第三話

 一時間ほどが経過し、江崎宅を再訪してみると、江崎君の、灰に塗れた自転車が停めてあった。

 インターホンを押すと、江崎君は、突き出た前歯の歯茎が見えるほどの笑顔で出てきた。

「どうしたのぉ、啓太君?」

 頭にすぐに、気の利いたセリフが浮かび上がらない。

 少しだけ、木々の間を吹き抜ける風の音を聞く間が出来た。それから、僕は言った。

「今日のことなんだけど」

「うん」


「あれが、僕と交際したいっていう申し込みなら、僕はうんとは言えない」


「……なんで?」

 今度は、先程よりも荒々しく、唇が捲れあがってしまうほどに歯茎を見せた。だが、目には赤いグラグラが垣間見えた。

「なんで、オラとじゃあダメなの?」

 ご立腹のニホンザルに眼鏡を掛けさせたようだった。

 僕は、少し彼との距離を取る。

 江崎君は、それを見て、今すぐ飛び掛かってきそうなほどにこちらを睨む。額には、青白い血管が浮き上がり、目には赤い血管が走っている。

「僕には……」

 僕は、鉛のように重い脚に最大限の力を入れた。


「付き合っている、彼女がいるんだ」


 目と脚に全神経を集中させる。が、江崎君は睨んでいた目をジワジワ、大きく見開いた。顎の筋肉がムクムクと大きくなり、頬がピリピリと震える。

「その彼女と、別れることは出来ないの?」

「残念ながら、僕は彼女とそれなりに仲がいいし」

「……そうか」

 江崎君の身体の震えが止んだ。血走った目からは、表面張力の限界に達した涙が溢れた。

「じゃあ、いいよ」

 足元の草を脚でグリグリと磨り潰すようにしながら、彼は玄関へ戻ってゆく。


「オラは、絶対に啓太君と付き合うしかないからぁ」


 そのまま、ゆっくりと閉まっていくドアの内側に消えていった。んああっ、という怒声と共に、二つの鍵を捻る音が波動になって僕に届いた。




 太陽が地球を飲み込んできたかのように真っ赤な空に、やっちゃんと会話しているスマホの画面を投影しながら、僕は自宅を目指していた。

 ふと、江崎君の家を振り返ってみた。

 少し掠れてきた白壁の平屋は、真っ赤な空の暗い影に呑まれようとしている。

「え」

 もう一度、前を向いて、先を急ごうとしたところだった。


「……あれは、伏見君?」


 小さめの身長で、黒いパーカーを着た男子が、あっちへよろよろ、こっちへよろよろとおぼつかない足取りで、江崎宅へ向かっている。

 彼は、肥後五左衛門の取り巻きの一人だった。

 酒でも飲んで、江崎君に嫌がらせをしに行っているのかと考えたが、最近、肥後は学校に来ていない。

 ならば、ナンバーツーである圭田か、とも考えたが、それにしても単体で、あれほど堂々と歩くだろうか。

 伏見君は、よろよろしながら江崎宅の塀のうちへ消えていった。

 刹那。


 ク、クク


 蝉か蛙か何かの声だと思った。

 しかし、どうにも様相が違う。


 ク、ククククク、ククククククク


 ぬめっとして、それでいて不気味に、真っ黒い山々に響き渡る甲高い声。

「笑ってる?」

 胸のうちの潮騒を打ち消したくて、僕は言った。

 声は、すぅっと地面へ落ちてった。


 ククク、キ、キャハ、キャハ


 声の様子が変わった。

 ますます高くなり、耳がキンキン掻き乱される。


 キャッハッハ、キャハ、キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ


 マイクのハウリング音のような気持ち悪さに、僕は思わず耳を押さえてうずくまった。胃が揺さぶられ、食道にものが登ってくるのを感じる。


 キャッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ


 咳に交じって、ドロドロしたものが、赤くなってきた草木の葉にかかった。


「……あれ?」


 だが、その時には、笑い声は既に聞こえなかった。

 カラスが呑気に鳴きながら寝床へ帰っていくシルエットが、僕の視界をゆっくり横切ってゆく。

「何だったんだ、今の……ゴホッ」

 もう一度床に落ちた嘔吐物が、僕に先程の現実を突きつけた。




 帰ると、早速、やっちゃんからのメッセージが届いていた。

『けいちゃん、ちょい協力しれ?』

 僕は、ペットボトルの水を一気に飲んで消化器官をすっきりさせてから、返信を打ち返した。

『何?』

 既読はすぐだった。

『勉強教えれ?』

『勉強? いいけど』

『なら、明日帰ったら、私の家の近くの公民館ば来らるうと?』

『分かった、行けるよ』

『ばってん、ありがとう』

 僕は、ふと欲の魔が差して、こう打ち込んだ。

『やっちゃんの家じゃダメなの?』

『うん、ごめんばい』

『いや、いいよ。じゃあ、もう一個だけいい?』

 欲の魔は、止まらない。


『勉強教えたら、やっちゃんの本名、教えてくれる?』


 二十秒ほど、間が開いた。僕は、今か今かと指に力が入る。

『よか』

『ありがとう。じゃ、明日ね』

『うん』


 やっちゃんの家は、家族がいるからダメ、ということなのだろうか。それとも、何か見せたくないものでもあるのだろうか。

 そもそも、やっちゃんはなぜ、本名を明かそうとしないのだろうか。僕は明かしているというのに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る