22:45『営業課』


「いや、それ俺が聞きたい」


 苦笑――って感じの笑みを浮かべて、椅子に深くもたれた天川智明は、近付くあたしをジッと見つめて、「まだ帰ってなかったのか?」と言葉を続けた。



 帰ってたけど忘れ物を取りに来た――なんて説明するのが面倒だから、「まあ」と曖昧な返事をすると、「そっか」って天川智明は笑う。



 何を笑う事があるんだろうか。



 何が面白いっていうんだろうか。



 まさかその極上の笑みで、あたしを悩殺しようとでも――。



 思ってる訳がない。



「天川さんは?」


「ん?」


「残業……ですか?」


「あー、まあ。帰り際に色々押し付けられてな」


 絶対嘘だ!って事を平気で口にしちゃう天川智明が、あたしを気遣ってるって分かる。



 倉庫の作業を手伝ったからだって思わせないようにって気を遣ってるんだって分かるから腹が立つ。



 別に気を遣ってくれなくてもいいのに。



 最初からあたしの所為だなんて思ってないし。



 手伝ってって言ってないから、あたしの所為なんかじゃないし。



 確かに仕事は楽だったけど、それは天川智明が勝手に――。



「……珈琲でも淹れますか?」


 そうは思っても、やっぱり実際手伝ってもらったから、憎たらしくて腹立たしいけど、珈琲くらいは淹れてやってもいいとは思った。



 なのに。



「いや、いい」


 あたしの優しさをまんまと踏みにじる天川智明は、「んー」と大きく伸びをする。



 嫌みが空回りするならまだしも、優しさが空回りした。



 情けを掛けてやったのに、思いっきり撥ね退けられた。



 何だろう、この侮辱感!



 何だろう、この恥辱感!



 穴があったら入りたい!



 過去に戻れるなら戻りたい!



 こんな最低男に珈琲を淹れてやろうと思った自分を消し去ってしまいたい!



—―とは思うのに。



 何故か昨日に戻ってやり直したいとは思わなかった。



 アノ事がなかったら、こんな事にはならなかったのに、何故か「アノ事」を無しにしたいと思わなかった。



 確かに女がいるって言われた時は最低だって思ったけど。



 あたしをそういう女だって言った時は最悪だって思ったけど。



 それでも「アノ事」自体を無しにしたいとは思わなくて――。



 あんな風に抱かれた事がないだけに、無しにするには勿体ない気がした。



 あたし相当――バカなんだ。



 このままじゃもっとバカになるかもしれない。



 特に今日はツイてないから、脳みそもかなり疲弊してる。



 だからこれ以上バカにならないように、もう帰った方がいい。



 そう思った矢先に。



「水戸さん、今から暇?」


 天川智明は何を企んでるのか、そんな事を聞いてきて、「は?」と聞き返したあたしに、極上の笑みを魅せる。



「暇なら飯行かない?」


「は?」


「もう終わるから」


「はあ?」


「もう飯食った?」


「はああ?」


「美味い焼き鳥屋あるんだけど」


「鶏!?」


 しまった――と思った時には遅かった。



 声が一オクターブ上がってて、誰が聞いても行く気満々に聞こえたに違いなかった。



 だからもちろん天川智明も、了承の言葉だと思ったらしく。



「残ってるの片付けるからちょっと待ってな」


 フッと笑ってデスクの方を向いた。



 いやいやいや。



 いやいやいやいや。



 それってどうなの!?



 飯ってどうなの!?



 え!? 何で飯!?



 え!? どういう意味で!?



 鶏は大の好物だけど、何で天川智明と食べなきゃなんないの!?



 それって絶対おかしいじゃん!



 ってか、彼女と約束あんじゃないの!?



 それにあんたとあたしとじゃ、とってもとっても意味深になるじゃん!



 絶対一緒にご飯を食べに行ったらダメな組み合わせだと思うんだけど!?



 どんな相手よりダメだと思うんだけど!?



 それってどういう神経で言ってんの!?



 どういう意味合いで言ってんの!?



 やっぱりそれも——。



「……それは」


「うん?」


「それは、同僚としてって意味……だよね?」


「それ以外にある?」


「…………ない」


「何か期待した?」


「してない!」


「あ、そう」


「…………」


 憎たらしい。



 やっぱりこいつは憎たらしい。



 期待した?って何!?



 期待させるような事言ってんのはそっちじゃない!



