第2話 第三の腕

 少し経った。しかし未だに自分の手にはウインナーの切れ端が握られていない。目測に誤りは無いように思われ、適切に伸びている現在の腕を過充分に伸ばしても、不思議と届かなかった。

 あまり目的外へ現れる些事に気を揉むことを良しとしない自分は、空虚に手の平を踊らせることを中断し、傾けた体を起こして、激した呼吸を鎮めるようにと服を手で数回払った。

 簡易の明かりを求めた。一人暮らしをしていると不可避的に生まれてしまう空間的寂寥感を埋めんと、信頼から起こる即興コント風の流れから笑いを取るグループ実況者の動画を流していた携帯を右手で取り上げた。携帯を持つと、いまのいままで握っていた包丁よりうんとずっと重量があるように思われた。

 明かりの光量を最大にして、切れ端の転がった隅へと照射した。

 喉が渇いた。まず最初に知覚したのはそれだった。喉の渇き。次に感じたのは、末端の尋常ならざる震えだった。身体の細震。さらに外側から聞こえる自分の心音。速まる心音。

 右手を眼前に持ってくる。違う。ならばと、左手を顔の前にもってこようとしたが、肩から神経が切れてしまったのかと思うほど重々しく微かに揺らぎもしなかった。

 隅。そこには指があった。一本の指。凡そ第一関節から切断されたと見える指が埃に塗れていたのだ。

 右手の指が五本あることは確認したので、考えられる切断元は左手しかない。自分には腕は二本しか付いていないのだから。だが、果たしてウインナーごときを切る目的で加えられた圧力が人間の骨を断ち切るに足りるだろうか。いや、断ち切ってなどおらず、奇跡的な振り筋で関節を外すようにして、実質ひふのみということになれば容易に切れてしまうものなのかもしれない。

 それにあと一点、道理に合わない部分がある。血液の一滴もが見当たらないのだ。指も当然、自分の身体を構成する要素の一つで、であるから血液が流れているはずで、であるから切断などしてしまえば体外へと解放せられた血管から血が流れ出るのが自然であるのに、一雫もない。

 加えて、痛みが無かった。肉用のまな板を見た。そこには袋に取り出した時分となんら変わらない、加工的な光沢を漲らせた肉塊が横たわっていた。

 気が動転した人間は何をしでかすかわからないもので、自分は悪あがき的に、産まれ母に抱かれた遥かなる過去から現地点まで離れず、時には憎み時には愛おしくも思ったこの体のどこかに、自身も認識していなかった第三の腕を探した。

 当然さがしてもそんな都合の良いものが付いていることはなく、そもそも第三の腕の指であったとしても、切り落としたのなら焦るべき事態なのには変わりなかった。幻肢を探す虚しい努力をしているうち、有る左手の印象が強まっていくのだった。

 身体の端のさらに端まで意識を研ぎ澄ました。それ以外を調べたあと、イチゴの乗ったショートケーキの、イチゴを食べるのとはちょうど反対の意思で残しておいた左手の指を小指から順に折り数えた。

 一、二、三、一つ飛ばして、五、そして、四。一番可能性が高いと睨んでいた人差し指までもが、確かに折れ動く感覚があった。安堵感が胸に満ちた。しかし、人差し指部分に得心ならない空虚感があることにも気づいてしまったのだった。なんにせよ、残された確認方法は目視だけとなった。それが最も確実で誤謬の生じる余地が無い。それは現実を無残に確定することを意味していた。自分は震える気道で深呼吸をした。覚悟の始末はつかないが、引き返す道は見当たらない。

 「男だろ、いけよっ」

 鼓舞する文句を吐き、つづいて雄叫びを上げた。けれど雄叫びはおかしく掠れて、苦手に邂逅した少女の悲鳴のようになってしまった。自分は左手を一思いに眼前へと曝したのだった。

 小さい頃から、大概の悪い予感は運よく外れてきた。腹痛を覚えると、大きな病気に罹ったのではないかと疑って夜も眠れなくなり、家族との連絡がつかないと、どこかで事件や事故に巻き込まれたのではないだろうかと、気が気ではなくなって惑乱に近い状態に陥るなどしてきた。だが、胃が壊れたのもただの一時的な不調であったり、家族との連絡が取れないのも、携帯の充電が切れてしまっただけであったりして、実際、これらの悩みは自身の何でも最悪に結びつけてしまう悪癖が原因なのではあるが、悪い予感が全て外れる事実は存在していたので、内心、自分のことを幸運な人間だと考えていた。

 少女の悲鳴のような雄叫びは、そのまま男の悲鳴へと滑らかに移行した。

 指が無かったのだ。思った通り、もしくはそれを上回る現実感を伴って、人差し指第一関節から向こうが、喪失していたのだった。

 昂った心臓の鼓動は今もって口から飛び出さんとし、さらに鳴りを強めた。

 「救急車、早く救急車を呼ばないと」

 次に選択するべき行動をわざと口にすることにより、自分は外側から、つまりは命令的に自身を支配しようと試みた。強権的に作用する発言でもなければ、冷静はもとより常態を保っていられなかったのだ。

 携帯を手に取る。九を押す。突然、強烈な睡魔が自分を襲った。一を押す。桎梏を負わされた罪人の如くに動きは遅々。意識も、夜に染まった自然、潜む人外の類に知覚されないほど弱弱しい粗悪な蝋燭の炎然として頼りなかった。最後に、一。電話のコール音を聞きながら自分はキッチンの床へと倒れ伏した。電話が繋がり人間の声が聞こえてきた。しかしそれも上手く聞き取ることが出来ない。自分は意識が切れかかるその時、最後に謝りたいと思った。誰に謝りたいのかは自分でも分からなかったが、とにかく謝りたいと思った。自分は、暗闇の引力に抗うことを諦めたのだった。

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