それぞれ‥ Spin-off

見返お吉

第1話  TOKYO 下町スクール


             下町の学校


 窓際で茹で上げるような、午後の強い陽ざしを浴びて、ブルース・スプリングスティーンのメロディーに包まれながら、じわじわと浮き出てくる汗を楽しんでいたら、大学の我がクラス紅一点の珠代さんから電話があった。 珍しい人からの電話だと思いながら受話器に耳を当てると唐突に・・。

「もしもし、ヒロー・・あなたも教職課程の単位とっているわよね・・」

「ああ・・おれたちのクラスじゃおれとお前とワラベ(渡辺)だけじゃん・・」

「そ・・そう・・ワラベじゃ何だからねぇ・・あなたにぴったりのバイトがあるんだけどやってみない?」

「なによ・・」

 あまり気乗りがしないので、徐々に返事がつっけんどんになる。

「保健の統計のバイトよ」

「なにそれ」

「身長や体重の平均を出して東京の子ども達や全国の子ども達や、戦前の子供達と今の子供達を比べて、その成長の度合いを比べて見るんだって・・」

「むりむり・・そんな机に向かって座っているバイトなんて無理無理・・お前がすりゃいいじゃん・・」

「わたしがやりたいんだけど、ほら・・今、外せない習い事やってるし、もうすぐ昇段試験で休めないから・・」

「俺だって、今バイトやっているし」

「たった五日間よ・・」

「ねえお願い、お隣の家族同様のお姉さんから頼まれたのよ・・いい人がいるって言っちゃった・・隣のお姉さん、その学校の養護教諭なんだけど・・これまたいい人なのよ・・」

 なんか断り切れそうにない、この女は何たってもうすでに自分勝手な都合のいい状況をすでに作り出している。

「ああ・・分かった・・分かったよ・・やるよ」

「ありがとう・・じゃ授業の代弁手配しておくね・・」

 それからは、日時と学校の場所、お姉さん養護教諭の名前を聞いて電話を切った。

      *


初日、下町と呼ばれている門前仲町にある小学校に行くと、目のくりくりっとした二〇代半ばの養護教諭が待っていた。 午前中、全校児童千二百人のうちの低学年、児童数四百人の身体測定の結果を、ひたすら足し算して割り算して、係数をかけてと、電卓での計算ずくめの長い長い時間を過ごした。

 お姉さん養護教諭の先生が持ってきてくれた、学校給食は懐かしく、おいしくいただくことができた。

 昼休みをゆったり過ごしていると、校内を案内してくれるというので、若いショートカットの女性事務主事さんに着いて行くと、開校から戦争を乗り越え、すでに五十年以上を過ぎている校舎は、コンクリート三階建ての重厚な造りで、しかも大変有名な方の母校であることも分かった。 歴史ある小学校らしい。 しかし、この小学校も都心にあり、ご多分に漏れずその校庭は狭い。

「あの板の下は何ですか?」

 と見たままを質問すると。

「もうすぐあの板をはがすとプールが顔を出すわ」

 と都会ならではという合理的な答えが返ってきた。 都心の小学校らしく、プールに変わる校庭は板でふさがれ。 その他の校庭はコンクリートで埋められていた。

 昼休みという時間で、校舎内には廊下といわず、階段の踊り場といわず、子ども達があふれていた。 今も昔も各クラスには人気者の子がいて、おどけてはみんなを笑わせている。唐突に挨拶をしてくる子ども達は、珍しいものが大好きで、普段見慣れないヒロについて回ったり、ヒロに向けてウルトラマンのスペシューム光線をあびせたりする。 校内を歩き回るのもなかなか大変だった。

 三階建ての校舎の二階に行くと体育館があらわれて、さらに屋上に上がると、ドーム状に金網が張り巡らされた、ドッジボールとポートボール場があらわれた。 やはり狭い敷地をいっぱいいっぱいに使っているんだと感心させられる一方、地下はどうなっているのかという疑問が湧いてきた。

