第十話

 神経を走り回っている電気信号が、時が止まったようにピタリと動きを止める。

 何か、不吉だ。しかし、一体何が原因で身体がそんな反応を起こしたのかが分からない。

「……それ、誰の情報?」

「なんか、山に入ってたじいちゃんが言ってた」

 真砂の祖父と言えば、仲間数人と、林業と山菜狩りを行っている人で、この辺りのことは熟知している。

「最近さ、時々夜に、とんでもない奇声というかなんというか、そういうのが聞こえるんだってさ。それで、ちょっとキノコを探すついでにそっち行ってみたらしくて。そしたら、見たことの無い、中学っぽい女子と江崎大河が話してたんだとよ」

 僕は、奇声という語句に、背中がさざ波を打つのを感じた。

「真砂のじいちゃんでも知らないの?」

「そう。見たこと無いらしいぜ」


「ひょっとして、ひょっとしてなんだけど、江崎君ちに、花とか植えてなかった?」


「花ぁ? 知らねー。じいちゃんは言ってなかったな」

「そう。なら良いんだけど」

 真砂は、僕の顔を覗き込んで、少し上からな笑みを浮かべた。

「おいおい、どうすんだよ。自分に告ったやつが、別の人見つけてるんだぞ。しかも、ゲイだと思ってたらちゃんと女子だし」

「まあ、誰を愛そうとも勝手だしね。正直、やっぱ僕は一応彼女いるから、付き合う気は無いし」

 それを口にして、再び脳に稲妻が走り、二つの電気コードが一気につながった。


「……やっちゃん?」


 昨日、確かにやっちゃんは、江崎宅がある坂の上の方から降りてきて、そこで出会った。

「どうした? 急に彼女の名前呟いて」

「ちょっと、真砂のじいちゃんが、山に入っててそれを見たのって、大体何時くらい?」

「んー、確か、四時半とか、そんぐらいじゃねーかな」

 初めて、自分の天然さを思い知った。

 会った時、察しておくべきだった。やっちゃんは、江崎君と話していたのではないか?

 だが、やっちゃんと江崎君が繋がる理由が分からない。それならば、やはりやっちゃんは別の用事をこなしていたのではないか。

「おいおい、どうした荒尾。なんだ、急にそんな考え込んで」

「え、あーごめん、何でもない」

「なんかあったら言えよ」

 真砂は、ポンと肩を叩いて、去っていった。




「おはよう、リョウ」

「おう、けいちゃん。珍しいな、そっちからなんて」

 いつからか、リョウも僕のことを「けいちゃん」と呼ぶようになっていた。

「ちょっとさ、昨日……」

 そこまで言ったところで、僕は開いた口をふと閉じた。

「いや、やっぱいいや」

「は? なんだよ、そこまで言ったら気になるじゃねーかよ」

「ごめん、やっぱなんも無かった」

「ホントかよ」

 そもそもリョウは、やっちゃんを知らないし、言ったところでそれがどう繋がってくるのか全く分からない。そもそも、やっちゃんが江崎君と関わっていることも確定しているわけではないのだ。

「なんだ、なんかあったなら言えよ」

「いや、ごめん、ホントに何も」

「……まあ、いいけど。何でもかんでも言わなくてもな」

 そう言いながらも、リョウはぷいと口を尖らせた。




「チェックインペアープリーズ」

 どこか日本語らしさの残る、たどたどしい言い方で北井が言った。

 聞こえてくるのは、日本語の馬鹿話ばかり。

「ごめん、ちょっと、江崎君いい?」

「んん?」

 江崎君は不思議そうな顔をして答えた。


「……僕さ、その、彼女って、知ってる?」


 額がじわりと温まるのを感じた。

「ええぇ? 綾辻由梨乃って人ぉ?」

 訝しげな表情で、江崎君は一発で正解を言い当てた。

「まあ、そうなんだけど。顔とか、どこに住んでるかって、知ってたりするの?」

「なぁんで、そんなこと訊くのぉ?」

 口の中で舌がグルリと空回りした。

「え、えーっと、まあ、一応」

「なにそれぇ。まあ、良いけどぉ」

 引き締まっていた肩の筋肉がほぐれた。


「知らなぁーい」


 胸の表面にしわが寄った。

「そうか。ホントなんだよね?」

「だってぇ、違う学校の人なんでしょぉ?」

 みんながそれぞれ席に座るのに合わせて、江崎君も座った。

「まあ、そうなんだけど……。まあ、そうだよね」

 江崎君のその声は、いつも通りの呆けたような独特のイントネーションで、嘘を含む余地はとてもないと思えた。

「荒尾啓太君。very muchの最上級は何?」

 と、突然北井の声が耳に入り、僕は慌てて教科書を開いた。

「え、なんて言いましたっけ。マッチョ?」

 プッ、と吹き出す音がどこかから聞こえた。

「あ、ごめんそうじゃなくって、very muchの最上級」

「え、あー、えっと、bestです」

「うん、正解です」

 黒板に、カリカリと削り取られたチョークのアルファベットは、酷く歪んで見えた。

 それは、イコール僕の不安をそのまま写している気がして、僕はシャープペンシルを英語ノートに走らせた。

 僕の書いたエムはエヌに見え、ユーはエーに見えた。

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