第18話『あともう少しだけ』
輝きを失うことのない都会の夜は、上空に月だけを浮かべている。
まだまだ眠る事を拒む世界で響くは、人の話し声と車が走る音。耳をすませば遠くの方から聞こえる、信号機の音色。曝けた肌を撫でる冷たい風に、フルリと身震い。赤く染まった手を無自覚に摩り、悴んだ指の先で挟むタバコを口元へ持っていく。
フーッと意識的に吐き出した白く濁る息。長くなった先端の灰を、帰りしな自販機で買ったコーヒーの空き缶にそっと落とす。冷え切った身体の内側へ、じわりと滲んだ形容し難い感覚に、私はぼんやりと何処を見るでもなく視線を宙に投げていた。
「……はぁー」
部屋の中で、いつものように彼女は配信を行なっている。週に二度、決められた曜日に開かれる雑談枠。話の内容は特に決まりなどは無いようで、リスナーのコメントを拾いつつ距離感近めで繰り広げられるお喋りは、星屑セナを彩る魅力の一つ。人よりも幾分か高いソプラノ声で紡がれるそれは、寝落ち枠としての面も持ち合わせているらしい。私自身は、彼女の配信を聴きながら眠りについたことがない為、わからないが。
嘘をついたあの日から、数日が経過した今日。私は、首を緩く縄で縛られたような、息苦しさが続く生活を過ごしている。
「…………」
表面上ではいつも通り。朝に目覚め、軽い朝食を作り、家を出て仕事をする。慣れた職場で変わり映えのしない労働を果たし、帰路につく。電車の中、定位置である席に座って、流れる夜に染まった街並み眺める毎日。最寄駅につけば駅前のスーパーに寄って買い物をし、持参のエコバッグを片手にリュックを揺らす。彼女が待つ家に帰ってからは、手早く料理をして一服。その間、スマホに映るは彼女の配信。雑談配信なり、ゲーム配信なり、楽しげに喋る彼女の様子を画面越しに確認しながら、それが終われば食卓を囲み、他愛無い会話。週に二度、お風呂に入って二人でベッドの中へ潜り込む。時に彼女の蠱惑的な体躯に指を這わせ、跳ねた甘い声を私は耳にし。
そうして、一日を終えた私は眠りにつく。いつものように。流されるままに。勘付かれぬように。
彼女が私の元に来て、共に暮らし始めてから変わることのなかった日常。特段大きな出来事もなく、慎ましやかな幸せを拾って私は生きてきた。穏やかな日々を生きてきた。その当たり前がずっと続いてくれれば良いと思って生きてきた。何者にもなれずとも、愛する人の側に居られるだけで幸せだと、私には勿体無いくらいだと思いながら、生きてきた。
だけど、現実はそう簡単にはいかないもので。彼女の配信で私という存在がバレてからの毎日は決して穏やかとは言い難く、新鮮で、慌ただしくて、それでいて夢のようだった。
「……ふぅー」
息を吐く。夜に沈んだ街に吹きかけた息は白い。すっかり世界は冬模様。裸足でサンダルを履くには、厳しい季節だ。冷えた足の指を無意識に丸めた私は、十一月の夜空を見上げる。
彼女との日々は私にとって大切なものだ。何者にもなれなかった私を追いかけ、私の側に彼女がいてくれる毎日に、どれ程救われてきたか。彼女は私のことをヒーローだと言うが、私にとっては彼女こそがヒーローと言える。目が焼き焦げてしまう程の光を放ち、自らの足で世界を切り拓いて多くの人を彼女は救ってきた。いつだって楽しげに笑い、何事にも真剣に取り組んで、周りの人々に手を差し伸べる彼女を、ヒーローと呼ばずしてなんと呼ぶ。正しく、彼女はヒーロー。私よりもよっぽど、彼女はヒーローだった。
「……さむ」
寒空の下、わざわざベランダに出てタバコを吸っているのは何故だろう。夕飯の支度を終えたこの時間、いつもなら冷風が入り込まない部屋の中で彼女の配信を見ているはずなのに。手にするは短くなったタバコであり、自身のスマホは部屋の中に置きっぱなし。何をするでもなく、冷たい外気に文句を言った私は、一人だ。雲ひとつない伽藍堂の夜空に侘しく添えられた月と一緒。
独りぼっちの世界は寂しくて、だけど何故か安堵する。孤独は怖いと思っているのに、安心感を抱くのは私を形容する人間がいないから。一人だけなら、何者になれずとも関係がない。
