第13話『多分どっちものぼせてた』

「はぁ〜〜〜」

「ふぅ……」


 ザプン。並々に湯が張られた浴槽に二人で浸かり、意図せず共鳴した声は浴室の中で静かに反響する。じわりじわりと肌に触れるお湯の温かさが身体に染み渡り、今日一日の間に溜め込んだ疲労がゆっくりと溶け出していくのがわかった。自然と肩から力が抜け、ポカポカと温まる身体はうつらうつらと眠気を誘う。ほんのり鼻腔をくすぐる香りは、曰く森の香りらしい。薄らと若葉色に染まった湯の上では、プカプカと泳ぐチープなアヒルのオモチャ。以前真夜中に行ったドンキ・ホーテで、彼女が一目惚れして買ったもの。私は自身の足の間に座る彼女をそっと抱き寄せ、肩に頭を乗せる。


「きもちぃ〜……」

「ですねぇ〜……」

「なんか久しぶり湯船入ったかも」

「ずっとシャワーばっかりでしたもんね」


 間の抜けた独り言のような声に、彼女も間の抜けた独り言のような声で返事をする。完璧に力を抜き、私へ体重を預ける彼女はパシャパシャと顔にお湯を当てた。

 一週間に二度、私達は一緒にお風呂に入る。特段決まった曜日や日付は決まっていないが、どちらからともなく一緒にお風呂に入ろうと誘い、その結果の頻度が週二回。誘い方の決まりも無く、なし崩し的に入ることもあれば、蠱惑的に誘われて入ることもある。今回は彼女から、服をキュッと引かれて可愛らしく誘われたわけだが。


「はぁ〜、あったか」

「んぅ、なんか眠くなっちゃいます」

「お風呂で寝ないでよ?」

「え〜? でも寝ても先輩がベッドまで連れてってくれますよね?」

「さぁ? そのまま置いていくかも」

「ふふ、嘘ばっかり。優し〜先輩はそんなことできない癖にぃ〜」


 築二十年ほどの賃貸に設置された浴槽は、二人で入るには少し狭い。でもその狭さが私達には丁度良くて、心地良かったりする。

 私が彼女を後ろから抱きしめる形が、二人でお風呂に入る時のデフォルト。互いが互いに密着し、それぞれの熱を享受する。時折どちらかがこの状況に欲情してしまい、色々と盛り上がる事もあるが、それ含め今の体制が丁度良くて心地よい。肌と肌が触れ合う柔らかな感触も、耳のすぐそこから聞こえる蕩けた声も、ふんわりと香るシャンプーの匂いも。気持ち良くて、落ち着くのだ。


「んっふふ、せぇ〜んぱい」

「ん?」

「えへ、呼んだだけ」

「……何可愛い事言ってんのよ」

「え〜? 可愛いって思ってくれたんですか?」

「そうよ。アンタはいつでも可愛いんだから」

「…………えへ」

「あっ、照れてる」

「うるさいなぁ〜もう」


 ぐぃーっと彼女は私に背中を押し付けてくる。かと思えば、肩に顎を乗せた私の頬にスリスリと頬擦り。間近で見える、彼女の長いまつ毛から一粒の雫が湯船に落ちた。甘え下手な彼女のあざとい動き。私も同じように頬擦りをして、そっと露わになっている耳の淵に唇を当てる。擽ったそうに彼女は喉を鳴らし、笑う。きゅうっと悲鳴を上げた心臓の音は、きっと恋の音だった。


「……最近、すごく楽しい」

「何が?」

「先輩と一緒に配信が出来て」


 不意に脈絡なく、彼女はそう言った。心底嬉しそうな表情で、ひっそりと口角を上げ。ちゃぷちゃぷと湯で手を遊ばせながら、少し照れた様子で。耽美な彼女の横顔に見惚れる私へ、目線を向ける事なく。彼女はそう言った。

