第9話『真夜中の会話』

 月光の柔い光が部屋の中を照らす。仄暗いそこに響く音は、壁にかけられた時計のありきたりな針の音だけ。チクタク、チクタク。寂しいほどの静謐。とっぷりと浸かった夜の闇。乱れた寝具の上に沈み込んだ私は、ゆっくりと寝返りを打つ。私の隣、小さく寝息を立てながら生まれたままの姿で眠る彼女を暗がりの中、ぼんやりと見た。

 妙に、目が冴えていた。普段であれば、もうとっくに夢の中を漂っている時間であり、夢へ誘う眠気もあった。何度も何度も私の身体は欠伸をして、瞳を覆う瞼も非常に重い。疲労感だって溜まっている。明日も仕事であるから、早く眠らなければという気持ちもある。

 だけど、どうしてだか。一向に私の思考回路は止まることを知らず、眠いはずなのに冴えてしまった目は私の意識を夢へ導くことはない。

 慌ただしい一日だった。私は考える。眠れない夜に、人は何故か考え事をしてしまう。例外なく、私もそのうちの一人。だから、慌ただしい一日であった今日のことを……日付が変わったのだから、昨日のことと言えばよいか。とにかく、今日ないし昨日の出来事を、私は考え思い出していた。


「……んっ」


 キュッと猫のように身体を丸め、モゾモゾと衣擦れ音を鳴らす彼女。寝言とも言い切れない唸り声。つい一時間程前の、激しく喘ぎその身体も肢体もバタつかせ、もっともっとと掠れた声で求めていた彼女は、どこへ行ったのやら。生まれてまもない赤ん坊みたいな幼い寝顔。私はそっと、彼女の頬を指の腹で撫でた。

 穏やかであったとは言えない一日だった。それは今日の出来事も然り、気持ち的な面も含め。そしてそれはきっと私だけではなく、彼女もそう。寧ろ彼女の方が、追い込まれていたはずだ。いつものように配信準備や作業をしていたが、その傍で今回の件で様々な人間と電話をする姿を見かけていた。いくら個人Vtuberであっても、責任は伴うもの。電話をするお相手が誰なのか私は知らないが、配信後に見せた疲労感が滲む彼女の表情が、今日一日の彼女を表していたように思える。

 故にふっと、彼女が私に言い放ったお願いについて、私は疑問を抱く。彼女は言っていた。私に配信へ参加してほしいと。彼女は言っていた。彼女のリスナーに私の事を知ってほしいと。彼女は言っていた。私と一緒に配信をすることが夢なのだと。

 恐らく、それらは彼女の本心だ。だけど、違和感が残る。魚の小骨が喉に刺さった時のような、小さな小さな違和感だ。その違和感が一体何なのかわからないが、それでも彼女の思いを、取りこぼしている。そんな気がしてならなかった。

 何故彼女は私にそんなお願い事をしたのか。幼い顔で眠る彼女を見つめ、考える。

 天真爛漫で元気溌剌。楽しいことが好きで、悪戯が好き。その場のノリと勢いだけで物事を進める性格。それが、星屑セナの性格。

 しかし実情。桐崎星奈は、そうではない。さも自分は楽しい事だけを考える陽気なキャラクターであると見せながら、その実彼女は多くのことを考えている。考えてしまう、と言った方が正しいだろうか。人の顔色を、声色を窺い、気にしすぎなくらいに気にしいな彼女。自分の感情や想いは滅多な事がない限り隠し通して、それすらも相手に悟らせない。強引に相手の手を引くフリをしつつ、相手の判断を尊重し自分の意見を表には出さない。それが、星屑セナではない、桐崎星奈の性格であった。

 だからこそ、私は違和感を持った。彼女の性格から鑑みるに、リスナー想いの彼女がリスナーが傷つくかもしれないと言うリスクを負ってまでして、私を配信に出させるだろうか。彼女が口にしたその理由は、確かに彼女の本心であったはずだが。それだけの理由で、私へあのようなお願い事をするとは到底思えない。ならば何故、と。私は考えてしまう。


「ん?」


 考え事をしていた私は、音が限りなく消え去った部屋の中で、突如ブブッと鳴ったスマホの振動音を耳にする。彼女の頬に触れていた手をそのまま滑らせ、側に置いてあった自分のスマホを触る。カッと、暗闇に馴染んでいた目には強すぎる眩惑なブルーライトが私を照らし、思わず顰めた顔に影を落とす。

 アラームの設定が表示された画面には一件、メッセージの通知。見慣れた名前の相手からの言葉に私はハッと息を吐き出してから、そっと上体を起こす。


『いいよ』


 手早くフリック入力で返事をした後、スヤスヤと眠る彼女の頭をひと撫で。のそりのそりと彼女が起きぬよう緩慢な動作でベッドから出た私は、ヒヤリと肌を撫でる冬の訪れを体感し、下着だけを身につけた身体に薄手のカーディガンを羽織った。