故に、私はいつだって一人の時間が好きだった。
「…………!」
人々の喧騒が微かに聞こえる夜の中、立て付けの悪い引き戸の音は、カラカラと鮮明に響いた。
静けさに身を委ねていた私は、思わずビクッと肩を揺らし、驚いて後ろを振り返る。
部屋に灯った暖色の光。吹く風が分厚いカーテンの裾を柔らかく揺らして、立ち上ったタバコの煙が形を変える。紫炎の重い匂いに混じって、鼻腔をくすぐるシャンプーの香り。生ぬるい空気が肌を撫でる。部屋の中から現れた彼女が、ムッと不機嫌そうな面持ちでそこに立っていた。
「もぉ〜。こんな所にいたんですね」
向けられた、茶の色が滲む黒の目に私が映る。ドキリ。身体の中心で音が鳴った。数瞬、呆然と立ち竦んでいた私ははたと指先を焦がす熱に気がつき、慌てて吸っていたタバコを空き缶の中に捩じ込む。Tシャツの上から生地の薄いパーカーだけを羽織った彼女が、ペタペタと安っぽいサンダルの音を立てて私の隣に立った。
「探しましたよ先輩。家中探しても、見当たらないから」
「あはは」
「まぁ〜た外で迷ってるんじゃないかって思いました。でもスマホ、リビングに置きっぱだし。あたしちょっと焦ったんですからね?」
「ごめんごめん。ちょっと外の風に当たりたくなってさ」
私の腕に抱きついて、私の肩に頭を乗せた彼女はプクプクと不満を溢す。幾分か私よりも背の低い彼女は、あざとく上目遣いで私を見上げた。
「……配信、終わったの?」
「とっくの前に終わりましたよぉ〜? 全く、こんな寒いのにいつからこんなところにいたんですか」
「えぇっと……いつからだろ。ポケーッと外見てたからわかんない」
「なんですかそれ」
ゆっくりと彼女の手が伸びる。ひたりと頬に触れた柔らかな掌が、さらりと顎の形を確かめるように撫でた。しっかりと保湿をしている彼女の手は心地良くて、その暖かさに私は目を細める。不機嫌と心配の二つを映した彼女の顔がすぐそこにあって、彼女との距離の近さにドキリと心臓が跳ねた。
「……冷たい」
「星奈はあったかいね」
「先輩が冷たいだけです。なんでこんな身体冷えるまで外にいたんですか」
「んー、わかんない」
「……はぁ」
呆れたように溜息を吐いた彼女は、しかしその目には鳥肌が立つほどの優しさが湛えられていた。ただただ愛おしげに、愛する人を見る眼差し。ドキリ、ドキリ。私の心が悲鳴を上げる。グッと締まった喉から、キュゥっと情けない息が漏れた。あまりにも真っ直ぐ鋭い光が、私を貫く。身体が熱くなり、ジワリと汗が滲み出た。私はそろりと彼女から目を逸らす。
「……タバコ、吸っていたんですか?」
「ん、ちょっとね」
「ちゃんと一日五本の約束、守ってますか? 最近、吸う頻度増えてるように感じるんですけど」
「あはは。大丈夫、守ってるよ」
「それなら、いいんですけど」
息を吐くように飛び出た言葉は、真っ赤な嘘だ。只管に真摯な憂慮の問いかけに、私は容易く嘯いた。
一日に五本まで。四日で一箱。健康に悪いからと提示され、結んだ彼女との約束事。喫煙をやめろとは言わないが、せめて本数を減らして欲しい。いつの日か、美麗な顔をクシャリと顰めて言われた彼女の願い。本当は喫煙自体をやめて欲しいと思っている。言葉尻にひっそりと本心を付け加えながら、私に甘い彼女の最大限の譲歩によって決められた約束を、しかしここ最近の私は破っている。
一日五本は、六本へ。一日六本は七本へ。日を追うごとに一本ずつ一本ずつ増えていくタバコの本数。今や一日に半分減るペースでタバコを吸っている私であるが、だというのに一日五本の約束を守っていると嘘をついた。しれっと、何でもない事のように。その行為が裏切りであると、理解しながら。
「……戻りましょ先輩。寒いです」
「ん、分かった」
彼女の手を引かれ、部屋に戻る。暖房をつけていてくれたのだろう、暖かな風が冷たくなった身体に染み渡り、私はほっと息をつく。ペタペタとフローリングを歩き、ソファに二人で腰掛ける。すると彼女はその身体を横に倒し、私の膝を枕にして寝転がった。
