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@mohsoh

1.「沼っちゃうらしいよ。」

「9Fの京極には気をつけて」。異動してきたばかりの部署で、一番歳の近い先輩がそう教えてくれた。


「9Fの京極さん?男性ですか?」

「そ、気をつけて」

「ど、どういう意味で…?」

「"沼っちゃう”らしいで」


ほぼ脅し文句のその言葉の意味を聞いた私に、先輩_______堂前さんは、なんてことないようにあっけらかんと笑って言った。

社会人で同じ会社の社員に沼るって、会社に何しに来てんだよ。その時のわたしはそう思っていて、”沼っちゃった”女性社員をちょっと軽蔑したりもした。それが顔に出ていたらしい私を見て、堂前さんは更に笑って、「気をつけて、あなたの前任がそうやったから」と言った。


「えっ」

「やっぱ聞いてなかったんやね。菊池さん、それが原因で辞めたんよ」

「寿退社って噂でしたけど…」

「実家に連れ戻された、が正解。仕事上関わり多いから、とにかく京極には気をつけること」


その後すぐに業務の引き継ぎの話になり、それ以上は聞くことができなかった。同じ会社の社員を”沼らせて”退職にまで追い込むとは、さぞ魅力的なお顔立ちなんだろうなとこっそりと社員データベースを調べてみたけど、プロフィール写真は登録されていなかった。ちぇ、と思ってタブを閉じて、そこから奇跡的に関わりを持つこともなかったものだから、すっかり「9Fの京極さん」のことは忘れてしまっていた。




そこから1ヶ月後、歓迎会を開いてもらえることになった。私の異動してきた部署以外にも、同じフロアには同じタイミングで異動してきた人がちらほらいたので、合同で賑やかにやりましょう、ということらしかった。(いっぺんにまとめたほうが楽だから、という裏事情は推して知るべし。開催してもらえるだけありがたい。)


会場は、会社から一番近い繁華街の、ちょっとだけ脇道に入ったお店。うちの社員の奥さんの実家のどうのこうの、なにやら関係のある方が経営している店らしく、色々と融通が利くからと、よく会社の飲み会で利用していると堂前さんが教えてくれた。日によっては、会社の人間だらけだと。でも何食べても美味しいんよね〜と上機嫌だった彼は、歓迎会が始まると恐ろしい勢いでグラスを空にしていき、それはそれは見事な酔っ払いに変貌した。


隣の部署の部長が面白がって眺めていたり、周りの反応を見て察するに、堂前さんはどうやらお酒が絡むとかなりハッピーになってしまうたちらしい。普段あんなに仕事を捌きまくっている、超穏やかなしごできマンなのに。これがギャップというやつか、と堂前さんが隣の部署の席に突撃するのを見て、しみじみとしながら、グラスのぬるくなったビールを飲み干した。



すこし酔いが回ってきたので、酔い覚ましにお手洗いに立った。男女ひとつずつの個室が向かい合っていて、出たところに共用の洗面台がひとつついている、よくあるタイプの造り。清掃が行き届いていることに、勝手に上から目線で「信頼できるわ」なんて思いながら、冷たい水で手を洗っていた。ふう、と一息ついて目の前に備え付けられた鏡へと視線を上げると、すこし後ろに一人の男性が立っていて、しかも鏡越しに目があってしまったものだから、思わずびくりと肩を揺らしてしまった。

ホスト風のその男性は、待っている位置からして、男性用トイレが空くのを待っているところらしかった。目があってびっくりしてしまったものだから、「すみません、びっくりしちゃって」なんて、恥ずかしさを誤魔化すように当たり障りのないことを言って、そそくさとその場を去ろうとしたのだけども。


「顔赤いっすね、結構飲みました?」。ホスト男に声をかけられてしまった。適当に笑って「ぼちぼちですね」と返したが、そのあとも「髪型かわいいですね」「いくつですか」「名前は?」なんてよくもまあそんだけ喋れるもんだなあという矢継ぎ早な質問攻め。適当に切り上げて逃げ出そうにも、席に戻る通路は彼が阻んでいて叶わず。全部適当にいなしていたが、相当酔っているらしい相手が一歩距離を詰めてきた。思わず後ずさったところで、洗面台が腰に当たった。明らかに近すぎる相手の距離に、身体がこわばって、心臓が嫌な飛び跳ね方をする。酔いどころか血の気まで一気に引いていくのがわかった。

相手がこちらに手を伸ばすのがわかって、最悪突き飛ばすしかあるまい、と腹を括った瞬間に、男性側のトイレの鍵が開く音がした。あ、と思った瞬間に、勢いよく扉が開いて、目の前の彼の肩にクリーンヒットした。よろけて悶えるホスト男に、トイレから出てきた男性は、「わあ、すんません」と、どこか他人事みたいに声を掛けた。


「いってえな、」

「申し訳ないっす、ほんまにすんません」


黒髪パーマの男性は、…謝ってるふうには全然見えない、へらへら、というのが一番近い表情でホスト男に謝る。誠心誠意とは真逆の温度感で、謝罪の言葉を次から次にまくし立てながら、しきりに空いたトイレへと入るように促していた。「ほんますんません、全然前見てなくって。いやあ申し訳ないっす、トイレも待たせちゃって。あ、空きましたんで!ね!すんませんでした、以後気をつけますわあ」。きまりが悪くなったのか面倒になったのか、はたまたその両方か。ホスト男はこっちを見ることもなく、男性が出てきた個室に入って勢いよく扉を閉めた。


洗面台の前で突っ立っている私を振り返って、男性は肩を竦めて、いひ、と笑った。明らかにしてやったり、という顔で、さっきの一連の流れが偶然じゃないことに、それで気付いた。絡まれているのに気づいて、場を収めてくれたのだ。


「はああ…め、っちゃ助かりました…」

「あ、ほんまですか。そらよかった」


安心感から脱力し切った情けない声でお礼を伝えると、男性はなんてことないように言って、またへらりと笑った。そのまま男性トイレに視線を遣った。


「はよ戻ったほうがいいっすよ、また出てくるから」

「あ、そうですね…あの、ほんとうにありがとうございました」

「いえいえ」


重ねてお礼を伝えて、狭い通路をすれ違う。わたしより少しだけ高い目線の彼は、すれ違うときに「じゃあ、また」と言った。聞き間違いかと思って振り返ると、彼はこちらを見ていた。


「また。」


念押しするみたいに目を見て言われて、はあ、と気の抜けた返事しかできなかった。

少なくとも私は彼のことを知らないし、きっと彼は酔っ払ってるんだな、と結論付けて、曖昧に会釈をしてその場を去る。席に戻る道すがら、いたずらっぽく笑う顔と、気だるげな表情を思い出しながら、菊池さんが「沼っちゃった」人って、ああいう感じなのかしら。なんて呑気に思っていた。

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