21:55『倉庫前』


 スーツの上着を脱いだワイシャツ姿。



 ボタンは胸元まで開けられて、肌蹴はだけたシャツから覗く鎖骨辺りに流れる汗。



 掻き上げた前髪が、汗で後ろに流れたままとどまり、その端正たんせいな顔立ちを目立たせる。



「暑っ」


 汗なのか唾液なのか分からないけど、湿った唇から洩れる声。



 …………畜生。やっぱ格好いい。



 性格は最悪だとしても、男として最低だとしても、やっぱ見てる分にはめちゃくちゃ好みの天川智明。



 あんな事がなかったら、もしかしたら惚れてたかもしれない。



 この倉庫での出来事だけを考えたら、惚れてしまう要素はいくつかある。



 顔も良いし性格も優しい。



 倒れたあたしを介抱してくれて、関係ないのに在庫整理を手伝ってくれる。



 他の女子社員なら、これだけの事があればノックアウト間違いなし。



 ところがどっこい、あたしの場合はそうはいかない。



 この男の最低な部分を知ってるあたしは、他の女のようにはいかない。



 天川智明がどれほど酷い男で、最低最悪な奴なのか知ってるあたしは――その抱き方も知ってる。



「…………」


 ヤバい。



 絶対ヤバい。



 さっき“アノ時”の事を思い出した所為で妙にそればっかりが頭に浮かぶ。



 どういう経緯か覚えてないのに、ヤってる事は鮮明に覚えてて、それが妙にリアルに頭に浮かんで――。



「水戸さん、休憩しよ」


「ひゃい!」


 そんなエッチな事を考えてる時に急に声掛けてくるから、びっくりしすぎて変な返事が出た。



「休憩」


「あ、うん」


 挙動不審なあたしをちょっと不思議そうに見つめてから、天川智明は倉庫を出ていく。



 それについて倉庫を出ると、正面の壁に背を付け廊下に座り込む天川智明がスポーツ飲料を飲んでた。



 天川智明に手伝ってもらってから十五分に一度は休憩してる。



 そんなに休憩ばっかしてたら作業が遅れると思ったけど、ふたりでしてる分随分早くて――天川智明の手際がいいから、物凄く早く作業が進んでる。



 良い奴――なのかもしれない。



 男女の関係さえなければ。



 ただの同僚としてだけなら、天川智明は良い奴なのかもしれない。



 何だかんだであたしの嫌みも怒る事なく受け流してくれるし、どれだけ嫌な態度を取っても、普通に接するようにしようとしてくれてる。



 あんな事がなかったら、同僚として仲良くなれたのかもしれない。



 でもあんな事があったから、こうして接する機会が多くなった訳で――。



 きっかけがきっかけなだけに複雑な気持ちになった。



「座らないの?」


 突っ立ってるあたしに声を掛ける天川智明は、自分が飲んでたスポーツ飲料を当然のように差し出してくる。



 それってどうなの!?って思ったけど、ここは大人な反応を示す事にして、黙ってそれを受け取ると天川智明の隣に座った。



 廊下の冷房が体の火照りを鎮めていく。



 すっかり夜になった窓の外に、微かに星が見え――。



 ふと、右側に目を向けると天川智明と目が合った。



「…………」


「…………」


 何とも言えない微妙な空気。



「…………」


「…………」


 合った目を逸らすタイミングを完全に逃した。



「………………」


「………………」


 え!? 何この沈黙!?



「……………………」


「……………………」


 ええ!? 何なのこの沈黙!?



「……………………」


「……………………」


 これは無理! これは無理! これは無理!



 こんな沈黙耐えられない!



 目を逸らせないから動けない!



