2.「本社では、噂話に尾鰭どころか手足まで生えて走り出すんやから。」

歓迎会から1週間。すっかりあの男の人のことは忘れて、お酒が入ると愉快になるという一面を知った先輩の堂前さんとはより距離が縮まり、少し慣れてきた仕事に奮闘していた。その日も仕事に追われている間にあっという間に午前中が終わってしまって、午後からの仕事量にちょっとうんざりしながら、堂前さんと社食で定食を食べていた。社食は本社ビルの最上階にあり、いつも通り混んでいた。


二人掛けのテーブルの向かいに座っている堂前さんは、社食の焼き鯖定食の鯖を丁寧に解体していく。骨と身をあれよあれよという間により分けていくので、思わず見とれてしまった。ああやって仕事もさくさく選り分けられたらいいのになあ、とぼんやりしていると、どうやら堂前さんは私に話しかけてくれていたらしかった。ハッとして、堂前さんの手元に遣っていた視線を上げる。


「聞いてた?」

「え?あ、すみません」

「焼き鯖食べたかったん?」

「むっちゃ綺麗に分けるなあって思って…」


堂前さんはきょとんとしてから、自分の手元の鯖を見て、「そう?」と不思議そうな顔をした。

「そんだけ綺麗に食べてもらったら、鯖も成仏できますね」と言うと、誰目線やねん。と笑ったのでよしとする。


「すみません、話の腰おりました」

「全然。こないだの歓迎会んとき、新山もおったらしいよって話」

「え、そうなんですか?」


うん、と堂前さんが頷いて、綺麗にほぐされた鯖の身を口に運ぶ。新山さんは私が入社した時に、仕事を教わった先輩だ。堂前さんの後輩でもある。2年くらい一緒に仕事をしていたが、新山さんは超絶激務の部署へ異動してしまい、なんとなく連絡するのもはばかられてしまって、それっきりだ。私もいくつかの支社を経て、今は本社ビルの堂前さんの下で働いているが、新山さんの所属している部署も一緒の建物の中にある。


「うん。歓迎会とは全然関係なく、飲みに行ってたらしいわ」

「あの店、会社の人いっぱい来るって言ってましたもんね」

「そうそう。また今度飲み行きましょーて言うてたよ」


そのうち誘いあると思うわ、また予定調整しよな。と、さらっとわたしを人数に含めてくれる堂前さんの優しさが大好きである。新山さんには異動してきたことの挨拶含め、一回連絡してみようかなーなんてぼんやり思いながら、わたしは定食の生姜焼きを食べ進めたのだった。




仕事がひと段落した16時ごろ、ひと息つこうと席を立ち、食堂と併設されている休憩所にやってきた。いつもは大抵堂前さんも一緒だけれど、今日は忙しそうだったのでひとりである。ちょっと甘いものが飲みたくなって、自販機の前で腕を組む。カフェオレかカフェモカか…いや、ちょっと今日カフェイン摂りすぎやからココアでもありだな…と自販機を睨んでいると、後ろに人の気配。


「あ、すみません!先どうぞ」

「どうも………」

「ん?」


待たせてしまうのはよくないと、よく見ずに後ろの人に自販機を譲った。17時からの会議、ヘビーそうだからエナドリもありやな…と、斜め後ろから自販機のラインナップとにらめっこしたままでいたが、順番を譲った人が一向に自販機の前に進まない。不思議に思ってそちらを見遣ると、お昼休憩の時に話題に出ていた彼が、とてつもなく訝し気な表情でこちらを見ていた。


「新山さん!」

「うわ、やっぱそうやんな!誰かと思った!」

「お久しぶりです!わーー会いたかったーーー!」

「よう言うわ、俺って気づいてなかったやん」


新山さんはそういって、くしゃりと笑った。相変わらずとんでもなくタイプのビジュアルである。一緒に働いていたときにはしていなかったウェリントンの眼鏡が、ちょっとだけ雰囲気を柔らかく見せていた。一緒に働いていたときはばっちり上げていた前髪も、今では緩く分けられている。営業ははつらつさが命やで!と、言葉を選ばず言えば「ギラついていた」時とは、別人みたいだった。


「随分雰囲気変わりましたね」

「まあ営業ちゃうしな。お前もだいぶ変わったなあ、髪切ったんや」

「そうそう、楽さ重視で」


「ええやん、似合ってるで」とさらっと言ってのける口のうまさは、さすが元トップ営業マンといったところだ。新入社員のころのわたしはいちいちときめいていたが、わりかし誰でも社交辞令的に褒めることがわかってからは一切胸が躍らなくなった。あのころのわたしは若かったのだ。


新山さんは自販機の前に行くと、振り返って「何飲む?」と言った。「いいんですか」と一応聞くと、「今更遠慮覚えたんか」と笑った。一緒に働いていたときは、自販機でコーヒーを買っている新山さんに突撃し、ついでに奢ってもらうことが多々あったのだ。…あのころのわたしは怖いもんなしで、ほんとうに若かったと思う。


「じゃあ…カフェラテで…」

「ん」


新山さんは私のカフェラテと自分のブラックコーヒーを買うと、すぐそばに備え付けられているカフェテーブルに置いた。一緒に置かれている、立ってんだか座ってんだかわかんないような高さの椅子に腰掛ける。足長。「本社初めてやっけ」「はい」「お前人事部行きたいって言うてなかった?堂前さんの下やから広報やろ」机を挟んだ向かいの椅子に目線で促されて、なんてことない顔して(内心かなり焦ったけど)腰掛けて、世間話。