 思わず私は、彼女を抱きしめる腕に力を込める。


「……なら、よかった」


 じんわりと身体の内側に溜まる熱。だけど身体を動かす心臓は、ひんやりと痛んだ。チクチクと胸が苦しくなった。いつの間にか、脈打つその音が喧しくなり始めた。

 ホラーゲーム配信を二人でプレイすることになって、数日が経った。あれから私達はゲームクリアを目指し、何度か二人で配信を行った。頻度としては、一週間に三回のペース。いくら怖いものが苦手とは言え、一度やり始めたゲームを途中で投げ出すのは彼女の中のポリシーに反するのだろう。しかしだからとても怖いものは怖いまま、自身がまともにプレイができないと悟った彼女が見出した答えは、自分が操作するのではなく私に操作させて、ゲームをクリアまで導くというもの。

 よもやよもやな話だ。一度目の配信で流されるまま彼女の代わりに私がゲームをプレイしたが、まさかそれが一度きりにならないとは、思ってもみなかった。ゲームをプレイし、彼女に真横で叫ばれ、腕の痛みをなんとか堪えて終わらせた配信の後。悲鳴を上げすぎてカスカスに喉が枯れた彼女から弱々しく伝えられるは、私にゲームを最後までクリアしてもらいたい、という旨の話。驚きで唖然と目を瞬かせた事は、記憶に新しい。

 そんなこんなで今。私は週に三回彼女と配信へ参加し、ホラーゲームを彼女の代わりとしてプレイするという、なんとも奇妙な生活を送っている。

 「勿論先輩に他の用事があるなら誘わないので」と彼女は私に言ったが、生憎私にそのような用事が生まれることは滅多に無い。同じ時間に仕事を終わらせ、買い物をしてから足早に帰宅する私には、ありがたいことに彼女の配信へ参加する余裕があった。故に今の所、彼女のホラーゲーム配信への参加率は100パーセント。策士的であると考えざる終えない状況であった。


「ふふ、本当に夢みたいだなぁ。そりゃホラーゲームは死ぬ程怖いけど、先輩と一緒に配信出来るの、凄く嬉しいんです」

「……うん」

「先輩とリスナーのみんなが仲良く喋って、それを眺められることがとっても嬉しい」

「セナが中心なんだし、一緒に喋ってもらわないと困るけどね」

「あはは。それは確かにそうですね。でも嬉しいものは嬉しいんです。先輩やリスナーのみんなが楽しんでくれてるの、見ると」

「……まぁ、楽しいとは思うよ」

「んっふふ。先輩がそんなことを言う日が来るなんて、あたし思ってもみませんでした」


 彼女の囁きに私も胸中で同感する。まさか星屑セナの配信に参加して、星屑セナのリスナーたちと喋って、彼女と一緒にゲームをする日が来るとは思ってもみなかった。そしてそんな日常を楽しいと、存外悪くないなと感じている自分が生まれるとも、思っていなかった。もし、かつての自分が今の自分を見た時、どんな事を考えるのだろう。不意にそんなことが頭に過ぎる。


「ふふ……なんかこういうの、いいですね……」

「……星奈?」

「…………」


 私に凭れ掛かり、目を瞑った彼女が静かに息をする。一時の静寂が訪れ、ピチョンと天井から落ちてきた雫が湯船に波紋をつくった。私は彼女の横顔を見る。精巧な人形を彷彿とさせる整った顔に、ひっそりと影がかかっていることに私は気付く。


「どうしたの?」

「……んーん、なんでも」

「なんでもないって感じじゃないよ」

「……あは。そう、見えます?」

「そりゃね」


 ゆっくりと持ち上げられた瞼の奥で、茶の色が混ざった黒の瞳が薄らと輝いた。そっと彼女は目線だけをこちらに寄越し、眦を微かに下げて柔く笑う。叶わないと言わんばかりに、目を細めて弱々しく笑みを浮かべる彼女へ、ドクリと跳ねる心臓が苦しくなった。


「……前から思ってたけど、何かあったの?」

「……あったことには、あったかも」

「それは私に……話せること?」

「…………ごめんなさい」

「……そっか」

「でもいつか……落ち着いたら、話します」

「ん、了解」


 彼女は今何かに迷って、何かに困って、何かに悩んでいる。彼女は隠そうとしているが、伊達に数年恋人していない私にはお見通しで。

 普段に比べ幾分か下がった声のトーンや、無理やり作られたみたいなその笑顔の違和感は、数日前から気が付いていた。笑っているようで、笑っていない。楽しそうな顔を私には見せるけど、時折その顔に疲れが滲んでいる。気のせいでは決して割り切れない違和感が、ずっとあった。