「地下には何があるんですか?」

「見たい?」

 ちょっと思わせぶりな返事がして・・地下に移動した。

「びっくりしないでよ」

 と言う言葉に誘われて、興味津々地下に続く階段の入り口に向かうと、立ち入り禁止という張り紙と共に鍵がかかった大きな一部錆び付いた鉄の扉があらわれた。 きしむ金属音と共に扉を開けると、冷たい空気が噴き出てきて、奥には薄暗い通路が奥まで続いていた。

「ここは、戦時中の防空壕の跡よ」

 何だか学校にはふさわしくない物を見たように思った。

「ちょっとだけ中に入ってもいいですか?」

「いいんじゃないかしら、別に何か大事なものがある訳じゃないし・・気をつけてね」

 目を閉じて一瞬瞑想に入った。 暗がりに目を合わせて、ゆっくり開けると。ゆっくりと薄汚れた階段を降りた。 入り口からの明かりを受けて、二メートル四方の地下道が奥に奥に続いているのが分かる。 壁伝いに四・五メートル進むと冷たい汗をかいている壁に触れた。 手のひらがひやっとした感触をとらえた。 薄暗闇に目が慣れてくると近くに影のようなものが見えて、左側に小部屋があるのが分かる、その先は全くの闇で何処までこの迷路が続いているのか分からない。 戻ろうとして壁伝いの手を離そうとした。 急に吸い付いたように手が動かなくなった。 と同時にふーっと息苦しさを感じた・・遠くからけたたましい声が聞こえてきた。

「空襲警報・・空襲警報・・防空壕に避難しなさい・・」

 サイレントと共に、沢山の子ども達が、声を押し殺して階段を下りてくる足音が聞こえる。不安な顔が続く。 小さい手で防空ずきんをしっかり押さえて、ヒロの脇を通り過ぎて防空壕の奥に走り込んでいく。 たくさんの足音と、急かして怒鳴る先生方の大声も聞こえてくる。 そして爆弾のすさまじい爆発が壁をゆるがし、地響きが爆音とともに続いて聞こえて体を震わせる。 外からは逃げまどう人々の狂ったような声が爆発と重なって、悲壮感が漂う冷たい空気が流れる。 ヒロはあわてて事務主事さんに助けを求めようとした。 すると間の抜けたような事務主事さんの声が爆発の隙間から聞こえてきた。

 ・・・・・・・・

「どうですか・・ここのことはよく分からないけど・・戦争中に作られたと聞いています」

 ふぅーっと我に返る。

「でも今は・・六年生が戦争の学習や東京大空襲の学習の時に開けたりするだけで、ほとんど使われていませんね・・」

 ヒロはゆっくり足を動かすと、張り付いた手がはがれた。 壕の外に出るとTシャツの胸が汗でじっとりと濡れていた。 二人の間をやせた四年生くらいの白ぽい服を着た女の子がすり抜けていった。

「この防空壕は何処まで続いているのですか」

「ここは、校舎の下を通って玄関あたりまで伸びていると聞いています」

「戦時中は何度もここに避難したのでしょうね」

「そうですね、ここには生徒だけでなく近所の方々も避難したって聞いています」

 ヒロはそこを離れると、事務室に帰るまで目の前を通り過ぎる子ども達を見た。

「戦争中と違って今の子は大きくなりましたね、午前中の保健の統計でよく分かりましたよ」 戦時中と比べて驚くほど栄養状態がいい。

「そんなに違うんですか?」

「ええ、平均で身長は2・3センチ位の違いなんですが、体重が5・6キロ違うんですよ」

「そんなに違うんですか・・今は食べ物が良いですものね」

「でも、さっき防空壕の扉の前を通り抜けていった子はやせていましたね・・」

「えっ、えっ・・誰もいませんでしたよ。 子ども達はあそこでは遊んではいけないことになっているから・・」

「ええっ、ほんとうですか・・」

 ヒロは何を見たのだろうか、ヒロはもう一度、壕の方をふり返った、冷たい風を頬に感じた。

 戦争という国家の犯した過ちで、なぜ子ども達は逃げまどわなければならなかったのか?そして街が消失し破壊され、楽しいはずの学校生活が破綻した。 国家はもっとも弱い子ども達や市民生活の自由や権利を奪い、誤った妄想に突き進んだ。 国家の時の権力者は権力が正当化していくほど暴力化し、さらには自分たちの考えを神格化していく。

