第8話『ヒーローなんかじゃないんだよ』
「じゃあある程度質問も返したし、スパチャ読みも終わったし、時間的にもそろそろ配信終わろっかなぁ〜」
壁にかけられた時計の単身が十一時を指した頃、間延びした声で彼女はマイクに向かい喋りかける。瞬間、画面上に表示されたコメント欄はお疲れの言葉と配信終了を惜しむ言葉で埋め尽くされた。
【終わらないで〜】
【まだまだ質問あるのに】
【お疲れ様ー】
【今日の配信神回だった!】
【おつ〜】
【やだー!】
「あはは。終わるよみんなぁ〜。あたしは先輩が作った晩御飯食べてくるからねぇ〜。ちなみに今日のご飯はなんですか?」
「今日は麻婆茄子だよ」
「やっちゃぁ〜! 先輩の麻婆茄子大好き!」
【ええなぁ】
【麻婆茄子食いたくなってきた】
【イケメンで料理もできる先輩、流石っす】
配信は一貫して穏やかなものであった。
テンポよく繰り広げられるリスナーとの会話。良い塩梅で変わっていく話題。程よく私にも話を振る彼女。時折盛り上がりすぎて話が脱線したこともあったが、ある種それは星屑セナの配信のテンプレートであり、ご愛嬌。昨夜の件があったというのに、変わらない温度感。特段トラブルもないまま、つつがなく終わりを迎えようとしている配信に、私は無自覚にほっと息を吐いた。
「んじゃ、配信を終わります! 今日はみんな来てくれてありがとねぇ〜。お疲れ様ぁ〜」
「今日はありがとうございました。みんなお疲れ様」
【おつです!】
【お疲れ様でしたー!】
【終わってしまうのか】
【おつおつー】
カチリ。配信を切る。今度はきちんと配信が切れているかを確認。ぎぃっと腰掛けたゲーミングチェアの背に凭れ掛かり、ふぅーっと溜息を溢した彼女。煌めいた瞳を瞼で覆い、数秒。ピクリとも動かなくなった彼女に、私は苦笑する。
「お疲れ様」
「はい。先輩こそお疲れ様です。今日はありがとうございました」
「ん」
隠されていた瞳がゆっくりと露わになり、その目に私が映る。やんわりと頬を緩ませるその顔には、僅かに疲労の色が見えて、私はずっと繋いでいた彼女の手の甲を、指の腹でサラリと撫でた。
「なんか、疲れてるね」
「そう……ですね。気疲れなのかな。やっぱり今日の配信、緊張してたし不安だったので」
「私もだよ。でもアンタのリスナー、みんな優しかったから」
「そう……そうなんです。みんな……優しいんですよ。あたしのリスナー」
自慢するみたいに、彼女はニッと口角を上げる。だけどその口調は何処か力無く、浮かべた笑みだって今にも消えてしまいそうなくらい、儚いものだ。
私は驚き、瞠目。配信中、私の隣で快活に笑っていた彼女は何処へ行ってしまったのか。眉をハの字にし、弱々しくこちらを見つめる彼女へ、私はかける言葉を探す。
「……どうしたの」
「…………や、ちょっとだけ……うん。疲れちゃった、だけです」
「本当にそれだけ?」
「……それだけですよ。それだけ……です。だから、大丈夫……大丈夫……」
途切れ途切れの拙い返事。半分程しか持ち上がっていない瞼の奥から覗く目も、ぼんやりと虚ろだ。私を見ているようで、私を見ていない。目が合ってそうで、絶妙に私の目から視線が外れている。ぽそり、ぽそりと何度も口にする「大丈夫」は、まるで自分に言い聞かせているみたいに感じた。
「……星奈?」
「大丈夫……大丈夫、なんです」
過去の出来事を、ふっと私は思い出す。