 よく分からないけど天川智明の瞳に吸い込まれそうで――。



「と、ところで、天川さんの彼女ってどんな人!?」


「は?」


 回避するのに口から出たのが、自虐的ともいえる質問だった。



 別にそんなの聞いたところで何って訳でもないのに。



 むしろそんな質問したら、気にしてるみたいに思われそうなのに。



 だけど勝手に口からでた言葉を、どう取り繕っても回収出来なくて。



「いや、別に深い意味はないんだけど! でもほら、天川さんに彼女いるって話聞いた事なかったし! って、疑ってる訳じゃなくてね!? ほら、あれ! 何ていうの!? ほら、野次馬的興味本位?」


 やけに必死な言い訳みたいな事を口走ってしまった。



 そんなあたしに比べて天川智明は、毎度の如く冷静だった。



「別に、普通」


 あたしの慌てっぷりが滑稽なほどに冷静な対応だった。



 それがまた――ムカつく。



 多少なり、遠慮してくれてもいいと思う。



 そういう部分こそ気を遣ってくれてもいいと思う。



 冷静に「普通」なんて言われたら、余計にモヤモヤしてしまう。



 普通だって言いながら、「可愛い」って言って抱いてんだろうとか、あたしの時みたいに愛情たっぷりに――。



 ううん。それこそ本当の愛情いっぱいで抱いてんだろうって思う。



 あたしの時とは全然違って、本当の本気の愛情で包み込んで、「可愛い」どころか「愛してる」なんて囁きながら抱いてんだろうって想像出来る。



 きっとそうだ。



 そうに違いない。



 何で彼女の質問したんだろ。



 こうやって落ち込むだけなのに。



 こうやって傷付いて、こうやって――



 って、何で落ち込む事がある!?



 何を傷付く事がある!?



 別にあたしは落ち込む事も、傷付く事も何もな――。



「あっ、悪い。電話」


 突如廊下に響いたスマホの着信音に、天川智明は腰を上げる。



 とってもラブリーな着信音が、倉庫前に響き渡る。



 そそくさと、まるで逃げるようにあたしから離れていく天川智明の、電話の相手が誰かなんて聞くまでもなかった。



「もしもし? 俺」


 数メートル離れても微かに聞こえてくる天川智明の声。



「あ、やべ。今日、約束してたか」


 いつもより二割増し優しく聞こえる天川智明の声。



「悪い。まだ帰れそうにない」


 彼女と話す時はそんな感じの話し方するんだ?って、聞いてしまいそうになるくらい甘い、天川智明の声。



 あたし、何してんだろ。



 あたし、バカじゃん。



 何で天川智明と悠長に在庫整理なんかしてんだろ。



 もう関わらない方がいいって分かってんのに。



 バカだ。



 マジでバカだ。



 バカすぎて――呆れる。



 自嘲的な笑みを浮かべて、腰を上げたあたしは、ポケットに入ってた鍵を取り出す。



「あれ? もう終わりか?」


 通話を切って戻ってきた天川智明のその言葉に、倉庫の鍵を閉めながら「今日はもういいや」と、顔も見ずに小さく答えた。



――だから彼女と会ってくれば?



 それくらいの嫌み言ってやりたかった。



 だけどその言葉は何故か喉に詰まってしまって、口から出てこなかった。



「マジでいいのか?」


 気遣いから掛けられる声に「うん」と答えて。



「関係ない天川さん、これ以上巻き込むのも悪いし、明日やるから」


 何とか嫌みを口にした。



 それが今のあたしに言える、精一杯の嫌みだった。



 だけどそんな緩い嫌みは、天川智明に通じる訳もなく。



「別に気にしなくていいぞ?」


 優しい言葉が返ってくる。



 そういうのやめて欲しいのに。



 そういうの鬱陶しいのに。



 そういうのは彼女だけにしておけばいいのに、



「明日も手伝おうか?」


 天川智明は優しさを惜しまない。



 マジでもう――やめて欲しい。



「大丈夫! 明日庶務課の誰かに手伝ってもらうから!」


「そっか」


「うん。ありがとね」


「ああ」


「じゃあ、あたし帰るから」


「うん」


「天川さんも帰るでしょ?」


「ああ」


「じゃあ、また」


「またな」


 倉庫前で手を振って、あたしはそのまま更衣室に向かって本気で走った。



 これ以上天川智明と一緒にいたくないと本気で思った。



 明日から、今まで通りの生活に戻って欲しいと、本気で願った。

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