 そんな中でもごく少数の異なる考えの持ち主達によって、歴史の光明は灯火のごとく揺らめき続けた。この防空壕でも、子ども達の命は守られた。子ども達はもっと自由でもっと遊べていつも明るい顔が欲しかったのだろう。

 防空壕の上に建つ連綿と続く物言わぬ校舎は、今学校で暮らす子ども達の健康や安全や平和を、もう見えなくなった地下の隠された場所によって支えてきた。

 ・・そんな考えを巡らせていると、また壕の入り口に立った時のように、すーっと冷たい風がどこからともなく吹いてきた。

 今、壕に続く数段の階段と歴史を分断する鉄の扉は、あの時の暗い時代と今をつなぐ開口部として、当時の子ども達が叫びたかった声を放っている。

 午後、ヒロは一層統計のバイトに熱が入った。 しかし地下の光景はなかなか吹っ切れるものではなかった。

 統計作業に没すると頭と指先が数分、数字の幻惑におそわれた。 バイトの帰り際に玄関の脇にある用務員室に挨拶すると、中に四十歳くらいのおじさんが六法全書を開いて座っていた。

「あっ・・あのー・・今日から保健のバイトに来ている者です。 よろしくお願いします」

 おじさんは六法全書から顔上げて。

「ああ・・ご苦労さん。学生さん?」

「はい」

「どこの大学?」

「C大学です」

「なんだ、僕の後輩じゃないか・・学部は?」

「はあ・・経済学部です」

「僕は法学部でね」

 遠くを見るような懐かしそうな顔して。

「××先生・・今は教授かな、彼はまだ元気に講義していますか?」

「はい・・お名前は伺っております・・」

「・・・・」

「それでは、失礼します・・」

 正門を出ると、一緒にいた養護教諭の先生に。

「さっきの方は用務員さんですか?」

「違うわよ・・彼は今から朝方までが勤務のガードマンの方よ」

「六法全書なんか見て、趣味なんですかねー」

「私も聞いた話だけど、彼は毎年司法試験を受験しているんだって・・だから勉強できる環境を確保する仕事を考えて・・それで夜、勉強と仕事が両立できる今の職に就かれたそうよ」

「でも・・かなりのお年じゃないですか」

「わたしは、お年は分からないけど・・弁護士や検事って、とても魅力があるんでしょうね」

「はい・・僕の大学では、司法試験希望者は、朝から晩まで、授業と図書館学習を判で押したように規則正しい生活をしながら、毎日頑張っている人たちがいますよ・・でも、卒業してからもあのような生活をしているとは・・なんか感動しましたよ・・えらい人を見たような気がします」

「私も、彼よりずっと若くて、あなたに近い年齢だったけど、彼を見たときには、疑問を持つよりも感動したって言う方が当たっているわね・・そして、その規則正しい生活が三百六十五日毎日でしょう、もう尊敬の域に入っているわよ」

「世の中にはすごい人がいるものですね」

 ヒロは小学校でのバイト初日から、びっくりするようなことばかりで、学校なんかにこんな不思議なものがあったのかと思うと、それまで持っていた学校のイメージが変わった気がした。

 その晩、アパートに帰ってベッドにはいると、ガードマンのおじさんの顔が浮かんできて、就職と夢、食べていかなければならない不安と焦り・・などが次々に浮かんでは消えて、今の自分とあまりかけ離れていない生活をしていることをどんな思いで受け止めればいいのだろうか、未来の自分のことのように思えて、まぶたの裏に見える不安に、遅くまで眠れなかった。

 その後数日は、児童数約千二百人の身体測定の結果を、ひたすら足し算して割り算して、係数をかけてと電卓での計算ずくめの長い長い時間を過ごした。

 昼休みは、事務室で他の方々と学校のいろいろなお話を伺った。 そして学校のもつ独特の雰囲気を知った。 子ども達や親御さんが話題になったり、学校で働いている方々の子どもに対する使命感や愛情を話しの端々に感じることができた。

