第二話

「啓太君……話があるんだけどぉ……ズズズッ」

 随分前に突き出た二本の歯が、僕の目の前で上下する。


 今日は頭がまだ眠っているのか、全く授業の内容が頭に入ってこず、問題の解答もかすりもしない。そんな、経験したことも無いような状況で、僕は、友人に貸してもらった、中学向けの「デキアイモノ」というジャンルの恋愛漫画を読んでいた。


 昼休みの終わりまで、また、授業開始までの五分前をチャイムが告げ、図書委員である僕はパソコンの電源を落として、カウンターを片付け、教室へ戻ろうとしていた。

 そんな時。


「ブワクション! ブワクション! ブワクション!」


 挨拶代わりの、風邪を引いたおっさん並のクシャミをしてから、のしのしと、江崎君が図書室へ入ってきたのは。

「どうしたの? もうカウンター閉まっちゃうけど。てか、閉めたけど」

「いやぁ……本はいいんだけど、ちょっと言いたいことがあってぇ」

 若干掠れつつも、じめっと湿った声がそう言った。

「はあ」

 胸に不信感がくすぶりつつも、僕は彼と向き合った。

「僕と……ッ、ハッ、ハァッ」

「ちょっと、クシャミはこっち向いてしないで。汚いから」

 汚いから、は無かっただろうか。心苦しく思っていたところで、それを一気に吹き飛ばす盛大なくしゃみが飛んだ。

「えっと、その、お、オラと……」

 江崎君は小便を辛抱しているように、モジモジと身体を小さくくねらせる。


「つ、つ、付き合ってくだしゃい!」


 こちらが聞き取れるかのギリギリのラインでそう言い切り、バッ、と床に伏した。

「ちょ、図書室で土下座はしないでほしいんだけど……」

「あ、すみません……」

「えっと、僕は」


 ピーンポーンパーンポーン


「マズい」

 僕はカウンターを飛び出て、腕が膨れるほど必死に、教室までの百メートルを走った。

「あーら、荒尾さん、珍しいわね……」

 五線譜を描いた黒板の前で、音楽教師で副担任、三原一花みはらいちかがこちらを見つめた。

「すみません」

「まあ、普段してないからと言っても、アウトはアウト、減点一ね。はい、で、この曲の中間部分でこんなのが出てくるんだけど……」

 張りのありながらも、刺激するとすぐ破裂しそうな声で、三原先生が喋り続ける中、僕はなるべく音をたてないように神経を尖らせて、授業の準備をした。


 江崎君は、僕が教室に着いて三分後くらいに、忙しなく瞬きをしながら帰ってきた。




「はあ?! 江崎大河に告白されただと?!」


 徹矢が鬼の形相でこちらに唾を掛けてきたのは、終礼後のトイレでのことだった。

「いや、あれを告白っていうのか知らないけど……」

「いや、それを告白っていうんだよこの天然が!」

 僕には、目を血走らせ、息を切らしながらまくしたてる徹矢が、どこか滑稽に見えた。


「そもそも、あいつゲイだったってわけか?」


「ゲイって……あれか、同性愛者」

「そうだ、まだあいつ、そんなどえらい一面持ってたとはな」

「別に、同性愛は悪でも何でもないじゃない? 好きな人は好きな人なんだから」

「いや、だから、お前はなんでそんな間抜けな……いや、俺も、それ自体は悪くないとは思うが、日本の学生社会では十分にいじめの要因になるぞ」

「生きづらい世間だねー、やっぱり」

「だから、そんな呑気に言ってる場合じゃないって。どーすんだよ、それ」

 なぜ徹矢がそれほどまでにアワアワと身体を動かしているのか、僕にはさっぱり理解の及ばなかった。

「どうするって、どうすればいいの?」

「だーかーら、江崎大河と付き合うのかって話」

「どうって、まあ普通に」

「彼女に引かれてもいいのか?」

「引かれることあるの?」

「あるわ。そりゃあ、あるわ。今、お前はその彼女と交際しているのに、もう一人の、しかも男子と交際するなんてことしたら、彼女は絶対にお前から引くぞ」

 結局のところ、徹矢も同性愛を否定するような口振りだった。


「じゃあ、まあ、断ってくるよ。今日は部活無いし」


「おう、江崎大河、帰宅部だしいるだろ。ガンバ」

 断ると言っても、僕には漠然とした考えすらも出てなかった。




 徹矢から江崎君の家を訊いて、そこを訪ねてみると、一見随分裕福そうな平屋だった。

 一体なぜこんな家に住んでいて、あれほど不潔になってしまうのだろうと思ったが、敷地に入っていってみると、無駄に広い庭はまともに手入れされておらず、剝げた塗装も修理された跡は無かった。


 インターホンを押すと、いきなり扉が開いて、口からアルコールの臭いを漂わせた、若干太り気味の男が出てきた。

「ああん? 誰だ、チビ」

「え、あの、江崎大河君にお話がありまして」

「んん? あのガキか? あいつは今いねえよ。多分、あと一時間くらいしたら帰ってくるから。なんだ? チビ、お前もさっきのやつと同じようなもんか?」

「さっきのやつって……?」

「俺の嫁になんか質問してた小僧だ」

 ガキ、チビ、小僧を器用に使い分けながら話すテクニックを他に生かせないのだろうかと、僕はアルコール臭たっぷりのゲップをする男を見て考えた。

「え、質問って?」


「最近変わったことねえか、って。で、しばらく花見てたけど、いきなり悲鳴上げて、一目散に逃げてったよ」

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