第4話 電車に轢かれた
もう外の爆音に動揺は起きないし、足の甲を撫でていく自身の指には、心拍の一拍すらも早まらなかった。お腹が空いた。そうだ、自分は晩御飯を作ろうとしていたのだ。ならいま眠っている現実の自分は、どうしているというのか。まさか三回目の最後のように、キッチンのフローリングへと倒れ伏しているわけでもないだろう。だがベッドに寝転んだ記憶が無いので、やはりキッチンで気絶するように眠りに落ちているのかもしれない。慢性的な疲れが自分をそうさせたのなら、そろそろ休まなければいけないのだと思う。どこか温かい場所。温暖で、波の音が聞こえて、風が吹いていて、自分の知り合いが一人もいない場所。有休が取れたらそういう場所に行こう。絶対に。
束の間、もはや習慣となった仮定有休取得遊びをしていた自分は、この夢の世界でご飯が作れないだろうかと次に考えた。無視し難い空腹感が、腹部を住処にして全身にその存在を膾炙し主張していた。たとえ夢でも、行動自体が感覚に作用して、欲求の暴走をなだめてくれるのなら、空虚な行動でも行いたい。それだけ空腹感は強かった。
だがこの夢の中で考慮しなければいけないのが、自身の指が切断されている事実を見てはいけないということ、つまり、料理をするとしても、左手が使用できないのだ。
右手だけでの調理は経験が無かったがやるしかなかった。ふと、父方の祖母が右腕の無い隻腕だったことを思い出した。昔、自転車を運転していた折に、踏切へと倒れ込んで、電車に轢かれたらしい。正月、父方の祖父母の家に集う習慣があったのだが、その際、腕相撲を祖母と競う流れになり、自分の利き腕である右腕を差し出してから、祖母に右腕が無いことを思い出しハッとすることなどがあった。
祖母は片腕ながら、家事全般を器用にこなしていのを覚えている。料理も皿洗いも洗濯も、全てを卒なくこなしていたから、自分は腕相撲の時に右腕を出してしまったのだ。祖母の動きは両腕のある人間と差異がなかった。
ウインナーを袋から取り出すことは難なく行えた。左手は背中に回していた。袋から取り出したウインナーをまな板の上に置いた。問題はここからで、ウインナーに包丁を落としたとき、ウインナーの滑らかな表皮が刃を受け付けず、刃を伝って流れる物理的な力がウインナーをまな板から遠くどこかに吹き飛ばしてしまう可能性が危惧された。切断は慎重に慎重が求められた。
とりあえず包丁は持ったが、やはり固定していない肉用まな板の上のウインナーは、酷く頼りなげに自分の目には映った。
なにか重量があるものをウインナーの端に置けばいいのではないかと気づいた。シンクに目を向けると、皿とコッブとフライパンが、文字通り死屍累々の呈を示していたので、実際の死体を無闇に触りたくないように、それも触りたくなかった。であるから包丁を置いて後ろを振り返り、棚から一つ適当な大きさと重さを持ち合わせている皿を取り出した。
皿をウインナーの端に掛けるその前に、ウインナーの角度が気になった。その違和感は、普通の人間ならば見落とすような些細なもので、自分の腹を平行としたとき、ウインナーが本当に少し右肩上がりという、それだけなのだが、自分にはそれが頭をもたげるという度合いを超えて、許せなかった。
皿を置いて、ウインナーに右手を伸ばした。弱い力で摘まむと、ウインナーは少し指から逃れた。次は、先ほどより強い力で摘まんだ、すると、ウインナーは大きく逃れた。
いくら摘まもうとしても摘ままれてくれないそれに自分はもどかしい怒りを感じて、包丁なんか使用しなくても、指で適当な大きさに千切ってしまえば良いじゃないかと、加工的な繊維を切るつもりで、精いっぱいの力を指先に込めた。
怒りに身を任せたのがいけなかった。怒りを込めた指先は見事ウインナーを切ることに成功したが、比率が大きいもう片方のウインナーが指の力に押されるように宙へ飛んだのだ。
ウインナーは左方に飛んだから、後ろに回していた左手を咄嗟に伸ばしてしまった。ウインナーが床に打ち付けられる音が聞こえた。
「しまったっ」
親指しか付いていない自身の手は、予想はしていたが、あまり見るに値するものではなかった。
自分がまだ指の切断面をしっかりと見ていないことに気が付いた。すでに眠気が襲う中、自分は左手の断面を覗き込んだ。それはウインナーの両端の結び目に似て、すでに傷が塞がれている状態だった。その様相は、祖母の腕の切断面を思いださせたのだった。
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