 バイト三日目の昼休み、事務室に二年生の子の若い母親が訪ねてきた、書類の提出らしかったが、少し横柄な態度のお母さんだった。 すみの方で会話を聞いていると、保護家庭のために公的に支給されているお金を受け取るための書類の作成に来たらしい。

「ちょっと、この書類分からないんだけど」

「あっ、どこですか」

 事務長さんが丁寧に応えるが。

「この所よ・・なんて書いたらいいのよ・・担任に電話しても分からないし」

「あああ・・ここですね・・ご家族の人数は何人かですから」

「そうじゃないのよ・・家に住んでいるのは、前の夫と今の夫と、分かれた夫の方が引き取るはずだった上の息子と」

 かなり複雑なようだが、前の夫と今の夫と同居できるんだろうか・・はたと疑問が湧いてくる。こんなヒロでも分かるような疑問に対して事務長さんは語気を荒げることも無く、丁寧に根気よく説明をしていた。

 お母さんの方は、書類の不備や、認識不足、常識外の理由などで、大声になったり興奮したりで一悶着あったが、今日はどうにもならないことだけが分かって帰って行った。

 いつまでもごねる母親に対して、その行為をとがめることもなく、いつまでも正しい説明を細かく行う事務長さんに感心させられた。

 お母さんがいなくなってから事務主事のお姉さんが。

「事務長さん・・あのお母さん、保護家庭なのにベンツを乗っているんですよ。どういうことですか?」

「彼らは子どもに寄生して、国を利用して自己責任を転嫁して金をせしめる詐欺師ですよ、許されるものではありません」

「ベンツだ、BMWだという、彼らの今の生活がいつまでも続くわけがありません・・いつか必ず働いて収入を得なければならないときがきます、その時、さらに大きな詐欺とか恐喝をして強烈なしっぺ返しをくらいますよ・・あのたぐいの連中は、その時まで分からない輩でしょう」

「しかし、かわいそうなのはその親に育てられる子ども達ですよ。わたしはいつも、あんな親でも、いつも子ども達の前では笑顔で明るく、その場限りの正直でいいから、強く生きて欲しい願っているんですよ」

 一気にまくし立てた事務長さんの話は、拍手したくなるほどすてきな話だった。

 午後は、児童数約千二百人の統計の結果をグラフ化する作業だった。 その日には仕上げることができずに、六法全書のガードマンに挨拶をして帰った。

 次の日、昼休み事務室で話していると、三・四年生くらいの女の子が勢いよく扉を開けて入ってきた、半泣きの状況だった。 後を追うように担任が数名の女子児童と一緒にが入ってきた。 担任は事務長さんに。

「いつもすみません・・ちょっと置いてもらえますか・・」

「けいこちゃん、今日も喉が痛いのかな?」

 女の子はこっくりとうなずいた・・先生についてきた周りの子ども達は、けいこちゃんが本当のことを言っているのかどうか、疑いの目をまんまるにして見つめている。 その中でもけいこちゃんの味方の子が。

「先生、喉が痛いっていっているから、おばあちゃんに電話して・・」

 担任の先生は、電話を手にとると名簿を開いて電話しはじめた。

「けいこちゃんのおばあちゃんですか・・学校です。けいこちゃんがまた喉が痛いらしくて、今、事務室の方で休んでいます。迎えに来ることができますか?」

「あーはい・・それで・・じゃ、よろしくお願いします・・」

 取り巻きの女の子達と担任の先生が帰って、ちょっとしたら、さっきのけいこちゃんの唯一の理解者らしい子が、けいこちゃんの鞄と手提げ袋を持ってあらわれた。 そしてけいこちゃんに渡しながら。