高校時代、同じように空元気を出して彼女はよく大丈夫の言葉を言っていた。荒んだ心をなんとか宥めようと、泣きそうな顔で自身に催眠をかけるかの如く。無理やり陽気さを孕ませ、他人に心配をかけまいと笑みを浮かべて。宿った思いを必死に隠して、堪えるように服の裾を握りしめて。さも私はいつも通りであると、自分を演じて。一人になった時、誰にもバレないよう影で泣いていた彼女を、私は思い出す。そして、あの頃手を伸ばせなかった、無力な自分も。
「星奈」
「わっ」
立ち上がり、彼女の手を引く。突然と事に小さな悲鳴をあげ、バランスを崩して私の方へ倒れ込んできた彼女。私はそんな彼女をしっかりと胸で受け止め、空いている片手を彼女に背に回し抱きしめた。華奢で線が細い、小さな身体が私の腕の中に収まる。
「…………」
「……先輩?」
「……あは。やっぱアンタって、子ども体温だよね」
「……え? そうです、かね」
「うん。ぽかぽかしてて、あったかい」
彼女の手を、キュッと握る。配信前、緊張してガチガチに身体を硬直させていた私へ、彼女がしてくれたみたいに。
彼女の背を撫でる。沢山の物を背負っている彼女の背が、少しでも強くなれますように。なんて願い事を思いながら。
彼女の身体をぎゅーっと抱きしめる。泣き虫なくせに、泣いているところを隠したがる彼女が、弱音を吐いてくれますように。そんな祈りを込めて。
子ども体温な彼女の熱が、じわりと私に移っていく。ぽかぽかと、心地の良い暖かさ。私と彼女の熱が溶け合い、一つになって私達の熱になる。それは私と彼女しか知らない熱だ。私は静かに暖かな彼女の背中を摩り、柔らかな手を握って、強張った身体を抱きしめた。
「……私には、今星奈が何を考え、何でそんな顔をしているのかわかんないけどさ」
「……はい」
「もし耐えきれなくなったり、話したいって思ったら、また私に頼っていいよ。今日みたいに、星奈のお願い、聞いてあげる」
「……も、またそんなこと言って。あたしに無茶振りされたの、もう忘れちゃったんですか?」
「逆に星奈も忘れちゃった? 恋人の為に何かしてあげたくて、アンタの先輩として可愛がってる後輩を甘やかすって、私言ったじゃない」
「それは……そう、ですけど」
私の肩口で顔を隠し、モゴモゴと喋る彼女。彼女の肩に顎を乗せ、彼女の耳元で言葉を紡ぐ。騒ついて逆立っているであろう彼女の心が、まぁーるくまぁーるくなるように。彼女が甘えてくれることを期待して。
「……本当に先輩って、酷い人」
「でもそんな私が好きなんでしょ?」
「……はい。だからあたしはずっと……ずっと貴方が、好き」
微かに彼女の声は、震えていた。私はそれに、気づかないふりをする。
「一目惚れしたのは、本当なんです。出会ったあの日、誰かもわからない人から身体を触られてる最中……すごく、怖かった」
「うん」
「どうすれば良いのかわからなくて。誰かに助けを求めたいけど、それも出来なくて。もしかしたら私の気のせいなのかもって、思って」
「うん」
「なんでこんなことになってるんだろ。あたしが悪いのかなとかも、そんな事も考えて」
「うん」
彼女は語る。彼女が運命的な出会いと称したあの日の出来事を。彼女が少女漫画みたいであったと言ったあの日の出来事を。私の身体に顔を埋め、くぐもった声で語り始める。
「そんな時……貴方が助けてくれた。あたしを見つけて、あたしの手を引いてくれた。あの瞬間、私は確かに貴方がヒーローみたいに見えた。……んーん、違う。ずっと貴方は、あたしのヒーロー」
「はは、なんか照れるな」
「本当、ですよ? ずっとヒーローだった。あたしの特別だった。あの日から。ずっと……ずっと……」
彼女は話す。私が、ヒーローであったと。ずっとずっと、彼女の中で私はヒーローだったのだと。彼女の特別で、ヒーローなのだと。私に、そう訴えかける。