「まあ人事やりたかったですけど、広報の適正あるんじゃないかって言われて」

「誰に?」

「濱家さん。そしたらちょうど欠員出たってなって、異動してきました」

「濱家さんかあ、まああの人やり手やからなあ」


濱家さんは、ウチの会社の人事部のマネージャーだ。異例の速さで出世街道を爆走していて、私が入社した時には、私の上司の新山さんの、その上司だった。新山さんと同じく、一緒に仕事をしたのは2年かそこらだけど、直接の上司部下ではなくなった今でもずっと気にかけてくれている人だ。


「あれ、広報って欠員出たん?誰か辞めたっけ?」

「菊池さんが退職されたんで」

「…あ」


菊池さんの名前を聞いた新山さんの顔が、一瞬曇った。知ってる人の反応だ。


「知ってるんですね、辞めた理由」

「まあ、うん」


新山さんは誤魔化すようにブラックコーヒーに口を付けた。口先ではなんとでも言えるのに、こういうときに正直な反応をしてしまうところは2年前と変わらない。

堂前さんにとって菊池さんは元部下で、急な欠員が出て相当苦労していたらしい。本人は言わないけれど、濱家さんから聞いた。だからこそ、菊池さんが辞めた詳しい経緯はまだ聞けていないのだ。

正直もうちょっと自分で調べてからでもよかったのだけど、目の前に本当のことを知っている、信頼できる先輩がいるとなれば。


「本当のこと教えて欲しいです。堂前さんには聞きづらくて」

「や、待て待て。堂前さんから聞いてないなら俺からは言われへんて」

「ええー」


ここで急に義理堅さ出してこなくていいのに、と思いつつももうひと押し。「京極さんってどんなひとなんですか」。新山さんの目が揺れた。



「よく知らないんです。でも、気をつけろって言われました」


しっかり目を見てそういうと、新山さんはひとつため息をついた。こちらに向き直る。


「京極はええやつやで」

「…」

「堂前さんがそう言うんはしゃあないわ、一人辞めてんねやから。でも、ほんまに京極はいいやつやねん。警戒して穿った見方はせんでほしい」

「…はい」


眼鏡の奥の新山さんの目が、わたしを映す。真剣に諭すような言い方に背筋が伸びた。無意識的に、「京極さん」を批判するスタンスに立っていた自分に気付く。彼のことを全然知らないのに、失礼な聞き方だったなと反省する。


「すみません…」

「いや、俺だって京極のことよう知らんかったら、そうなってたと思う」

「…」

「おもろくていいやつやで。まあちょっと癖はあるけど」


新山さんはそう笑って、またコーヒーを煽った。


「菊池さんの件も、別にどっちかが悪いわけじゃないと思うねん。」

恋愛のどうのこうのって、他人が口出せることじゃないしな。と呟くみたいに言った。「ただ、結果的に菊池さんの方がダメージがデカかったんよな。だから、京極の方が悪い、みたいになってて」。新山さんは、そのあと一つ溜息をついた。

思ったより複雑な事情らしい。そして新山さんは、京極さん側の事情もよく知っているらしい。すこしの沈黙が流れた後、仲良いんですか、と聞こうとした瞬間に新山さんが口を開いた。


「本社は怖いで、噂に尾ひれどころか足まで生えて勝手に走り出すんやから」

「いや、足て」

「ほんまやねんて。気ィ付けや、お前目立つし」



これまでの人生で目立ったことがなかったので、思わず思いっきり怪訝な顔をしてしまった。「目立つ?私が?」と聞き返すと、新山さんは渋い顔をした。



「お前自身がどうこうってより、濱家一派の若手の女ってだけで目立ってまうねん。嫌な話やけど」

「濱家一派!?なんですかそれ」

「濱家さんのこと慕ってる奴の総称。」


初耳の単語に思わず身を乗り出す。脳内に某映画の真っ赤な法被の一家が浮かんだ。「ヤクザみたいやん」と零れた言葉に、新山さんは「うちの会社なんてヤクザみたいなもんやろ」と笑った。


「濱家さんは仕事できるし慕ってる人も俺ら含めて多いけど、上層部では嫌ってる人も多いねん。濱家さんに気を遣って立ち振る舞えってわけじゃないけど、ちょっとその辺も気を付けなあかんかもな」

「…もしかして本社って、相当闇深いですか?」

「今気づいたん?残念やなー、地獄やで」


肩をすくめてくしゃりと笑った新山さんは、高そうな腕時計をちらりとみて「そろそろ戻るわ」と席を立つ。「ま、地獄やけど一緒にがんばろな。なんかあったら遠慮せんと連絡してくれていいから」と爽やかに言うので頷く。結局のところシンプルに面倒見がいいって、新山さんのすごいところだと思う。わたしもこのあと会議があるので、連れ立って席を立った。


「またご飯も連れてってくださいよ、A5ランク焼肉!」

「あほ、一人3,000円の食い放題じゃ」

「ええ〜〜〜出世してんのにぃ〜〜〜?」

「してへんわ!悲しいくらいに足踏み中や!」


エレベーターに乗り込む道すがら、新山さんと話したのはこんな内容。本当に他愛もない、ただの会話だったのだけど。数日後に堂前さんから「なんや、新山といい雰囲気って話聞いたで」と揶揄われて、新山さんの言っていた『本社では、噂に尾鰭どころか足まで生えて勝手に走り出す』の意味を身をもって知ったのだった。

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