「けいこちゃん明日もおいでよ・・明日は給食、カレーだよ」

 けいこちゃんは、この言葉を頷きながらにこっと笑った。

「じゃっ、明日も来てね」

 二人は小さな声で頷き合っていた。

 しばらくするとけいこちゃんのおばあちゃんが来た。

「いつもお世話になっています・・ほら、けいこ帰ろう。今日は早いから・・おやつ用意できなかったから、無しだよ・・」

「分かった・・分かった」

 けいこちゃんは、おばあちゃんより先に率先して出口に向かった。



         この苦しみ、どこではらせば 


 そんな昼休みが終わって、今日は夕方から統計が終わったことと、バイトご苦労さんを祝って、事務室のメンバーで、お別れ会と統計完成会を開くことになった。

 会場は最寄り駅の近くの居酒屋で、下町風の古い建物の年季の入った店だった。

 事務長さんの乾杯で、冷えたビールのグラスを合わせた。 養護教諭さんから感謝の言葉をいただいた。 そして養護教諭さんが。

「君って教職とっているんだって、教員を目ざしているの」

「いえいえ、たまたま大学で取れる免許は取っておこうと思って、まだ就職については何も考えてないのが本当のところです」

 すると事務長さんが。

「最近の教員は、なかなか大変だよ・・うちの学校の先生方を見ていると、つくづくそう思うね」

 飲み会も進んで、話が盛り上がってきて、お酒が五体にしみ込みはじめた頃、事務長さんが、ビールを飲み干すと、昼のけいこちゃんのことを話し出した。

「あの子はかわいそうな子なんだよ・・両親が二年くらい前に離婚しているんだ」

 すると事務主事のお姉さんが。

「何か複雑だって聞きましたけど・・どういうことなんですか・・」

 離婚してどちらかの親に育てられていることなんかはよくある話だと思っていた。 事務長は、イカの塩辛を箸でつまんで一口ほおばると、また話し始めた。サンマの塩焼きをつまんでいたヒロは、彼の話が恐るべき方向へ進んでいくので、さんまをつまんだままの状態で、彼の顔に釘付けになった。

「離婚後に、お母さんに引き取られて、祖父母と一緒に暮らすようになったんだ。 だけど、去年お母さんが癌で亡くなって、何の因果かその一週間後、祖父が心不全で亡くなって、あっという間に祖母と二人きりになってしまった分けさ・・だからその時から親権は、今、おばあちゃんになっているんだ」

 ヒロはショックで、あのけいこちゃんの顔からそんなことがあるなんて想像できずいた。

「あっという間の出来事で、あの子の笑顔が毎日、毎日消えていってしまって、みるみる暗くなっていくのが分かったよ・・僕はそんな、日に日に変わっていくけいこちゃんを見るのがとても辛かったよ・・」

「そして、こんな心の傷を九歳の女の子が克服できようか。簡単な家庭環境じゃなかったし、時間が解決するようなものでもなかったよ・・これだけは周りがどうにかしてあげたくてもできるもんじゃないしな・・」

 ヒロは、昼のけいこちゃんの、あの時のトラブルは単なる子ども同士のふざけ合いか、言い合いの結果であると思っていただけに、その背景の深さに心が辛くなる一方だった。

 時間が解決するって言う言葉は、何にでも当てはまるものと思っていたけど、時間がたてばたつほどこの問題は解決できなくなる。

 ヒロは、ビールを一気に飲むと。

「おばあちゃんって何歳なんですか? ・・けいこちゃんが大人になるまで・・いや仕事について独り立ちできるまで元気でいられる年齢なんですか?」

「おばあちゃんは、今年六十七歳で、あと十年頑張って七十七歳だよ・・」

 ヒロは七十七歳という年齢が、まだ誰かを支えていける年齢なのだろうかどうか分からなかった。 ヒロの祖母は、確か七十八歳くらいで、年金をもらって家族の中で自由気ままに、好き勝手なことをやって暮らしている。 いつも大学生になったヒロを、まだ十歳くらいにしか思っていない。 思わず自分の祖母と比べてしまった。

