9:50『庶務課』
「あたしの記憶が確かなら、昨日あんたたちと飲んでたはずなんだけど!?」
『……は?』
仕事そっちのけで電話した相手――朱莉は、通話が繋がってすぐのあたしの言葉に、素っ頓狂な声を出した。
だけどあたしの怒りのボルテージは最高潮に達してて。
「とぼけんじゃないわよ! あんたたちと飲んでたでしょうに!」
そこが仕事場だって事も忘れて大きな声を出した。
途端に向けられる白い目線。
ハッとしてデスクにあるパソコンの影に隠れたけど、向けられた目線はすぐには逸らしてもらえない。
『別にとぼけてないし。飲んでないなんて一言も言ってないじゃん』
電話口から聞こえた声に、低い姿勢のまま「はあ!?」と小声で反論すると、『はあ!?』と同じ口調の声が返ってくる。
とぼけるつもりか開き直るつもりか、朱莉は後ろめたさを一切感じさせない。
「じゃあ、何であたし、男といたの!?」
『は?』
「男と! いたの! 朝!」
『え?』
「『え?』じゃないし! 男といたんだし! しかもその相手――」
『あんたの会社の人でしょ?』
「…………はあ?」
当然も当然って口調で、まんまその通りの事を口にした朱莉は、やっぱり後ろめたさを一切感じさせない。
それどころか。
『え? もしかしてヤっちゃったの?』
含み笑いで最悪な事を聞いてくる始末。
ヤっちゃったの? じゃないっつーの!
ヤっちゃったの? って次元じゃないっつーの!
確かにヤっちゃったけども!
かなり濃いのヤっちゃったけども!
だけど、「ヤっちゃったの?」なんて軽い感じで済む話じゃないんだけど!
「どういう事! 何がどうなって、そうなったの!」
『は?』
「だから、何であたしがあの男とそういう事になっちゃったの!」
『知らないわよ』
「はあ!?」
『あんたがどうしてヤったのか知らないっての』
「はああ!?」
『あたしはただ、厄介払いしただけ』
「厄介払いだと!?」
『だってあんた、ぐでんぐでんに酔ってて、連れて帰るの無理だったんだもん』
「え!? 放置!? 放置したの!? まさかあたしを放置したの!?」
『放置はしてない。預けただけ』
「預けただと!?」
『そうそう。そのあんたの同僚が声掛けてきてさ? 同じ会社だって名刺も渡してくれて。俺が連れて帰りましょうかって言うから、じゃあそうしてもらおうかって思って』
「バカじゃないの! あんたバカじゃないの! 犯罪に巻き込まれたらどうすんのよ!」
『でも名刺くれたし、スマホの番号も教えてくれたし。一応、その場でスマホに掛けたら繋がったし』
「バカじゃないの! あんたバカじゃないの! 信用するの早すぎんじゃん!」
『それにイケメンだったし』
「バカじゃないの! あんたバカじゃないの! そういう事を顔で判断してんじゃないわよ!」
『くるみの好きそうな顔じゃん』
「バカじゃないの! あんたバカじゃないの! そういう問題じゃないでしょうに!」
『でも実際犯罪に巻き込まれた訳じゃないじゃん。あんた生きてるし』
「バカじゃないの! あんたバカじゃないの! どんだけ短絡思考なの!」
『無理矢理ヤられた訳でもないんでしょ?』
「バカじゃないの! あんたバカじゃないの!」
『合意の上でヤったんでしょ?』
「バ……!」
『え? 違うの?』
「ち、違わないとは思うけど……」
『じゃあ、いいじゃん』
「はあ!?」
『合意のセックスならいいじゃんって言ってんの』
「バカじゃないの! バカ!」
『何よ。何が不満? あんないい男とヤれたんだから不満はないでしょ? それともドヘタだったとか?』
「そ、そういう問題じゃない!」
『何よ』
「お、女がいた」
『女?』
「あの男、付き合ってる女がいるの!」
『へえ』
「へえって何!? へえって何!? 何そのまるで他人事って感じの
『いや、他人事だしね』
「と、友達でしょ!? 友達が弄ばれたんだよ!? あんたそれでいいの!?」
『でも合意の上でしょ?』
「は!?」
『無理矢理じゃないでしょ?』
「はあ!?」
『くるみもさ? もう二十五なんだから、そういう軽いセックスってのも経験しておくべきだって』
