第5話
マンションの部屋に戻ってから、私はメモ用紙を一枚、取り出した。鞄の中にいつも入れているボールペンで文字を書きこんでいき、しばらく考えてからくしゃくしゃにして捨てる。一応、朝比奈さんと話し合いができるかだけ試そうと考えた私だったが、すぐに後悔することとなった。
玄関の鍵が開いた音がしたのは、私が帰ってきてから本当に間もなくだった。リビングに向かって歩いてくる音を緊張をしながら聞いていると扉が開き、その人が現れる。そして、私を認識した瞬間、その表情は凍った。
「何故まだここに」
「……」
「僕の視界に入らないように配慮してくれないかな? あなたを見たくないんだ」
「……それは、大変申し訳ありませんでした。ですので、少しだけ話し合いを致しませんか?」
「話し合い、と?」
「はい。もし私とこれ以上の会話がお嫌でしたら、私はすぐに部屋に引っ込みます。代わりに、私は朝比奈様に聞きたいことを紙に書いてこのテーブルに置いておきます。紙はもちろん、私が買ったものですし、ボールペンも私が用意します。私が触ったものすら嫌だとおっしゃるのでしたらウェットティッシュなどをそばに置き、お使いになる前に一度拭いていただいても構いません」
「はっ、僕とあなたが対等に渡り合えるとでも?」
「そうは申し上げておりません。ですが、話を詰めなければこうして不快な思いをこれからもされるご覚悟だけ、お持ちいただかないといけません」
「なるほど。では、紙に書いてで実行しようか。もちろん、先程あなたが言った通り、全てを綺麗にし、僕自身も綺麗にできるよう準備を整えてからだ」
「わかりました。では、失礼いたします」
頭を下げて、そのまま居心地の悪い部屋に戻っていく。
……今日も、ゆっくりと眠れそうにないな……。
そう思いながら、私は彼が寝静まったであろう時間まで耐え、シャワーだけを借りてさっさとお風呂を済ませたのだった。
**
幸せとは、唐突に壊れゆくもので、自分で必死に掴んでいたと思っていても、それはまるで水のように勝手に手から、指の間からするりと抜けて、逃げ出してしまうものなのだ。
だからこそ、幸せを感じる瞬間というのは、これ以上無い時間なのだと、幼い頃、私は強制的に自覚させられたのだ。
**
出勤に間に合うように起き上がっても、私はすぐに動くことはできない。私よりもなお早く家を出ていく朝比奈さんが玄関の扉の鍵をしっかりとかけた音を聞いてから、私はようやく、この牢獄から抜け出すことができるのだ。
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