「ヒーローなんです、先輩は。痴漢されてる所を助けてくれたことだけじゃなくて。ずっと付き纏うあたしに嫌な顔見せず、見守ってくれていて。あたしの手を、ずっと離さないでいてくれて。……それに__」
彼女は言葉を詰まらせる。私の服の胸にギュッとしがみつき、声だけでなく身体までもがブルブルと震え始めた彼女。彼女が顔を押し付ける私の肩が、じんわりと熱くなり始め、耳に届く彼女の吐息が荒いものに変わる。
あぁ、と。私は自らの無力感に、吐き気がした。
何故彼女がこうなってしまっているのか、妙に澄んで冷静な頭で考える。
いや、こうなった理由はわかっている。恐らく彼女は、かつての苦い思い出がフラッシュバックして、こうなってしまっているのだ。いくら彼女が光のようであっても、彼女は感情を持つ人間。心が暗くなり、消し去りたいと思っていても一向に消えない嫌な思い出を思い出してしまう事も、あるだろう。
では何故、思い出してしまったのか。それを私は考える。そもそも、配信を終わった直後から彼女は何か様子がおかしかった。配信前や配信中はいつも通りであったはずなのに、一体彼女に何が起こり、彼女は何を考えたのか。私は考える。
そして一つの結論に辿り着いた時、不意に私の腕の中で震えていた彼女が顔をあげ、潤んだ瞳で私を見つめた。
「抱いて」
「……え?」
「抱いて、ください。貴方の手で、あたしをいっぱいいっぱいにして」
「え、ちょっ」
突拍子もなく、突如そんなことを言った彼女は、私の返事を待つことなく私の首に腕を回し、私の唇に自らのものを押し付けてきた。
ふにり。伝わる、恐ろしいほど柔らかな感触。小さな子どもが、憧れだけで行うみたいな、拙いキス。目を瞑ることもできず、間近で絡む私と彼女の視線。ずっと繋いでいた彼女の手が離れ、手持ち無沙汰となった私の手が、どこへ行くでもなく宙を彷徨う。音が消え、時間が止まり、薄くなる思考。互いが息を止めているからか、冷たいくらいの静謐が私たちを覆った。
「……っは!」
唇を離す。どれほどの時間キスをしていたのか。両方ともが肩を上下させ、息をする。酸素不足によるものなのか、はたまた別の理由か。バクバクと早鐘を打ち始めた心臓の存在を自覚しながら、私は私を見上げる彼女を見下ろした。
「……甘やかして、くれるんですよね、先輩」
「……そうだね」
「今日は沢山……甘やかして。あたしを、愛して。何もわからなくなるくらい、ぐちゃぐちゃにして」
なんという誘い文句であろう。分厚い涙の膜を煌めかせ、私しか知らない甘い声で囁く彼女。私は数瞬、彼女の様子を窺った後抱きしめていた彼女の身体を持ち上げる。
「きゃっ」
彼女は可愛らしく、またも悲鳴をあげた。
「……やっぱアンタ、軽すぎ。羽根みたい」
「……そんなこと言うの、先輩だけですよ」
「アンタをお姫様抱っこするのも私だけでしょ?」
「ん。そう……ですね」
横抱きで彼女を抱えた私は、そのまま部屋を後にし、二人の寝室へ向かう。道中リビングを通るため、今日の晩御飯用に作っておいた料理が目に入るが、私たちはそれらを無視して足早に寝室に閉じこもる。カーテンが開けっぱなしの窓から差し込む、異様に明るい月光を頼りに中を歩き、私はそっとベッドの上に彼女を下ろした。
「甘やかしてあげる」
「はい」
「星奈は今日、沢山沢山頑張ったから」
「はい」
「ご褒美が、必要だね?」
「っ……はい。ご褒美、ください。いっぱい、いっぱいご褒美、欲しい」
