第6話『そして訪れたその瞬間』
赤い心臓が喧しく胸を叩く。熱を帯びた血液が身体全身を巡回し、私の身体を熱くさせる。カラカラに乾いた口の中、何度も唾液を飲み込んで咽喉を鳴らす。呼吸すらもままならなくて、意識的に息を吸って、吐く。乾燥した部屋の空気は熱った身体を冷ますことなく、ただただ口内の僅かな水分すら、奪っていった。
「あはっ、先輩めちゃくちゃ緊張してる」
「……そりゃ、そうでしょ」
「そんなに緊張しなくていいのに。顔真っ赤じゃないですか」
「緊張しなくて、いいっていうけど。流石に無理。緊張しないわけ、ないじゃん」
「えー? そうかなぁ。まぁあたしとしては、緊張してカチカチになってる先輩レアだから、見られて嬉しいけど」
「……小悪魔」
「その通りですっ」
視線の先。まだかまだかと恐らく私という存在を待ち望んでいるであろう人々のコメントが、目では追えないスピードで流れている。視線の中。五桁の数字のまま揺るがない視聴者数が、着々とその数を増やしていっている。視線の端。片耳にだけ有線のイヤホンをつけた彼女が、えらく楽しげに笑っている。私は思わず、引き攣った唇から、今日何度目か数えることを諦めた溜息が、こぼれ落ちそうになった。
【全裸待機なう】
【まだかなぁ】
【楽しみすぎ!】
【遅くね?】
【ミュートなってるよぉ〜】
【イチャイチャしてんのかな】
【彼女さんまだ〜?】
「ふふ。みんな先輩のこと、待ってる」
「……勘弁してほしい」
「ここまで来ちゃったんですから、もう諦めてくださ〜い」
「うぅ……」
全くもって惨めで不甲斐ない姿であると思う。彼女の揶揄い一つに、私はいつも通りの反応を見せることもできない。項垂れ、呻き、弱音を吐く私は、側から見れば心底果敢無いと思う事だろう。
だが、仕方のない事だ。いかんせん、何処にでもいる平凡でありふれた一般人である私は、これから数万人いる配信に参加しなければならない。しかも、その数万人の多くが推しとしているであろうVtuberの、恋人という立場で。私は、数万人の前で喋らなければならないのだ。緊張でキャラ崩壊し始めるのも、無理はない。
私はそう、自分に言い聞かせる。
「いつも通りでいいんですよ。いつも通りで」
「……何があれって、緊張しすぎて自分のいつも通りがわからなくなってるんだよね」
「えぇ? そんな事あります?」
「現に今起こってる。初めてよね、こんな事。緊張で自分を見失うって、自分でもそんなことある? って感じなんだけど。多分今、人生で一番緊張してる」
「大袈裟ですよぉ〜」
「いやいやいや」
ダラダラと溢れ流れる汗。尚も騒然に跳ねる心臓。引き攣ってヒクヒクと痙攣する口角。何処を見るべきかわからない目がうろちょろと泳ぎ、吐くタイミングを失った息が肺の中で蠢く。誰がどうみても、緊張しているとわかるだろう。
私はギュッと、服の胸を強く強く握りしめた。
「ふふ。でも確かに、先輩がそんな緊張して動揺してるの、初めて見るかも」
「でしょ?」
「はい。見てて飽きないです」
そんな私の姿が珍しく、それでいて大層面白いのか。肩を振るわせ、私の隣で彼女はクスクスと笑う。
「大丈夫ですよ、先輩」
「……本当に?」
「あたしが付いてますから。大丈夫。ほら、もうミュート解除しますよ?」
「…………」
「……もぉ、仕方ないなぁ」
動作を忘れ、カチカチに硬直した私に彼女は肩をすくめ、ハッと静かに息をこぼしてから。デスクの下、膝の上に行儀良く置かれていた私の手を、彼女の指先が触れる。
途端、ビクッと跳ねる身体。顔を動かさず目線だけ手元に向ければ、彼女の細く色白な小さな手が、やおらに私の手で遊んでいる瞬間を見た。
ツツッと指の腹で手の甲を撫で、滑らかな動きで私の手の平を暴く。かと思えばくすぐるように何度も私の手の上で彼女の指は踊り、やがて私の指と彼女の指が絡み合う。
「……大丈夫だよ」