 さらに事務長は続けて。

「不幸っていうのは徒党を組んで束になってやってくるもんだ。 まだこの不幸の終着点は見いだせないんだ・・」

「去年、離婚したお父さんが、けいこちゃんを引き取ろうと言い出したんだ・・そこでおばあちゃんと形ばかりの民事の裁判を始めたんだけど、何回目かの面会で・・けいこちゃんが学校を渋りがちだと分かったとたんに、お父さんは主張を翻したのさ・・・・けいこちゃんは、母と死別し、孤立感が強いところで祖父を失って、得体の知れない悪魔に取り囲まれたような気持ちになったんだろうな・・そして、最近では、本当のお父さんの「ひきとる」という言葉に一瞬の光を見い出したのだけれども・・それもつかの間「ひきとらない」という逆なでするような冷たい言葉で、あっという間に奈落の底の底へ落ちていったんだよ・・・・裏切られたような・・人間不信、人生不信、生きることへの絶望・・未来という言葉の不毛さ、なんて言ったらいいのか・・僕にはたとえるべき言葉がない・・・・」

 事務長さんの話は一気にそこにいるみんなの心を、どうしようもない無力なものへと変えてしまった。 ヒロはけいこちゃんのお父さんに、無性に腹が立った、一度は希望を持たせておきながら勝手に絶望に陥れるなんて。

 それにお父さんの言葉を聞いた時には、けいこちゃんは絶望の淵にいて何かにすがりたいと思っている時で・・・・お父さんの行為は、おぼれている人を、なお水の中に沈めるような行為にしか考えられず、言いしれぬ強い怒りを感じた。

 それからは、ヒロはすごく饒舌になり、ビールをがぶがぶ飲んで、不満のありったけをぶちまけて、みんなに同意を求めながら、飲めば飲むほど頭がさえて、最後は何も分からなくなって大泣きしていた。乱れた夜だったし乱れたい夜だった。

 偶然の出会いだったかも知れない。 けいこちゃんのような人はたまたま何万分の一人かもしれない。 でもヒロはそんな境遇の人に出会ったのだ。 人類の千人分の不幸を一人で背負っているような人に。 どうすればこんな不幸を背負わなければならないのだろうかと疑問が湧いてくるほどの不幸。 ヒロはいるかも知れない神の理不尽さを呪いながら、世界の、世の中の、人の世の不思議を感じた。

 その後、何回か養護教諭の先生から電話があって、お礼と、事務長さんがヒロ君を大変気に入っているから、また会があったら参加してほしいというお誘いであった。

 その時に、養護教諭の先生が事務長さんの話していたことを伝えてくれた。

「不幸っていうのは徒党を組んで束になってやってくるもので、まだこの不幸の終着点は見いだせないんだ・・・」

 と言う言葉が現実のこととなったいう話だった。おばあちゃんに癌が見つかったと言うことだった。幸い高年齢なので癌の進行はゆっくりだと言うことだった。

ヒロは、バケツで水を頭からかけられたようなショックを感じた。一気にけいこちゃんは九歳にして、一人でこの世の中を生きていかなければならない。 たぶんどうしていいのか分からないのだろう。 おばあちゃんの命があるうちに光を見出さなければ。おばあちゃんの命の時間が、けいこちゃんの未来を拓く時間だ。

 それでも、今の自分の年齢であれば、彼女のような境遇になったとしても、どうにか生きていくことができるだろう。 それもこれも、この年まで少ないとはいえ人生の経験を積み、頼れる親戚や信頼できる友人がいるからだろうが、限りなく心細く自信が無いのが本当のところだ。

 戦時中であれば、孤児や遺児が多く出たが、取り巻く世界もみんな不幸だった、そして同じような不幸を背負った人間が周りに沢山いた。 そんな中だからこそ自分だけが不幸とは思えない現実があったし、これから強く生きようとする気概も湧いてきただろう。

 そして、その境遇は、戦争が多くを人や社会を巻き込んだ結果だった。 けいこちゃんは今の時代だから不幸と呼ばれる境遇にいる、でも今を生きるけいこちゃんには、別の不幸が覆い被さっている。 過去の時代とは違う。救いたいと周りが全力を結集したら救える機会があったはずだ・・。 だからはやく自分で自分を決められるけいこちゃんになってほしい。

 無垢なけいこちゃんや、この家族は、前世でどんな悪いことをしたのだろうか、どんなに神の嫌がることをしたのだろうか(呪われている)とは、このようなことを指していうものだろうか。 思わず人間の世ではない、前世や神のことを考えてしまっていた。

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