「……なんか先輩って鈍感なくせに、そう言う所にはよく気が付きますよね」

「そりゃ好きな子は見てるし」

「……先輩のキザたらし」

「キザは百歩譲って許すけど、たらしは心外なんですけど」

「ばーか。先輩はたらしですよ。鈍感キザイケメンたらし人間め!」

「褒めてるのか貶してるのかわかんない……」


 ザプンと私から離れ、くるりとこちらに振り向いた彼女は舌をベーッと出して、あざとく悪戯な破顔を見せた。私は彼女の言葉に納得がいかないと眉根を顰め、ムッと唇をへの字にしてから両の手を伸ばす。

 瞬間、彼女は私が何をしようとしているのか悟ったのか、慌てて逃げようとするがもう遅い。がっしりと彼女の腕を掴んだ私は、そのまま自身の方に引き寄せて、空いたもう片方の手を彼女の肌に沿わせる。


「ちょっ、きゃあああっ!」

「さっきの言葉、前言撤回しなさーい!」

「あっはははははははっ! やだっ、やめて先輩! あははっ、やぁだぁ〜!」


 薄らと肋骨が浮かぶ柔らかな脇腹に指を這わせ、サワサワと彼女を擽る。途端彼女は身を捩り、キャッキャと甲高い声で悲鳴をあげて。バシャバシャと水飛沫をあげ、なんとか私の手から逃げようと動き回るが、無論私は彼女を逃すわけもなく。

 二人で入ると少々手狭な浴槽の中、私たちはケラケラと笑いはしゃいで暴れ転げた。成人済みの女が二人して何をやっているんだと思わなくもないが、しかしこの場には私達しかいない。だったら、なんでもしていい。成人してようがしてまいが、関係ない。それに私達は互いが互いを愛する恋人関係。一緒にお風呂に入って、そのままイチャイチャすることになんら問題なんて生じない。私は、そう思う。


「はっ、はっ、はっ。はぁ、もう……先輩って、手加減とか、知らない……ですよね……」

「星奈とイチャついてる時に手加減とかするわけないじゃん」

「なんですかそれ……」


 暫く経って、これくらいで勘弁してやろうと私が彼女の腕を離せば、彼女は肩で息をした状態でじっと私を睨みつけ、非難の声を上げる。その姿は、宛ら子猫のよう。警戒を隠すことなく露わにして、一度手を伸ばせばシャーッと威嚇し引っ掻いてきそうだ。無論、私のことが大好きな彼女はそんなことができるわけもなく、きっと伸ばした私の手に擦り寄って甘えてくれるのだろうが。


「もぉ……先輩のせいでちょっとのぼせそうなんですけど」

「ごめんごめん。好きな子には意地悪したくなっちゃうの」

「知ってますぅ〜。先輩は男子小学生ですもんねぇ〜」

「拗ねないでよ。ほら、おいで」


 ザパリと湯船で立ち上がり、拗ねてプクッと頬を膨らませた彼女へ手を差し伸べる。彼女はそんな私の手に一瞬ビクッと肩を揺らし、ジトッと私の手を睥睨するが。すぐにいじらしく彼女は私の手を取り、期待するような目で私を見上げる。そんな予想通りすぎる彼女に反応に、私は一人クツクツと喉を鳴らしてから、そっと彼女の手を引いて立ち上がらせる。


「……本当、先輩ってばそういうとこ」

「んー?」

「……先輩のばーか」

「あっ、また私のことばかって言って」

「えっへへ」


 彼女と手を繋いだまま、私たちは浴室を出る。のぼせそうになるくらいイチャついたというのに、彼女はまだ足りないのか。クスクスと笑って、煽るように私の手を引っ張った。多分それは、宣戦布告。炯々と妖艶に光る瞳を前に、私もニタリと笑って、彼女を見つめ返した。

 今日は深い夜になりそうだ。だけど取り敢えず先に、濡れたまま脱衣所から外へ出ようとする彼女を止めるところから始めよう。

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