第2話『大切な記憶を現実逃避に』

 私、一ノ瀬葉月が人気バーチャルYoutuber星屑セナこと、桐崎星奈と恋人関係になったのは、私が高校の卒業式を終えてすぐの時だった。

 日本を闊歩していた冬将軍がゆっくりと形を顰め、ソメイヨシノの小さな蕾がぽつりぽつりと開花し始める、三月の初め。三年前だというのに、今も尚鮮明に思い出せるあの日。

 しっかりとボタンを留めた、柔らかいブレザーの重み。胸元につけられた淡い色のコサージュの違和感。丸められた卒業証書が収まる、硬い丸筒の手触り。肌を撫でる、まだまだ冷気を纏った春の風の香り。泣きながら笑う、クラスメイト達の様子。そして——


「先輩」


 茶の色がほんのりと宿る黒い瞳に、溢れんばかりの涙を溜め、整った顔をクシャリと顰める、彼女の姿。


「ご卒業、おめでとうございます……」


 複雑な感情を混ぜこぜにした顔で、必死に破顔をした彼女。その拍子に目を揺蕩わせていた涙が、ハラリと零れ落ちる。私に掛ける声は僅かに震えていて、鬱血するくらい強く胸を抑える手が、硬いブレザーに皺を作っていた。


「……うん、ありがと」

「っ……せん……ぱい」


 ボロボロと大粒の涙を流し、彼女は私を呼ぶ。彼女が存外泣き虫であると知っているのは私だけであったから、周りの人間が驚いた様子で私達を見ていたことに気づく。でも、私はそんな彼らに構うことなく。私の為に涕涙する彼女に近づき、そっとその小さな身体を、両の腕できゅっと抱きしめた。


「あっ……」

「もう、アンタってば本当に泣き虫」

「そん……なの……。だって……」

「私が卒業するの、寂しい?」

「……当たり前のこと、訊かないで……ください」


 拗ねた声色。腕の中で、私の肩口に顔を埋めた彼女。さめざめと流れる温かな雫が、私の肩を濡らす。私は彼女の華奢な身体を抱きしめる腕を持ち上げ、そっと彼女の丸い後ろ頭に手を添えた。


「そーんな泣かないでよ。これじゃ安心して卒業できないでしょ?」

「……卒業、しないでくださいよ……先輩」

「んー、もう卒業証書貰っちゃったしなぁ」

「ダメです。ダメ。あたしが……許しません」

「えぇ? 困ったな」


 いつもみたいに駄々を捏ねる彼女。その物言いは高圧的であるにも関わらず、あまりに弱々しい態度に思わず苦笑。まだ私が学生だった頃は、可愛い可愛い後輩のお願いに「仕方ないなぁ」なんて言って手を引いていたことだろう。

 だけど、その時ばかりは彼女のお願いを聞き入れることは出来なかった。

 どれほど、キラキラと煌めいて眩しかった日々を希おうが、進む時間を止めることは出来ない。私と彼女は、先輩と後輩。一年の年の差を、無かったことにはできない。いずれ彼女の先輩である私は卒業してしまって、同じ学生生活を送る事が出来なくなってしまう。そしてそのいずれが、私の大切な思い出となった、その日であった。


「嫌です……嫌なんです、先輩」

「んー? なにが?」

「全部……全部嫌……」


 グリグリと涙を拭うように、顔を私に押し付ける彼女。私はポンポンと頭を優しく叩きつつ、ユラユラと身体を揺らす。どうかこの子が、泣き止んで笑ってくれますように。そんなエゴを持って。母親が自らの子の相手をするみたいに。


「嫌……やだよ、いや……」


 でも、彼女は泣き止んでくれない。普段なら「子供扱いしないでください!」と怒る彼女は、何処へ行ったのやら。何度も何度も、嫌の言葉を口にする彼女。可愛がっていたとはいえ、まさかここまで彼女から好かれていたとは。そんな、優越感にも似た感情を抱いたことは、内緒の話だ。


「桐崎」

「ぅ……うぅ……嫌なの……」

「うん、嫌だね。全部、嫌だね」

「そう……です。あたし……全部、全部嫌……」


 可愛らしいと思った。嬉しいと思った。だって彼女は、私の大切な後輩だったから。誰だって、大切な後輩からこんなに想われていたと知れば、嬉しくなる。例に漏れず、私もそんな先輩の一人。彼女には申し訳ないけど、すごく嬉しかったのだ。


「全部……全部……」


 人知れず、大事な後輩から打ち明けられた想いに嬉しくなっていた私へ。彼女はさらに胸中に秘めていたであろう想いを口にする。


「貴方が卒業、してしまうこと……も。これから、貴方のいない学生生活を……送ることも。貴方が……私の見えないところで、生きようとしている、ことも……」


 なんとも身勝手な発言だ。あの日の私は、彼女を擁きながら、そんなことを思った気がする。

 だけどそれ以上に、私は伝えられた彼女の想いに、心底驚いた。そして、妙な違和感を覚えた。

 何かが違う。何か、彼女は別のことを告げている。私にとって、彼女は大事な後輩で。彼女にとって、私は涙するくらい大好きな先輩で。私はそう思っていた。私はそう思い込んでいた。

