃったりもするし!」


「うん」


「『何してんの?』とか、『どこにいんの?』とか、『誰といんの?』とか聞きまくる!」


「うん」


「『あたしの事好き?』って何回も聞くし、毎日『好き』っていっぱい言うし!」


「うん」


「それに、それに、あたし——」


「自信はある」


「……自信?」


「水戸さんを不安にさせない自信はあるよ」


 本当にこの男はズルい。



 そんな台詞をそんな顔で――今まで誰にもされた事ない、あたしが愛しいって顔で、優しく甘く囁くんだから。

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