4.「名乗るん遅くなってすんません。」

【今週か来週あたり空いてる?】


お昼を食べた後のちょうど眠い時間帯、社内の個別チャットに新山さんからメッセージが来た。

すぐに【いつでもがら空きです】と返すと、【焼肉行く?】と来た。


【A5ランクだ!】

【あほ。今週金曜どう?】

【OKです!】

【髙比良にも声かけてるからまた連絡するわ】

【やったー!ありがとうございます】


早速自分のスマホのスケジュールの、今週金曜日の欄に「焼肉」と入れた。新山さんと髙比良くんとはそれぞれ付き合いはあるけど、3人で飲みに行くのは初めてかもしれない。新山さんと髙比良くんってちょっとタイプが違うけど、一緒に飲むとどうなるんだろう。どっちにしろ、気心知れた先輩と同期の会だ。わたしにとっては楽しい会になることは確定しているので、金曜夜の楽しみを胸に仕事に戻ったのだった。




金曜日、いつもより少しだけ通勤服に気合を入れて、メイクも髪のセットも、いつもよりちょっとだけ丁寧にした。余裕を持ってお店に向かうはずだったのに、退勤直前で急な対応が入ってしまい、終わるころには間に合うかギリギリの時間になってしまった。駅まで猛ダッシュして、なんとか滑り込んだ電車の中で新山さんに「ギリかもです、すみません」とLINEを送ると、「10分までなら乾杯待っとく」と返事が来た。店までの道順が示された地図アプリを見ると、最寄りの駅からダッシュして間に合うかどうかというところ。今日に限って、いつもあまり履かないパンプスを履いてきてしまっていた。靴擦れはしないにしても、走りづらいのは事実で、気合が空回りしがちな己を恨んだ。


着いた駅から猛ダッシュ。学生のときより、社会人になってからの方がダッシュの回数が増えているのは気のせいじゃないと思う。週に1回のジム通いのおかげか、そこそこの持久力とスピードを維持できている自分を褒めつつ、ちょっとだけ痛むかかとを恨みつつ。指定の店に着いたのは、約束の時間を7分過ぎたときだった。


店の前で呼吸を整えながら、指定の店で間違っていないか確認する。看板がスタイリッシュすぎて文字が読みづらい。デザインされた草書体は、現代の日本人にはしんどいものがある。たぶん大丈夫、なんか合ってる気がする。

シンプルな、だけど高そうな引き戸をゆっくりと開けると、入口のすぐそばにいた店員さんと目が合った。にっこりと微笑んで、いらっしゃいませ、と声を掛けられたところで、店員さんはわたしと、わたしのすぐ後ろにも目線を送った。わたしのすぐ後ろにも、お店に入ってくる人がいるらしい。店に入りながら後ろを振りかえったところで、思わず固まってしまった。




「あ、どうも」




この間の、居酒屋で助けてくれた彼がいたのだ。



固まるわたしとは対照的に、彼は特に表情を変えず、なんてことないようにわたしに会釈した。反射的に会釈を返して、ほぼ後ずさりみたいに店の中に入るわたしに続いて、彼も店に足を踏みいれて、後ろ手で引き戸を閉める。店員さんはにこやかなまま、「ご予約はいただいてますでしょうか」と私たち二人に尋ねる。居酒屋の彼はそれを聞いて「先に2人入ってると思うんですけど、えーと」。



「新山です」

「えっ」



さすがに声が出た。店員さんが驚いてこちらを見るが、わたしだって驚いているのだ。ただ、居酒屋の彼だけは、前に会った時と変わらないニコニコとした顔でこちらを見ている。「ええと…」店員さんが困ったように、こちらと居酒屋の彼を交互に見た。彼はへらりと笑ったまま、「一緒です」と店員さんに答えて、そのあとわたしを見た。



「新山さんとくるまの会ですよね?」

「あ、はい…」

「じゃあ一緒や。すんません、お願いします」



くるま、というのは髙比良くんのあだ名で、入社した時の研修でつけられたものだ。そのあだ名がつけられた経緯も含め、あだ名にしては尖っているという理由で、その名前で呼ぶ人はほんとうに一握りだ。それを今、目の前の居酒屋の彼は使っている。つまり、髙比良くんとは仲がいい、ということ。そして、今回の会に呼ばれているということは、新山さんともある程度仲がいいひとということだ。びっくりしすぎて呆気にとられたまま、なんとか頭のなかで情報を整理する。冷静になって考えてみたらなかなかに当たり前な推理だったけど、それがやっとなくらいに混乱していたのだ。


店員さんは戸惑いつつも、こちらです、とわたしたちを案内した。彼が店員さんの後に続いて、わたしはその後ろに。すこし薄暗い店内は、細い廊下の左右に半個室がいくつかついているつくりになっていて、半個室の、廊下に面するところには暖簾が掛けられている。廊下は狭くて二人並んで歩くことはできなかったので、わたしは彼に何も聞けず、目を白黒させたまま大人しくついていくことしかできなかった。


