16:35『休憩室』
ひんやりとする。
特に目の辺り。
凄く気持ちがよくて、体の力が抜けていく。
さっきまでの暑さが嘘だったみたいに、全身を冷たい風が包んでくれて、掻いてた汗も全部引いたから、体のベタつきも――。
「はわっ」
瞼を開いたはずなのに、目の前が真っ暗でびっくりしたあたしの口から、何だかよく分からない音のような声が出た。
でも目が見えなくなったのかって焦ったのは一瞬で。
「……『はわっ』て……」
目の上に置かれてた「それ」を取られると、呆れた笑いを噛み殺す、天川智明の顔が見えた。
その手にあるのは、青いハンカチ。
あたしの目の上に置かれてたらしい、濡れたハンカチ。
「大丈夫か?」
「…………」
明らかに、座ってる天川智明に膝枕されてる状態で寝転んでるであろうあたしは、この状態の意味が分からず絶句してしまう。
ここは……どこ?
会社……だよね?
グルリと視線を動かしてみても、いまいちどこだか分からない。
会社の天井はどこも同じで、ここがどこだか分からない。
分かるのは、ここが倉庫じゃないって事だけ。
冷房が効いたこの場所は、倉庫じゃなく――。
「休憩室」
あたしの目の動きから察したのか、天川智明はそう言って、
「水戸さん倉庫でぶっ倒れた」
あたしの額にハンカチを置いた。
本当はハンカチを払いのけたい。
今すぐ起き上がって天川智明の膝枕から脱出したい。
だけどまだ目が回ってるし頭も痛いから、体が言う事聞いてくれない。
動けって思うのに、指先すらも動かない。
それに。
「水戸さん、どれくらいいた?」
「……何が?」
何だか少し、心地好い。
「倉庫にどれくらいいた?」
「……一時間半とか二時間くらい?」
「休憩したか?」
「最初はしてたけど、途中でやめた」
「バカだな」
「は?」
「そんな事してるから、ぶっ倒れるんだろ」
「…………」
「あんな密室で暑いとこ二時間もいりゃ、高校球児だってぶっ倒れる」
「高校球児関係ないじゃん」
「…………」
「高校球児、あの倉庫行かないしね」
「…………」
「高校球児は野球やってる訳で、在庫整理は――」
「いや、ただの喩え話だから」
「うん、知ってる」
「…………」
「喉乾いた」
「スポーツ飲料でいいか?」
「うん」
「ちょっと頭動かすぞ」
そう言って、後頭部に回された手が、あたしの頭を天川智明の膝から離す。
そして頭がソッとソファの上に置かれて――。
何故か少しだけ、残念な気持ちになった。
でも別に膝枕して欲しいって訳じゃない。
断じて違う。
ただちょっと目が回り気味だから、頭が高い位置にあるのが楽なだけ。
だから絶対に天川智明に膝枕して欲しいって訳じゃなく――。
「頭、動かすぞ」
「……うん」
休憩室の自動販売機で、スポーツ飲料を買った天川智明は、戻るとソファに腰掛けてまたあたしの頭を膝に載せた。
「体、起こせるか?」
「何で?」
「喉乾いたんだろ? そのままじゃ飲めないだろ」
「知ってる」
「……なら、体起こせ」
「まだいい」
「は?」
「まだちょっと動きたくない」
「……大丈夫か?」
「分かんない。こんなの初めてだし。っていうか、気を失うってマジであるんだね。そういうのってドラマの中だけかと思ってた」
「逆だろ。本当にあるからドラマに使われるんだろ」
「あ、そうなの?」
「そうだろ?」
「なんだ。そっか」
「ぶっ倒れた割には余裕だな」
「別にそういう訳じゃないけど、ちょっと感動した」
「感動?」
「ドラマみたいで感動した」
「…………頭打ったか?」
「はい、今ドラマ終わった」
「は?」
「残念な終わり方だった」
「…………」
シン――と、静かになった休憩室に、エアコン音。
その音と同じ勢いの冷たい風が、開ききってた毛穴を収縮していく。
ボーッとして、痛みの芯が奥にあるような頭痛が消えていく。
その気持ちの良さに改めてホッと息を吐いた時、天川智明の指先がサラリとあたしの髪を
だからハッとした。
何してんだってようやくそこでハッとした。
いくらぶっ倒れたあとだからって、何で天川智明とこんなにまったりしてるんだって、自分に呆れた。
天川智明は天川智明なのに。
今、どれほど優しかったところで、天川智明なのに。
何をどうしたところで、彼女がいる――のに。
「さて、と」
「ん?」
無理矢理体を起こしたあたしに、天川智明は少し驚いた声を出す。
どうした?って言わんばかりのその声に、立ち上がり背中を向けた。
「何か色々ありがと。そろそろ倉庫に戻る」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫とかって問題じゃなくて、やらなきゃ帰れないし」
「やらなきゃって、あれ全部?」
「全部は無理だけど半分くらいは」
「まだかなりあるだろ?」
「だから、早く戻らなきゃいけないの」
「もうちょっと休んでろ」
「やだ。帰れなくなる」
「またぶっ倒れるぞ?」
「今度は休憩しながらする」
「なら、今休憩しろ」
「帰るの遅くなるじゃん!」
「手伝ってやるから」
「…………は?」
「手伝ってやるからもうちょっと休んでろって」
「…………」
「ほら、座ってこれ飲め」
「……何で?」
「ん?」
「何で手伝うの? 天川さん営業だから関係ないじゃん」
「まあ、関係ないけど」
「でしょ? だから別に手伝わなくても――」
「でも目の前でぶっ倒れられて、知らん顔してんのもどうかと思うし」
「は?」
「それにまあ……知らない仲でもないし」
「は!?」
「どっちかって言えば、そこそこ深い仲だしな」
含みのある言い方に、振り返った先。
ソファに座る天川智明は、柔らかい笑みを浮かべてスポーツ飲料を差し出してた。
――何で今更優しくすんの?
その質問は頭に浮かんですぐに消えた。
今更じゃない。
天川智明はベッドの上でも優しかった。
丁寧に全身にキスをして、酔ってるあたしを「大丈夫か?」って何度も気遣って、こっちが恥ずかしくなるくらい何度も何度も「可愛い」って言ってくれた。
そんなの彼氏にだってされた事ない。
そんな事、彼氏にだって言われた事ない。
あの時感じた気持ち善さは、体だけの事じゃなく、心も全部気持ち善くて――。
勘違いしそうだった。
愛されてると、勘違いしそうだった。
そんな抱き方された。
仮令それが天川智明にとって、普通の抱き方だったとしても、あたしには今まで感じた事のない愛情を感じた。
だからかもしれない。
だから「女がいる」と言った天川智明に物凄く腹が立ったのかもしれない。
だからあたしは天川智明の言う事全てに腹が立って、悔しいと思ったのかもしれない。
きっとあたしはあの一時、愛されてると勘違いした。
ズルい男だと思った。
最低な男だと思った。
浮気のセックスならどうしてそんな抱き方したんだろうって。
どうして勘違いさせたんだろうって、ムカついた。
「ほら、座れって」
自分の隣をポンポンと叩くこの男は、本当に最低だ。
「とりあえず水分補給しろ」
心配してますって口振りで、スポーツ飲料を渡してくるこの男は最悪だ。
――けど。
「飲んだら倉庫行くぞ」
最低で最悪なこの男に、抵抗出来ずに頷くあたしも最悪だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。