「何言ってんの! あんた何言ってんの!」
『いっつも重いのばっかだから、あんた自身重くなっちゃうんだって』
「そんな事、未だ処女のあんたに言われたくないし!」
『処女のあたしより重いくるみがどうかと思う』
「はああ!?」
『あたし、付き合った男に重いなんて言われた事ないしね』
「はあああん!?」
『まあこれを機に、もうちょっと軽い付き合い出来る女になりな』
「あんたねえ!」
いつの間にか声が大きくなってたあたしの、更に大きな声に反応したのは、電話の向こうの朱莉じゃなく。
「水戸君、いい加減にしたまえ」
奥のデスクにいる課長。
ハッとして課長の方に目を向けると、口許は笑ってるけど目は怒ってて、こめかみの血管がピクピクしてるのが分かった。
「す、すみません」
慌てて通話を切ったあたしに、課長は怖い笑顔のままこっちに来いって手招きする。
最悪だ、お小言だ、もう本当今日はツイてないって思いながら、重い足取りで課長の席にイソイソと近付くと、目の前に名刺が入ったケースを差し出された。
「これ、渡してきて」
「……はい?」
「頼まれてた新しい名刺。出来たから。経理の
「はい!?」
「渡してきて」
「あたしですか!?」
「君しかいないだろう」
「な、何で!?」
「今、私用電話をするくらい暇そうにしてるのが、君しかいないって言ってるんだよ!」
バンッ――と勢いよくデスクを叩かれて、肩を竦めてチラリと周りに目を向けると、確かにみんな忙しそうに何やら仕事に取り掛かってる。
自業自得って言葉がグルグルと頭の中を回った。
だけどどうしてこんな日に限って、天川智明の名刺を持っていかなきゃいけないんだと思う。
今朝、逃げてきたのに。
お金も払わず逃げてきたのに。
同じ会社でも課が違うから、会う事はないだろうって高括ってたのに。
だって今までも会った事ないし。
遠目でチラッと見るだけだったし。
だからこれからも今まで通り――っていうよりは、今までのように戻るだけだって、そう思ってたのに。
ツイてない。
今日はとことんツイてない。
やる事成す事裏目に出る。
本当に今日は――。
「急いで持ってってくれたまえ」
明らかに怒鳴りたいのを我慢してますって課長の声に、「はい!」と返事をしたあたしは、逃げるように庶務課を飛び出した。
とりあえずは経理の山越さん。
天川智明は後回し。
十時を過ぎれば天川智明が外回りに行く可能性が高い。
だから誰かに預けるか、デスクの上にでも置いとけば、天川智明に会う事なく、この事態を回避出来る。
頭の中で何度もそう反芻した。
だから大丈夫だって自分に言い聞かせた。
じゃないとどんな顔して会えばいいのか、どんな態度をすればいいのか、迷いに迷ってパニックになる。
女がいる男と寝た。
しかも激しい情事を――。
ううん。激しいだけじゃない。
凄く優しかった。
細部まで覚えてる訳じゃないけど、優しく丁寧だったってのは覚えてる。
むしろあたしの方が「もっと」って言ってた気がする。
……気がするってか言った。
確実に言った。
ノリノリだったのはあたしの方で、天川智明は――。
「…………」
ダメだ!
ダメダメ!
思い出しちゃダメ!
いくら天川智明が好みの顔だとしても!
相性いいかもって思っちゃうくらい上手かったとしても!
無駄な贅肉がないあの綺麗な肉体は、外回りが暑くて汗掻くからなんだろうか——なんて、考えちゃダメ!
ダメ!
絶対にダメ!
思い出しただけでキュンって疼いちゃうくらいの、何とも言えないあの手付きを思い出しちゃダメ!
女がいる。
あの男には女がいる。
女がいるのにあたしを抱いちゃうような最低男。
そうだ。
そういう男だ。
仮令顔が好みでも、めちゃくちゃセックスが上手くても、あの男は最低最悪、酷い男だって事を忘れちゃいけない。
「……よし!」
気合いを入れて経理課に向かうあたしの足取りは、思考とは裏腹に少しフワフワとしていた。
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