 だけど、違う。そう思った。何故って、彼女が口にしたその想いはまるで——


「貴方が好きです、先輩」


 ——私に、恋をしている。そう、感じてしまったから。


「……え」


 蚊の鳴くような声で、呟かれた彼女の告白を、私の耳はちゃんと意味のある音として捉えた。だがその刹那、私の耳は使い物にならなくなる。

 髪を揺らす風の音。空を羽ばたく小鳥の囀り。卒業生達の笑い声。それら全ての音が、私の世界から、消えた。


「好き……なんです。先輩のことが。ずっと……ずっと……」


 音の消えた世界で、彼女の声だけが輪郭を持って私の鼓膜に響く。くぐもった声音が、私の脳を揺さぶる。人間の優秀な頭が、思考を放棄する。ただただ、私はその場で彼女を抱きしめることしか出来なかった。


「あたし、貴方の特別に……なりたい。貴方を特別にしたい。……ううん、違い……ますね。私の中で貴方は……ずっと特別だった」

「きり……さき……?」

「……あたしの、特別な人。名前を、呼んでほしい。星奈って。名前を呼び……たい。葉月……って」


 彼女の吐露した想いは、祈りであり、呪いであり、独白であり、懺悔であった。

 震える身体は、彼女の気持ちを示していた。伝わる心音は、彼女の想いを示していた。拙い述懐は、彼女の願いを示していた。

 揶揄い屋さんの冗談ではないと、本心で理解した。彼女は私のこと、本気で好きなのだと。理解って、しまった。


「……先輩」


 硬直した私から、ゆっくりと彼女は離れる。力の込め方すらわからなくなった私の腕から、するりと彼女は抜け出す。途端、私の身体はヒヤリと寒さを覚えた。そこにあった熱を奪われた所為なのか。それとももっと別の、理由の所為なのか。あの時の私は、わからなかった。


「もう一度言います、先輩」


 私を射抜く、怖い程真っ直ぐな眼差し。未だにその双眸からは、涙が零れ落ちていた。ハラハラと。ハラハラと。しかし、やはり彼女は私を射抜いたまま、目を逸らさない。二本の足でしっかりと地面を踏み締め、吹く春風に長い髪を靡かせながら。彼女は私に、再びその想いを。


「貴方が好きです。葉月さんの特別に、私をしてください」


 その日、私と彼女の関係性が変わった。卒業し、旅立つ私を彼女は引き留めた。先輩後輩という間柄から、新たな名前の仲になった。私達はその日、恋人同士になったのだ。


「…………」


 秋の肌寒さを微かに感じる、朝の時間。シャッとカーテンが開けられた窓の外から、小鳥の鳴き声と車が走る音、子どもたちの甲高い声が聞こえた。

 私はソファに腰掛け、朝の音を浴びながらゆっくりと、手にしたマグカップを傾ける。中に入っている黒々としたコーヒーが口内へ流れ込み、私の味蕾を苦みで刺激。少し冷めてしまい、ぬるくなったコーヒーをゴクリと嚥下して。ホッと息を吐き出した私は、不意に思い出していた大切なあの日のことを、しかし何故今になって思い出したのか、考えてみた。……考えるものでも、ないとわかっていたけれど。


「……ねぇ」

「はい」

「すごいこと……なってない?」

「そう……ですね」


 顔を真っ青にして、目の前で起きているすごいことに、彼女は静かに応える。それぞれ互いのスマホから同じ画面を眺める私達。星屑セナと検索欄に入力し、更新するたびに途轍もない速度で流れる情報に、私達二人は頭を抱えた。


【セナち、彼女いたんだ……】

【速報 星屑セナ、配信の切り忘れで彼女バレ】

【星屑セナの彼女バレってソースどこ】

【昨日の配信見てたけど、くっそてぇてぇしてた】

【あれ絶対先輩が攻めで、セナちが受けよな】

【セナってレズだったの?】


 彼らが繰り広げるポストの呟きは、すべて星屑セナとその彼女である私についてのこと。その勢いは凄まじく、つい数時間程前からトレンドに乗った「星屑セナ」「彼女バレ」「先輩」のワードは、多くの人々が今私達に興味関心を持っているのだと、如実に表す言葉となっていた。


「……この先輩って、私のことだよね」

「そうだと思います」

「……まさかこの私がXのトレンドに載る日が来るとはなぁ」

「ごめんなさいぃ~!」


 今にも泣きそうな顔を両手で隠した彼女へ、現実逃避気味にあの日の情景を思い出していた私は、ゆっくりとその丸い頭を撫でる。これから一体どうなることやら。私達のことが話題となってXの画面を横目に、今後のことについて私は思いを馳せていた。

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