 あんな事があったのに、酷い事まで言ったくせに、なのに食事に誘うなんて、期待して――。



 しまったんだろうか。



 やっぱりあたしは心のどこかで、何かを期待してたんだろうか。



 それが何の期待だか分からないし、当然またヤりたいとかは思わないけど、同僚の枠を超えた何かを期待してた……気がする。



 こんな男最低だって、こんな男最悪だって、思えば思うほど思い出してしまう、アノ時の天川智明。



 可愛いって言った。



 何回も。何回も。何回も。



 そういう言葉は遊びの相手には絶対言っちゃダメなのに、可愛いって何度も言った。



 その大きな体ですっぽりあたしを包み込んで、不安なんて何も感じさせないで、あたしが愛おしいって感じいっぱいに、あたしの体にキスをした。



 やっぱりこんなの――間違えてる。



 天川智明との関係は、元に戻さなきゃいけない。



 じゃないとあたしがおかしくなる。



 割り切れないあたしがおかしくなる。



 だから今日は――。



「あっ、ちょい待って」


 やっぱり帰る――と、言おうとしたあたしを遮るようなスマホの着信音。



 倉庫前でも聞いた、ラブリーな着信音。



 また、天川智明はスッと移動する。



 あたしと随分距離を取って、電話を受ける。



「もしもし? どうした?」


 甘く囁くような声。



「いや、だから残業だって」


 その甘い声で嘘を吐く。



 あたしとご飯を食べに行こうとしてるくせに。



 仕事はもう終わるくせに。



 同僚としてご飯を食べに行くだけのくせに。



「今日は無理だ」


 嘘を吐く。



 同僚としてなら「同僚と飯」って言えばいい。



 そこに後ろめたさがないなら「女の同僚と飯」って言えばいい。



 だけどそう言えないのは、後ろめたさがあるから。



 所詮、天川智明はどれだけ格好良くて優しくても、浮気をする嫌な男。



「……あたし、帰る」


 こっちに向いてる天川智明の背中に呟いて、さっさとこの場を去ろうと思った。



 どんどん自分の中で何かが壊れていくような気がした。



――なのに。



「ちょ、ちょっと待って! 水戸さん!」


 なのに天川智明は通話も切らずに大きな声を出し、驚き振り返ったあたしの目の前で、「悪い」と一言通話相手の彼女に言って、通話を切る。



 それが凄くムカついた。



 何でそういう事が出来るのか理解出来なかった。



 浮気をする最低な男だとしても、せめて彼女を一番に思ってて欲しかった。



「な、何してんの!?」


 だから喚いたあたしの声は少し震えてて。



「何って、何?」


 近付いてくる天川智明を本気で殴りたいと思った。



「何で通話切ってんの!?」


「何でって、水戸さんが――」


「あたし関係ないじゃん! 通話中だったんでしょ!?」


「別に大した用じゃないし、あとで掛け直せばどうとでも――」


「どうとでも!? どうとでも!? 今、どうとでもって言った!?」


「は?」


「どうとでもなんて通話の相手に失礼じゃん!」


「あの……何でそんなにキレてんのか分かんねえんだけど」


「そうでしょ! そりゃそうでしょうよ! あんたみたいな男には絶対何にも分かんない!」


「は?」


「大体、ヤるだけヤっておいて、簡単にポイしちゃう神経が信じらんない!」


「は?」


「ヤった相手に『同僚』だってイケシャーシャーと言える神経が分かんない!」


「ちょっ、それって俺か!? 先に忘れてくれって言ったのそっちだろ!?」


「あたしはそんなつもりじゃないし! それにあたしは彼氏がいて他の男とヤったりしない!」


「はあ?」


「この際だから言っておくけど、フラれてすぐじゃないからね! フラれてすぐあんたとヤった訳じゃないから!」


「…………」


「一週間前にフラれて、それから三日間『やり直したい』って電話くるんじゃないかって待ってたんだし! 残りの四日間は泣きまくって、最後の最後で友達と飲んでたんだし! 何よりはっきりフラれるずっと前から、相手があたしに冷めてきてるって、認めたくなかったけど心のどこかじゃ分かってて、フラれる予感はビシビシ感じてて、ある意味気持ちの整理みたいなものは始まってたんだから!」


「…………」


「あたし、そんなに軽くない! どうやってあんたとあんな事になったのか覚えてないけど、ヤった事を軽く考えられるほど適当に生きてない!」


「…………」


「責任取ってとか言うなよって言ったけど、あんた根本的に間違ってる! 女抱くならリスクを背負え! 責任どうのより惚れられるってリスクを背負え!」


「…………」


「マジ最悪! マジ最低! こんな男だと思わなかった!」


「…………」


「あんたマジでくたばった方がいいと思う! 地獄に堕ちろってマジで思う!」


「…………」


「事故とかに遭って危篤になったら、あたしの事呼んでくれない!? すぐにあたしが生命維持装置止めてやるから!」


「…………」


「あんたマジで最低の――」


「水戸さん、俺の事好きなの?」


「――は!?」


「もしかして、俺に惚れた?」


「はあ!?」


「ああ、惚れたんだ?」


「はあああ!?」


「んじゃまあ、作戦は成功?」


「はあああああん!?」


 叫んだ声はすぐに止った。



 止ったというより止められた。



 突然腕を掴まれて、グッと引き寄せられた先。



 あたしは天川智明の腕の中にすっぽりと納まった。

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