寝具の上、真っ白なシーツに散りばった彼女の髪。寝転がりながら、私を求めて伸ばされる彼女の両手。私をとにかく煽りまくる彼女の甘い声。私を下から見つめる、情欲が滲んだ彼女の瞳。私ははっと短く息を吐き出し、彼女が待つベッドの上に乗る。
「いいよ。沢山あげる。星奈が嫌って思うくらい、沢山あげる」
「……先輩に貰えるもの、嫌ってなることないもん」
「……煽り上手よね、アンタ」
「本心を言ってるまでです」
「じゃあ余計タチ悪いね」
彼女の上に覆い被さり、軽口を叩く彼女の唇に今度は私からキスをする。互いに首を傾け、触れ合うだけのキス。何度も、何度も、触れては離れ、触れて離れ。
「ふっ……せんぱい」
「ふふ、かわい」
やがてその戯れは、深いものへと変わる。どちらからともなく、閉じられていた唇が開き、口内で息を潜めていた肉の塊がおもむろに絡む。その会合は、火傷してしまいそうな熱を持って、私たちを魅了した。
今から私は、彼女を抱く。彼女に言われるがまま、私は彼女の現実逃避に付き合う。
彼女のことは好きだ。私は彼女を愛しているし、彼女に欲情もする。彼女とのセックスも好きで、週に一回のペースで彼女を抱いてしまう程には、彼女に惚れている。
彼女の色白で柔らかな肌に指を這わせることも、彼女の恥部に触れ彼女を鳴かせることも、ドロドロに溶け切って喘ぎ声だけしか出せなくなった彼女自身のことも、大好きだ。
恋愛、身体だけではないとわかっているが、それでも彼女の身体が好きなことも事実。私は彼女とのセックスが、好きだ。だから私は、今から彼女を抱くのだ。だから私は、彼女の現実逃避に付き合うのだ。
「んっ……ふっ」
「…………んぅ」
キスをする。肌に触れる。彼女が嬌声を漏らす。ギッとマットレスが軋む。
彼女は先ほど、言っていた。私は、彼女にとってのヒーローであると。ずっと手を引いてくれた、手を離さないでいてくれた、ヒーローであると。彼女は言っていた。
だけどあの時、あの瞬間、私は違うと……彼女の言葉を否定したくて堪らなかった。私は決してヒーローなどではないと。私は何者にもなれない、無力な人間なのだと、言いたかった。本当は違うんだよって。現に今、悩んでいる彼女の根本的な解決ができない私は、ヒーローなんかじゃないんだよって。言いたかった。今も言いたくて、仕方なかった。
私は力なき人間だ。みんなを救い、みんなから憧れる、ヒーローなんて高尚な存在じゃない。今、彼女の目からは私がヒーローのように見えているが、実情は違うのだ。蓋を開ければ、結局のところ私は何もしてこなかった。彼女と出会ったあの日、彼女を助けたのだってそれを見てしまったからに過ぎない。見てしまったから、助けただけなのだ。それだけの、話なのだ。
だから私は、自分が見えなかったものを。彼女が大丈夫だって言った言葉を鵜呑みして。困った彼女を助けなかった。手を差し伸べなかった。ちゃんとしていればわかったはずなのに、わからなかった。
そんな人間をヒーローとは、言わない。ヒーローはいつだって人々に目を向け、人々を助ける存在だ。だから私はヒーローじゃない。何もわからなかった、私は。
私は彼女を抱く。私を頼ってよ、なんてカッコつけてるくせして、本質的なこと訊ねることなく。この行為が彼女の現実逃避だと理解しているのに、わからないふりをして彼女を抱く。ヒーローじゃない私は、光である彼女を今から。
炯々と輝く月光に照らされた私たちは、深い夜に向かって夜更かしをする。愛と罪が綯交ぜとなった行為が、どうか少しでも彼女の心を軽くしますように。そんな滑稽な祈りを込めながら、私は彼女を抱く。
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