「星奈?」
「んっふふ、膝枕ぁ〜」
「……眠いの?」
「眠くないですよぉ〜?」
ヘラリと、頬を緩めて嬉しそうに彼女は笑う。パタパタと両足を動かし、かと思えばグリグリと私の腹に顔を埋めた。腰に回された腕にギュッと力が込められ、彼女の髪が少しだけ乱れる。膝の上、その目で弧を描く彼女は、大きな子猫。喉をゴロゴロと鳴らすことはないが、下手っぴな甘え方は子猫そのもの。くつくつと喉を鳴らす彼女に、私は静かに手を伸ばして彼女の丸い頭を優しく撫でた。
「えへ。先輩の膝は、あたしのものぉ〜」
「いや、私の膝は私のものだけどね?」
「違いますよ? 先輩の膝はぁ〜、あたし専用の枕なんでぇ〜?」
「えぇ? そうなの?」
「そうでぇ〜す。ふふ、リスナーのみんな羨ましがるだろうなぁ。あたしは先輩に膝枕してもらえるって言ったら」
「逆じゃない? みんなアンタの枕になりたいし、アンタに膝枕してもらいたいでしょ」
「いやいやいや。ぜぇ〜ったいリスナーの中にいますよ、先輩の膝枕羨ましがる人」
「うーん」
よくある、恋人同士のありふれた会話だ。シチュエーションとしても、恋人に膝枕することはなんらおかしなことではない。私達の光景は、いたって普通なもの。何故って、私達は互いに愛しあう恋人の関係性であるから。
だけど、あぁ、どうしてだろう。いや、理由など分かっている。彼女との大切にすべき時間に対し、罪の意識を抱いているそのわけを、私は分かっている。
どうすることもできない罪悪感が、私の上から伸し掛かる。罪人がこのような幸せに浸っている事実に、吐き気がする。何度だって言おう。私は罪人だ。何者にもなれないと分かっていながら、何者かになった気で誰かを傷つけ、愛する人にすら嘘をついた罪人なんだ。本来なら、その悪事を裁かれ罰を与えられなければならない人間なのだ。罰せられなければならない、愚者が私だ。
だと言うのに、今私に与えられているのは甘美な幸福だ。恐ろしい程の愛だ。真っ新な光の暖かな幸せを。私を信頼し切っている彼女からの純粋な愛を。私は与えられているのだ。
ドキリ、ドキリ。心臓が、悲鳴を、あげる。与えられた幸福が、愛が。湧き出る罪が、嫌悪が。相反した概念が胸中で渦巻き、ぐちゃぐちゃの混ぜこぜになって、心をいたぶる。それは果たして酷く、息苦しい感覚だった。
「先輩は知らないと思いますが、先輩は先輩が思っている以上に魅力的な人ですよ」
「……わかんないなあ」
「ふふ、わからないところも含めて、魅力的なんです。先輩は鈍感だから気づいて無かったでしょうけど、高校の頃先輩密かに人気でしたから」
「え? なにそれ」
「ふふ。やっぱり知らなかった。先輩と付き合えた今だから言えますけど、先輩狙ってる子結構いましたからね?」
「……本当に知らないわその話」
「んっふふ。本当に、今だから言える話。だから自慢したいですもんあたし。あの頃先輩が好きだった人に、一ノ瀬葉月はあたしと付き合ってるんだぞぉ〜! って」
「あはは」
それでも、もう少し……もう少しと、ぬるま湯のような現場から抜け出せないのは、私が弱いから。一度知ってしまった幸せを手放すこともできず、罪の意識に駆られながら無様にも縋り付いている。いずれ訪れるであろう処罰のその瞬間に覚悟を決めたフリをして、その実私は怖がっている。目を閉じ、耳を塞いで、現実逃避。そうすれば、もう少しだけこの優しさだけの時間を、続けることが出来る。なんてことを、思っているから。
好きなんだ、彼女のことが。抗えない、否定できないくらいに。彼女のことが好きだ。誰よりも、彼女のことを愛してる。守りたいと思う相手なんだ。出来ることならこの手で、守りたいと。
仮初の穏やかな夜は時を刻む。嘘をついて、笑って、彼女との一時を噛み締める。いつまで続くのかわからない、地獄のような幸せを。
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