10:25『営業課』
経理課に寄って、トイレにも寄って、チンタラ歩いて、たまに立ち止まったりもして。
それでもとうとう着いてしまった営業課から、逃げる訳にはいかない。
課の前で既に五分は突っ立ってるけど、こういう嫌な事はさっさと済ませるに限る。
シミュレーションは完璧だ。
中に入って一番近くにいる人に、天川さんに渡してくれと名刺を押し付けてしまえばいい。
受領印はいらない。
貰い忘れたって事にする。
それで課長に叱られるかもしれないけど、平謝りで何とか乗り切る。
貰ってこいって言われたら、もう外回りに行ったって嘘吐けばいい。
最悪の場合のシミュレーションは完璧。
運が良ければ天川智明は、既に外回りでここにはいない。
そしたら預けた人に受領印を貰って戻れば、課長のお小言も聞かなくて済む。
うん。完璧。
これでいくしかない。
「失礼します」
小さな声でドアの向こうに声を掛け、開けたそこは『営業課』。
普段あたしが滅多に来る事がない営業課は――汚い。
何だろう。
何て言えばいいんだろう。
漢字一文字で表わすなら、「雑」。
誰のデスクの上にも資料だか書類だかが山積みで、いつどこで雪崩が起きるか分からない状態。
雑だ。
雑すぎる。
山積みの書類に人が埋もれて見えやしない。
「あの――」
それでもシミュレーション通りに一番手前のデスクに座る男の人に声を掛けると、その人が半分雪崩が起きたあとって感じのデスクから顔を上げた。
「庶務課ですけど、天川さんの新しい名刺を持ってきた――」
「ああ、天川? ちょっと待って。おい! 天川!」
「ちょ、ちょちょちょちょちょ――」
ちょっと待って!
違う!
そうじゃない!
渡しておいてくれませんか?って言いたかったの!
人の話は最後までしっかり聞いて!
呼ばなくていい!
呼ばなくていい!
どっちかっていうと呼ばないで欲しい!
いるの!?
もしかしてまだ会社にいちゃうの!?
外回り行ってないの!?
行けよ、外回り!
「ん? 何?」
数メートル向こうの雪崩――書類から、ひょっこり顔を出した天川智明。
「新しい名刺だって!」
そんな天川に声を掛けた男の人が、あたしを指差し伝えてくれるけど――。
見た。
見てしまった。
あたしを見た時の天川智明のその表情をしっかりと見てしまった。
「うわっ」って顔。
「何でお前が!?」って顔。
「面倒臭え事言いに来たんじゃねぇだろうな」って顔。
あからさまな、「ウザい」って顔。
一瞬だったけどしっかり見た。
見えた。
視力がいいから思いっきり見えちゃった。
「…………」
腑に――落ちない。
どうしてあたしがそんな顔されなきゃいけないのか分かんない。
どっちかって言えばあたしがそういう顔する方だと思う。
女がいるのにイイ思いしたくせに。
後腐れなくイイ思いしたくせに。
逆にホッとしちゃったくせに。
ヤるだけヤってポイッのくせに。
あたしはただ課長に言われて渋々名刺を持ってきただけなのに、何でそんな顔されなきゃいけないのか分かんない。
割り切ろうとしたのに。
仕方ないって思いたくないけど思わなきゃって思ってたのに。
蚊に刺されたってくらいに思えないけど思おうとしてたのに、何でそんな反応されなきゃなんないの。
あたしが悪い訳じゃないじゃん。
あんただって同罪じゃん。
どうしてヤったのかは分かんないけど、合意の上なら同罪じゃん!
