遠本涼一郎

第十話

「あのさ、ちょっと、大変なんだけど」

 机に突っ伏して仮眠の最中に、何度も肩を叩かれ揺すられして、たまらず俺は顔を上げた。

「なに、けいちゃん」

「ちょっとさ、さっき英語の時間に聞いたんだけどさ。江崎君がめちゃめちゃ意味深なこと言ってて」

 額に走っていた苛立ちが四散した。

「何、なんて言ってたんだ?」


「啓太君にはごめんだけど、僕、彼女作れるかもしれないって」


 身構えていた身体が、かくん、と斜め前に倒れかけた。

「え、なんだそれ。そんなことか?」

「いや、それがね、何やら、その女性の言いつけを守ったら、その女性は付き合ってやってもいいとか、好きにしてもらっていいとか言ってるんだって」

「はぁ」

 ひらりとかわされ、肩透かしを食らった気分だった。

「で、なんか昨日、真砂のじいちゃんが四時半ぐらいに、江崎君ちの裏山らへんでキノコ探してたらしいんだけど、その時に江崎君とこの辺りで見慣れない女子が話してたのを見たらしい」

「ふーん、あそこのじいちゃんで知らねえのか……。確か、江崎家のこと嫌いだったよな?」


「そうそう、それで、なんか、最近周辺で、とても眠れないくらいの“奇声”がするっていう話を受けてたらしい」


 肩を透かされ、脱力していた身体が一気に強張った。

「おい、もうあれしかねーじゃねーかよ」

「そうなんだよ」

「なんだ、ひょっとしてその女が関わってる、とかっていう可能性ないのか?」

「……分からない」

 けいちゃんが一度、俺から目を逸らしたのを見逃さなかった。

「なんだ、なんかあるのか?」

「いや、何も無いよ」

 どこか芝居じみた口調。


「なんかあるなら、話せよ」


 けいちゃんは、目を逸らしたまま一歩後ずさった。方向を変えようとした時、磁石が引っ付くように俺とけいちゃんの目が合う。

「……分かった。隠してもしょうがないもんね」

 ふふ、と薄い笑みを浮かべて、けいちゃんは言った。

「また、図書室でね」




 憑き物が落ちたような顔で、けいちゃんは返却手続きをスピーディーに進めていた。

「綾辻由梨乃ねえ……。まあ、そいつが関わっている可能性は、無きにしも非ずって感じか……。そもそも、そんな方に住んでいる人がこんなとこに来る用事無いしな」

「天然王子はリョウなんじゃないの? そんな、こっちの傷口に塩を塗るみたいなことして」

「あ、すまん」

 そんなことを言いながらも、けいちゃんはルービックキューブを超速で並び替えるかのごとく、返却された本を整理していく。

「でも、気になるんだろ?」

「うん、そりゃね……」

 沈黙が、剥がれた天井から降ってきた。


 ピーンポーンパーンポーン


 その沈黙を破ったものとは、給食開始のチャイムだった。

 俺たちは、唾液を一つ飲み込んで、教室に向かった。




 俺は、胸中で炭酸がはじけるような、むしゃくしゃした感じを押し殺しながら駐輪場へ向かっていた。

 卓球で、反応できるはずのものに反応できない。勝てていたはずの一年に勝てない。頭の中には、ふわふわと違うことが、持ち主を失った風船みたいに漂っていたのだ。


 リュックサックを玄関に放ってすぐ、俺は坂を上へと登りだした。

 イヤホンを両耳にぐいと押し込み、大音量で、五左衛門に勧められたアイドルグループの音程外れな曲を流す。

 白壁の平屋がだんだん大きくなってきた時だった。


 ククッ、ククッ、ククッ


 何かが頭の中で再生されたのか、それとも曲の一部なのか。

 と、いきなり、女たちの声がプツリと聞こえなくなった。

 大きな舌打ちを二度三度しながら、俺はイヤホンを外す。


 ククッ、クククククッ


 それほど大きくはない。

 が、しかし、確かに、タイちゃんの声のような、カビが生えそうなほどのじめじめした声。そこに、マイクのハウリングのような高さが混じった、粘着力の強い音だ。

 俺はすぐさま走った。地面を蹴る音も構わずに。


「……マジかよ」


 裏口の手前の植木鉢には、身長百六十八センチの俺の胸ほどの花が、刺さっていた。

 茎はまだ赤っぽく、前回見たものよりもより強く、うにょうにょうにょうにょ細かく曲がりくねっている。

 花も、“顔”の部分はまだ種と認識できるようにはなっていない。花弁に関しては、深緑のような色だった。


「二本目か……」


 しかし、この花は、あの声以外に、何のアクションも起こしてはいない。

「……」

 一歩、右足を前に出してみる。

 花は動かない。

 左足も、前に出してみる。

 花は、動かない。


 しばし、俺は考えを張り巡らせる。

 一本目がどうなったかはともかく、二本目はもっと強烈なことを起こしてしまう、という可能性は無いものだろうか。

 ならば、連鎖は早いうちに断ち切る方がいいに決まってる。


 もう一歩、今度は大きめに右足を前に出した。手を伸ばせば、細かい毛がたくさん生えている茎に手が届く。

 俺は、大きく息を吸って、そのまま肺の動きを止めた。

 ゆっくりと、細やかに震える右手を茎に伸ばして……。


「何してるのぉ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る