形を、柔さを、体温を、確かめるみたいに。にぎにぎぎゅむぎゅむと私の手を握る彼女。私はおもむろに首を動かし、再度視線を彼女に移す。
怖いほど、穏やかにはにかむ彼女。私の目と、彼女の目が交わる。トキン。緊張により煩く脈打っていた心臓が、わかりやすく跳ねた。刹那、ゆっくりと私は落ち着きを取り戻す。固くなった身体から力が抜けていき、正常な呼吸を取り戻す。
参ったな。別の意味で頬や耳に孕み出した熱を自覚した私は、どうか私のときめきが彼女にバレませんように、と祈る。
例えるなら、それは母が子に与える特大の愛を司った笑みだ。愛おしくてしょうがないと、理解してしまう笑み。時折彼女は、そんな笑い方をする。私はそんな彼女に滅法弱い。その事実に彼女は気づいているのか、いないのか。私は優しく破顔する彼女から、目を逸らすことが出来なかった。
「……じゃあ、始めてもいいですか?」
それから暫く。少しの間私と見つめ合だだ彼女は、透き通った鶯声でそう訊ねた。
私はコクリと、首肯。声を出せなかった私に彼女は「ふふ」っと上機嫌に笑い声を落とした後、漸くその目を私から外した。
「……みんなお待たせぇ〜!」
カチリ。耳に届いたマウスの音を皮切りに、彼女は軽快な口調で喋り始めた。
【きたー!!!】
【なんかあった?】
【待ってた!】
【大丈夫そう?】
「大丈夫大丈夫! 待たせてごめんねぇ〜? ガチガチに先輩が緊張してたから、解してたのぉ〜」
先程纏っていた柔らかな空気は一変し、マイクに向かって語らう彼女は既に桐崎星奈ではなく、星屑セナになっていた。揶揄い好きで、揶揄われる事には弱くて、元気いっぱいな、皆が求める星屑セナ。思わず私は目を瞠り、彼女を見てしまった。
【緊張してたんだ】
【楽しみすぎ!】
【もうそこにいるの?】
「いるよぉ〜? あたしの隣にいる。ほぐしてあげたのに、また身体カチカチにさせてる」
クスクス。喉の奥で笑う。機嫌良さげに話す声音は、いつも通りの彼女だ。口角が上がり、ニコニコと笑顔を浮かべる横顔も、いつも通り。話すテンポも、軽やかな物言いも、間延びした話し方も。それら全ていつも通りの彼女、私のよく知る彼女である。
しかし、その目は。溢れ出る風格は。私の知らないものだ。
真摯に画面へ視線を注ぐ、獰猛な獣の如くギラついた瞳。私よりも幾分か小さな身体から放たれる、ひりついて張り詰めた空気。コメントの一つも見逃さぬよう、忙しなく動き、リスナーの反応を確認する彼女。口元や表情は笑っているのに、彼女の目は、纏ったオーラは、真剣で重いものである。
その風貌は、初めて見るものだった。思えば、配信している彼女を私は側で見た事がなかった。故に私は、目の前の彼女に圧倒され、驚き、そして理解する。なるほど、だから彼女はたった一人で険しい山の頂まで登り詰め、人気Vtuberと称されるまでになったのか、と。私は、理解してしまう。
【先輩喋らないの?】
【待機しとるで】
【緊張してるんやろなぁ】
【期待】
「あはは。みんな待ち遠しくて仕方ないみたいですよ、先輩」
ギロリと、向けられた彼女の眼差しに、睥睨されているようだと思った。今にも骨の髄まで喰らわれてしまいそうな、強い強い煌めきを宿す目。私はヒクリと肩を揺らし、眩惑な彼女の光から逃げるように画面上で流れるコメント欄をじっと眺めた。
「え……っと。そうみたい……だね?」
張り付いた喉を懸命に動かし、彼女に促されるまま私は声を出す。拙く吃り、裏返った声音。瞬間、私は早くも後悔をした。
コメント欄は、シンッと珍妙な静寂を取り戻す。流れの早いコメントの川がピタリと止まり、空気が凍りついたのがわかった。
「っ……えーーーっと」
ドッと冷や汗が溢れ出る。心臓がバクバクと再び元気を取り戻し、さぁーっと全身から熱が引いていく。
やってしまった。どうやら私は、やってしまったようだ。何がどうやってしまったのか自分でもわからないが、とにかくやってしまった。