なのにあたしだけ悪者みたいに、何でそんな態度を――。
「新しい名刺?」
ツカツカと近付いて来る天川智明は、すっかり営業スマイルで。
「やっと出来たか。ずっと待ってたんだよ」
差し障りない雰囲気を醸し出す。
それがムカついた。
取り繕ってるみたいでムカついた。
あたしを見て、あんな顔したくせに、それをなかった事にしようとするその態度がムカついた。
浮気する男なんてのは、そもそも自分の事しか考えてないバカ野郎だけど、まんまそういう男だって事にムカついた。
そういう男とヤっちゃった自分にもムカついた。
色んなムカつきがゴチャ混ぜになって、プルプル手が震え始めた。
殴ってやりたいと思う。
今、ここで、営業課の中で殴りつけてやりたいと思う。
ド定番の恋愛ドラマなら、そういう事があるかもしれない。
きっとあたしが殴るのは、とっても正当性があると思う。
……けど。
「……水戸さん?」
現実、殴るなんて事出来るはずもない。
そこがドラマと現実との違い。
こんなとこで殴っちゃったら、あとから色々面倒だし、そもそも殴りたいって思っても、本当に女が男を殴る確率は低い。
殴られっぱなしで黙ってるとは思えないし。
反撃されたら嫌だし。
反撃とまではいかなくても、反射的に殴り返されるかもしれないし。
あとから説明するにしても、事情を言える訳はないし。
もし事情を言っちゃったとしても、結局は合意の上だし。
「……………」
だからあたしに出来る事って、こっそり睨み付ける以外に何もない。
この世の怨念を全て纏った勢いで睨み付けるしか手立てはない。
なのに。
物凄い勢いで睨み付けてるのに。
「……名刺、欲しいんだけど」
天川智明は素知らぬ態度で、名刺を渡せと手を出してくる。
非常に腹立たしい。
すっ呆けた態度が腹立たしい。
あたしの睨みに気付いてるくせに、気付かない振りをかますこの感じが腹立たしい。
「…………どうぞ!」
だけど結局文句は言えず、語尾を荒げて名刺を渡すしか出来ないあたし自身が、何よりも一番腹立たしい。
「じゃあ」
「え?」
ペコリと頭を下げたのか、頭突きのジェスチャーなのか分からないくらいに素早く会釈したあたしは、腹立たしい天川智明がいる営業課をあとにする。
これ以上あそこにいたら頭がおかしくなっちゃう気がした。
おかしくなって手当たり次第に物を投げちゃう気がした。
だからさっさと出てきたのに。
天川智明から離れたのに。
「水戸さん! 待って!」
苛立ちの元凶、天川智明が追い掛けてくる。
「水戸さん!」
絶対足を止めないあたしに追い付き肩に触れる天川智明。
その手を振り払うように振り返ると、「受領印!」って言われた。
…………ふっ。
「受領印いるだろ?」
「そうかもね!」
恥ずかしいやら腹立たしいやらで意味不明な返答をするあたしに。
「そうかもねって、いるだろ」
「ですかね!」
天川智明は眉間に皺を寄せる。
「……印するから紙貸して」
「これですかね!?」
「……そうだな」
「ですよね!?」
「…………」
「早く押してくれませんかね!?」
「…………」
「あたしも忙しいんですけどね!」
「……はい」
「どうも、ありがとうございました!」
「…………」
「じゃあ、今度こそ――」
「今朝、一旦家帰った?」
「――は!?」
さようなら!って格好良く、颯爽と消えてやろうとしてたあたしは、まさかまさかの今朝の話に、思考が完全に停止した。
「家帰った?」
「はあ?」
「いや、風呂から出たらいなかったから」
「はああ?」
「着替えに帰ったのかと思ってさ。女ってそういうの気になるんだろ?」
「はああああ!?」
「同じ服じゃ通勤出来ないとかさ。俺にはよく分かんねえけど」
「はああああああん!?」
「まあ、帰ったなら帰ったでいいんだけど、せめて一言言ってくれても――」
「あんたバカじゃないの!」
廊下に響き渡る雄叫びに、天川智明の反応は早かった。
素早くあたしの口を手で塞ぐと、辺りを見渡し歩き出す。
半分引きずられて連れて行かれたその場所は、雑談のメッカ『給湯室』だった。
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