「…………もー、こんな時間になに?」


 寝室を後にする。冷たいフローリングを、ヒタリヒタリと素足で歩く。極力音を立てず、薄暗いリビングに入りパチリと灯りを点ける。瞬間、眼球を炙る眩さに私はキュウッと目を細め、白み霞んだ視界の中ヨタヨタといつもの定位置へ。換気扇の下に置いている簡素な椅子に腰掛けた時、タイミングよく手に持っていたスマホに電話が掛かってくる。


『ふふ、そう言いながら葉月、ちゃんと電話に出てくれるんだね?』

「まぁそりゃ、アンタから急に電話したいってきたら、出るでしょ」

『あっはは。葉月のキザったらしい所、変わらないね。星奈の苦労が伺えるなぁ』

「何? どういうこと?」

『さぁ? わからないならわからないで良いんじゃない? まぁわたしは葉月にわかる日が来るとは思ってないけどね』

「……はぁ」


 開口一番、苦言を呈した私にクスクスと笑って、電話越しの女は揶揄いの言葉を私へ寄越す。掴みどころの無い、面白がった女の声。大人になった今、変わらない様子の女に、私は溜息を溢した。


「それで本当に、どうしたのよ。凪」

『んー? なんだか葉月が面白いことしてたなぁっと思ってね?』


 話し相手である女、一条凪は高校の頃からの友人だ。高校生活の三年間、私達は同じクラスに属しており、一条と一ノ瀬の苗字故の固定された出席番号も相まって、仲良くなった。高校卒業と同時に殆どの友人との縁を切った私と、未だに繋がっている程には。


「あー…………見てた?」

『ふふ、勿論』

「うわ、はずっ」

『面白かったよ? あの葉月がめちゃくちゃに緊張してる様子。他のみんなが見たら、驚いてひっくり返るんじゃない?』

「そんなわけないでしょ」

『えぇ? そうかな?』

「そうだよ」


 電話の向こうでクスクスとえらく上機嫌に笑い声を溢す凪に、私はどうにも小っ恥ずかしくなり、コンロの隅に転がしていたセブンスターのボックスへ手を伸ばす。


『星奈と、仲良くしてるんだね』

「まぁ、そうだね」

『あーんな沢山の惚気聞かせちゃって。愛されてるね?』

「あー、恥ずかしいから」

『ふふ、良いことじゃない。わたしは嬉しいよ? 葉月がちゃんと幸せそうにしてて』

「……珍しいね。凪がそんなこと言うなんて」

『そんなことないよ。いつだってわたしは葉月の幸せを願ってるし』

「嘘くさいって」

『酷いなぁ』


 咥えた紙タバコの先端に、ライターで火をつける。ゆらりゆらりと漂う煙の糸。すっと煙を吸い込み、じわりと身体の中に染み渡るニコチンとタールの成分に、私はふぅっと白い息を吐き出した。


『……もしかして葉月、またタバコ吸ってる?』

「あー……うん」

『今外にいないよね?』

「そうだね。換気扇の下で吸ってる」

『それ星奈から何も言われないの? 匂いが嫌だとか』

「そう言うのはあんまり。ただ身体に悪いから、本数制限されてるくらい?」

『一日何本までって?』

「…………五本まで」

『わぁ〜、減らしたねぇ。ちゃんと守れてる?』

「なんとか」

『へぇ! あの葉月がタバコ自重できてるんだ』

「ちょっと、どういう意味よ」

『そのままの意味だよ? 一時期一日二箱吸ってたヘビースモーカーの葉月だったのになぁ〜って』

「……そう、だね」

『ふふ、図星でしょ』


 軽口を叩く私達。特段内容があるとも言えない会話は、学生の頃から変わらない。変わったことと言えば、そんな会話を電話越しにしていることと、私がタバコを吹かしながら話していることくらいか。高校を卒業して二年が経過した今でも、変わらない温度感で話せる事実に、私はふっと肩の力が抜けたような気がした。


「凪は最近どう?」

『んー? ぼちぼちかな』

「ふーん。一人暮らし始めたって言ってたけど、それもぼちぼち?」

『そうだね。ぼちぼち一人暮らししてる』

「ぼちぼち一人暮らしかぁ」

『そうそう。まぁ普通の大学生って感じかな?』

「いいじゃん。恋人とかいないの?」

『生憎まだ恋愛する気分じゃなくてね』

「それ、高校の頃から言ってる」

『そうだっけ?』


 当たり障りのない会話。静まり返った夜のリビングで、私の声と換気扇が回る音だけが反響。トントンと指の腹で長くなったタバコの灰を灰皿に落とし、一口。鼓膜に響く凪の落ち着いた声色は、私に学生時代の懐かしさを思い出させる。