案内された半個室の暖簾の奥からは、新山さんと髙比良くんの声が聞こえた。居酒屋の彼は、なんの迷いもなく暖簾を開けた。新山さんが彼の顔を見て、「遅いわ、もう頼むとこやったで」と不満げに言うと、彼は居酒屋の時と同じようにへらりと笑って、「すんません」と返した。



「マスは?」

「一緒ですよ、ほら」



新山さんの言葉に、彼は暖簾をもう少しだけ開けて、半身を開いた。わたしがおずおずと顔をだすと、「ギリセーフやな」と笑った。新山さんの向かいに座っていた髙比良くんが、「お疲れ」と笑って、横に座るように促してくれた。居酒屋の彼は、新山さんの横に。


「ええー新山さんの横ですか」

「俺かて嫌やわ」

「呼んだくせにい」


居酒屋の彼はまたへらへら笑って新山さんと言葉を交わす。何飲む?と髙比良くんがメニューを渡してくれたので、慌てて目の前の二人から目を逸らして、メニューに視線を落とした。席まで案内してくれた店員さんが、オーダーを聞くために待っていてくれたらしく、それを見た新山さんが「生ふたつと、」と言いかけたのが聞こえた。店まで走ってきたことと、この数分での出来事で喉がカラカラだ。顔を上げて、梅酒のソーダ割りを頼む。向かいに座っている彼は、とくにメニューを見ずにレモンサワーを頼んでいた。店員さんが去っていったあと、こちらを見て、ニコリと笑った。不躾にじろじろと見てしまっていた自分に気付き、慌てて会釈する。



「…まっすーちゃん大丈夫?なんか変じゃない?」



隣の髙比良くんが、こちらを気遣って眉を下げた。そりゃ変にもなるよ、という言葉が喉まで出て、ひっかかった。なんで誰も、わたしの向かいの彼の話をしないんだ!わたしが聞くべきなのか!?目を白黒させたまま、髙比良くんの言葉に「いやあ、そうかなあ」とへらへら笑うことしかできない。ちょっと心配そうにこちらを見てくれている髙比良くんの向かいで、ここハラミうまいねんなあ、と新山さんが教えてくれたけど、そんなことよりわたしの向かいの彼の名前を教えてくれ。うまい肉どころじゃない。


すぐに店員さんがドリンクを運んできて、それぞれが受け取る。特になんの変哲もない乾杯をして、グラスに口を付けたところで決心した。これを飲んだ勢いで聞こう。そうじゃないと一生聞けない。髙比良くんと新山さんの雰囲気からして、わたしが彼のことを知らないことを知らないのだ。となると、ご自身に名乗らせるわけにはいかないし、わたしが聞くしかあるまい。こういうときは勢いだ。と思いながら飲んでいたから、思いのほか飲み進めてしまって、グラスは半分ほど空になってしまった。

意を決してグラスを置き、まっすぐ前を見た。レモンサワー片手の彼と目が合って、きょとんとされる。ええい、ままよ!



「あの!先日は居酒屋でありがとうございました!」

「ん?ああ、あれ大変でしたねえ」



思ったより出た声量に、新山さんと髙比良くんが驚いてこちらを見るのが分かった。目の前の彼はさして驚きもせず、へらりと笑った。



「あの、大変失礼なことを伺うのですが」

「はい」

「…わたし、あなた様のお名前を存じ上げておらず!お名前お伺いしてもよろしいでしょうか!」


たぶん人生で初めて、こんなことを言った。これでもわりと記憶力には自信がある方だったのに、と自分の思い上がりもあって、とにかく恥ずかしくて泣きそうだった。自分で思い出せないなら、聞くしかない。顔に熱が集まって、脈が速くなる。すきっ腹に流し込んだ、意外と濃かった梅酒のソーダ割りのせいだと思いたかった。わたしが言い切ると、目の前の彼はまたキョトンとした顔をしてから、ぶは、と吹き出した。大爆笑とはまさにこのこと。レモンサワーのジョッキを片手に、机に突っ伏して、肩を震わせて、ひいひいと笑い出した。わたしがあまりの驚きに目をひん剥いて固まっていると、新山さんと髙比良くんもわたしと同じ表情をして、顔を見合わせていた。え、なんでその二人がその顔を。