目の前が真っ暗になる。グルグルと回る思考回路。手先足先が冷たくなり、身体が身震い。焦燥により催す吐き気。とめどなく流れる不快な汗が肌を伝い、口の中がカラカラに乾燥。無意識に上げられた片方の口角が、ヒクリヒクリと気味悪く小刻みに動き、私はヒュウッと間抜けな音を喉から鳴らした。
「……ふ、ふっ、ふふふ、くふ、くふふ」
頭が真っ白になる静謐。不意に隣から、堪えるような笑い声が聞こえてきた。
動けなくなった身体で、ハタッと弾かれるように顔を上げ、私は隣に座る彼女を見る。顔を伏せ、プルプルと身体を異様に振動させる彼女は、ふすふすと気の抜ける音を出していた。
「ふ……うっふふ……」
「えっ……せ、な?」
「ふぅ……あっははははははは!」
彼女の名を口にする。瞬間、彼女は耐えきれなくなったのだろう。ガバリと顔をあげ、彼女は大きく口を開けて小さな幼児のように笑い始めた。
「ははっ……はっ……はぁー! あっはは!」
「なん……え? 急にどうしたの……」
「あははっ! だっ……てぇ……先輩が見たことない、すごい顔、してたからっ……」
「え、どういうこと……」
「やっ……そんな……ふふ。絶望と悟りと諦めが滲む真顔見せられたらそりゃ……笑うでしょ!」
ケラケラと陽気に笑い声をあげる彼女。ひーっひーっと苦しげに呼吸をし、目尻に薄らと涙を浮かべ。遂にはパチパチと力無く手も叩き始めた彼女に、私はポカンと口を開けたまま固まった。
「ほんとっ……あっは。初めて……初めて見た……。先輩のそんな……ちょ、こっち見ないでくださいっ」
「えぇ、なに……ほんと何。無事?」
「ねぇぇぇこっち見ないでってば! その顔! ほん……やめっ……」
「えっ……えっ……なに、こわ……」
「怖くないです! 全部! 先輩が! 悪い!」
まさに爆笑。爆発的なまでの笑い。ある意味狙ってるとしか思えない笑い方に、私の頭はフリーズ寸前。わけもわからず、頭の中にクエスチョンマークが浮かぶ私。そんな私の反応すらツボに入ったのか、顔を背け身体を丸くし、彼女は只管に笑い続ける。
「はぁー……はぁー……本当……先輩って面白い人」
「……そんな、笑わなくても」
「うっふふ。先輩ってすっごく可愛い。ね? みんなもそう思うでしょ?」
肩で息をしていた彼女がふっと顔を上げ、私……ではなく、私たちの会話をネット越しに聞いていたであろうリスナーに向け、喋りかけた。
私ははたと思い出す。今私たちは、約五万人の前で喋っているという事実に。
いや、忘れていたというわけではない。決して忘れていたわけではないのだが、突如として大笑いし始めた彼女の姿に驚いて、嫌というほどの緊張と焦りが解けてしまったのだ。あるのはただただ、困惑。パチパチと目を瞬かせ、彼女を見ていた私は、だから画面に映るリスナーたちのコメントに気がつくことが出来なかった。
【めっちゃ可愛い!】
【最高ww】
【セナち楽しそうで草】
【先輩めっちゃいいな。推せる】
【先輩すっごい声よくね?】
【先輩テンパリすぎじゃね?w】
【キマシタワー建てる?建てる?】
【先輩ってツンデレのかっこいい人だよね?】
【おもろすぎる笑笑】
先程見た、恐ろしい程に静まり返ったコメント欄が、嘘だったかのように。爆速で生まれては消え去っていく、彼らの言葉。読める限り、それらは全て肯定的で。リスナー達の反応に、私は目を真ん丸にして声を失った。
「ふふ……大丈夫って言ったでしょ?」
マイクに乗るか乗らないか。彼女は私の耳元でひっそりと囁く。私しか知らない、慈愛と甘みを帯びた、その声音で。握られた手に、ギュッと力を込めて。彼女は、私の知る……私しか知らない面持ちで、私が滅法弱い笑みで、そう言った。
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