『そういえば話戻るけど』

「ん?」

『今日の配信、リスナー達葉月にメロメロだったね』

「え? そんなことなかったと思うけど」

『えぇ? いやいやいや。配信でも星奈言ってたけど、葉月って本当に鈍感だよね』

「鈍感なことはまぁ……今はもう否定しないけど。でもあの子のリスナーが私にメロメロだったって言うのはよくわからない」

『そういうところが鈍感なんだよねぇ、葉月って』

「えぇ……」


 凪は唯一、私と彼女……桐崎星奈ないし星屑セナが付き合っていると知っている人間であった。元々私経由で彼女と凪も仲が良かったため、確か彼女本人から聞いたと言っていたか。時折、彼女と凪が電話をしている光景を目にするため、まだ二人は繋がっているのだろう。無論、二人が何の会話で盛り上がっているのか、私は知らないのだが。


『そう、それで思ったんだけどさ』

「んー?」

『葉月も星奈みたいに配信とかしないの?』


 短くなったタバコの、最後の一口を吸おうと腕を持ち上げた時。突然訊ねられたその問いかけに、私はぴたりと身体を硬直させる。


「……しないよ」

『えぇ? なんで?』

「なんでも何も、そんな……私には向いてないだろうし」

『そんなことないと思うよ。寧ろ葉月はすごく向いてると思う。今日の配信だって、初めて喋る人間とは思えないくらい、ちゃんと話せてたし』

「いやそれはあの子が進行して、良いタイミングで私に話を振ってくれてたからであって。ていうか凪も言ってたけど、私めちゃくちゃ緊張してたし」

『でもそれは最初だけでしょ? 途中からいつもの葉月に戻ってたし、会話だって結構自発的に行ってた印象。才能、わたしはあると思うな』

「買い被りすぎだって」


 最後の一口すら吸えなくなるまで短くなったタバコを、私は灰皿へ押し付ける。火が消える直前に舞い上がった煙が、稼働する換気扇に吸い込まれていく様子をなんとはなしに見つめる。手持ち無沙汰になった手が無自覚に、もう一本とタバコの箱へ伸びようとするが、何とか理性で喫煙衝動を抑え込んだ。


『絶対人気になるよ、葉月は』

「んー」

『別にやりたくないってわけじゃないでしょ?』

「……そうだね」

『じゃあ試しにやってみてもいいんじゃないかな。葉月にはVtuberのプロが近くにいるわけだし』


 凪の提案に、私はなんて返事をすれば良いのかわからなくなった。

 伊達に五年間の付き合いじゃないのか、凪は私のことをよく理解している。凪が私へ言っていることは尤もだ。私は特段、Vtuberをやりたくない……というわけではない。凪の目から見れば、どうやら私は絶対に人気になる素質があるようで、しかも私には、一人で人気Vtuberとして伸し上がったVtuberのプロである星屑セナがいるのだ。だからこそ試しにVtuberになってみたら良いと、凪は言う。それは紛れもなく、嘘のない誠実な提案であった。


「…………」


 だけど私は、やはり凪へ返す言葉がわからなくて。思わず噤んでしまった私は、換気扇の音だけが聞こえる部屋の静けさに、苦しくなった。


『……まぁ、やるかやらないかは葉月の自由だけどね?』

「……一応、頭の片隅で考えとく」

『えぇ? 頭の片隅で考えるの? もっとちゃんと、頭の中央で考えててよ』

「ふふ、何それ」


 そんな私を聡い凪は瞬時に察知したのか。慌てることなく冷静な声色でさらりと話題を変えた凪に、私は心中で感謝を述べる。勿論その感謝は、口から溢れることはない。


『そう言えば話変わるけどこの前ね?』


 再び戻ってきた、居心地の良さ。私はホッと話題が完璧に変わった事実に安堵し、ゴソゴソと腰掛けた椅子に座り直す。気を使わせてしまったことに罪悪感を抱くが、だからとて私が彼女に謝ることはない。凪が私を理解しているように、私も凪のことを理解している。凪はこういった場面での謝罪を求めていないと、わかっているから。だから私は、抱いた罪悪感を胸の中にしまい込んで、普段通りの中身のない会話を行う。それが、私達であるから。

 皆が寝静まった、深い夜のひと時。それから私達は夜通し、眠ることなくくだらないことを語り合った。明日も朝から仕事があると言うのに、高校生であったあの瞬間に戻ったかのように、生産性のない会話を繰り広げた。数時間後、起床した恋人に呆れられる未来が容易に想像ができたが、それでも電話を切ることが出来なかった。寧ろ一緒に怒られよう、なんて私達は笑い合って。

 そうして馬鹿な私たちは眠ることを拒み、共に朝を迎えた。

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