「え、新山さん紹介してないんですか?」

「え、髙比良なんも言ってないん?」

「言ってないですよ、だって誘ったの新山さんでしょ?!」

「だってお前マスと仲いいやん、なんで逆に言うてないん!?」



向かいでは居酒屋の彼が机に突っ伏して大爆笑しているし、横と斜め向かい同士では言い合いが始まってしまった。もう何なんだこれは。混乱しすぎているのと、お酒が回ってきたのとで、頭がぐわぐわする。ダッシュしてすぐに、勢いよくお酒なんて飲むんじゃなかった、と後悔が過る。そもそもわたし、そんな変なこと聞いた?なんで彼はこんなに笑っているのか分からないし、新山さんと髙比良くんは、言い合いする前にまず私に説明すべきじゃないの?自分だけが右往左往しているこの状況に、ふつふつと怒りが沸いてきた。仮に、前に目の前の彼に会ったことがあったとして、それでわたしが忘れていたとしたらそれは大変に失礼な話なので、その時は真摯に謝ろうと思っていた。けど、恥を忍んで聞いたというのに、大爆笑と罪の擦り付け合いって。いい大人が恥ずかしくないわけ?と、自分を棚に上げての怒りはどんどん膨れ上がっていく。不毛な言い合いと変な爆笑を横目に、梅酒ソーダの残り半分を一気に煽る。さっきよりも濃いお酒の味に一瞬後悔するものの、怒りに任せて飲み干した。空になったグラスを飲み干した勢いそのままに机に置けば、思った以上に大きな音が鳴った。新山さんと髙比良くんがこちらを見る。髙比良くんが、明らかにわたしの顔を見て動揺した。


「あ…」

「どっちが悪いとかどうでもいいから。なんでこの人はこんなに笑ってんの?ていうか誰なの?」

「あああごめん本当に…」


髙比良くんはわたしに向き直り、本当に申し訳なさそうな顔をして手を合わせた。それなのに、新山さんはにやにやと笑ってこちらを見ている。向かいの彼は、さっきほどじゃないけど、また肩を震わせて笑っていた。普通に腹が立って、髙比良くんの手を掴んで新山さんに向き直る。


「新山さんなに笑ってるんですか?くるまくんはこんなにちゃんとわたしに謝ってるのに」

「え、」

「この人が誰か、私に言ってなかったって話ですよね?それだけの話なのにあんなに言い合いする必要ありました?言ってなかったわ、で済むじゃないですか」

「ごめんごめん、そんなに怒らんでもええやん」

「怒ってるんじゃなくてさみしいんですよ!せっかく今日楽しみしてきたのに、なんか二人でヒソヒソ喋ってるし!この人はずっと笑ってるし!」


わたしが指をさすと、彼はやっと顔を上げた。それでもまだ笑顔のままだ。私の顔を見て、またくつくつと笑った。


「ずっと笑ってるやん!すみませんけど誰!?前に会ってたら申し訳ないけど!」

「あーおもろ、すんません。やばいなあ」

「何て!?」



居酒屋の時にも聞いた、低い声で彼はまた笑った。ツボに入ってしまっているらしい。でもそんなことは知らん。誰だお前は。少し息を落ち着かせて、それでもまだ笑ったまま、彼は続けた。




「会うのは2回目です、居酒屋のときがはじめて。今日が2回目。だから謝らんといてください、俺と新山さんとくるまが悪いです」



え、と肩の力が抜けたと同時に、名前が挙がった新山さんと髙比良くんが反論の声を上げた。



「いやお前が一番悪いやろ!こないだの居酒屋のとき、マスさんに会った~て言うてたやん!」

「会いはしましたよ。でも別に名乗ってはないです」

「なんでだよ!アンタ、『じゃあまたーて言ってきた』って言ってたじゃん!」

「うん、言うたで。ね?」


にこ、と微笑みかけられたものだから気まずくなって、指さしていた手をそっと下ろす。新山さんが呆れるように笑って、わたしを見た。


「マス、ごめん。俺、こいつがこないだの歓迎会のときにお前に会ったって言うてたから、もう面識あるんやと思ってた」

「…歓迎会の時、このひとと一緒に飲んでたんですね?」

「俺もいた。話振りからして、もうちゃんと話したんだとばっかり思ってた…」


どうやらわたしが彼に助けてもらった日、この3人は一緒に飲んでいたらしい。わたしを助けたあと、彼は席に戻って、わたしに会った、と言ったと。だから、新山さんと髙比良くんは、わたしと彼がちゃんと話して、お互いがお互いのことをしっかり認識している状態になったとばかり思っていた、と…


「ん?待って、なんであなたはわたしのこと知ってるんですか?」

「新山さんとくるまから聞いてたんで、そら知ってますよ」


レモンハイのジョッキを煽って、彼は当然のように言った。「まあでも、部署も部署やん。知らん人おらんのちゃう」と続けた。


「今日も全社メール送ってきてたやん。アイコンも顔写真登録してるし、そら知ってますよ」

「え待って、あなた、会社の人なんですか」

「うん」


さっきまで頭に上っていた血が、スーッと引いていくのかわかる。そりゃそうか、新山さんと髙比良くんと飲んでいるんだから、会社の人の可能性が高いことくらいちょっと考えればわかることだ。しまった、酒の酔いと怒りに任せて思いっきり指差して、誰だよ!とか言ってしまった。終わった。しかもこの時間にここに来れるという事は、間違いなく本社の人だ。



「名乗るん遅くなってすんません。京極って言います。京極風斗。よろしくお願いします」



彼は、固まるわたしにそう名乗った。あの居酒屋の時みたいに、イヒ、とイタズラっぽく笑って。

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