第二の渋染一揆
増田朋美
第二の渋染一揆
その日は、今まで暑かったのが急に寒くなってしまったような天気であった。今までが暑かったので、こんな寒い日が来るなんて、思いもしなかったと、道行く人は言っていた。
その日も、梅木武治さんこと、レッシーさんが、水穂さんに鍼を打つために来訪していたのであるが。
「相変わらず、水穂さんつらそうなので、心配ではあるのですが。」
鍼を片付けながら、レッシーさんは言った。
「まあいつまで経っても変わらないものは変わらないわな。」
と、杉ちゃんがいうと、
「でも、なんとかしてあげたほうが良いと思うんですがね。一度だけでも、病院へ行って、診てもらえば、楽になってくれるのではないでしょうか?」
レッシーさんはそう杉ちゃんに言った。
「だけど、無理なものは無理。同和問題はそういうもんだよ。それはもう仕方ないところだから、諦めてくれ。」
「そうですか、と言いたいところですが、僕はそうは思いませんよ。誰でも医療を受ける権利はあるわけですから、病院でみてもらうことだって、できないことではないと思います。」
「お前さんも東大生らしいなあ。東大行っちゃうと、何でもできるようなところがあると思うけど、決してそうではないことを覚えておけ。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
「大体な。東大出たやつは、世間を知らない。日頃から、高尚な身分の人のための教育しか受けたことがないから、誰でも権利があるとか、そういうふうに考えることができるんだろう。平等だとか、障害のある人には考慮してとかね。そんなこと、実現どころか、誰かが言いたくても、言えなくて、黙っているしかできやしない。だから、諦めるしかないってことも覚えておきましょうや。」
「でも、人の命の話ですよ。」
杉ちゃんがそう言うとレッシーさんは言った。
「それまで諦めろと言うのですか?」
「まあそういうことだ。医療関係者なんて碌な人がいない。病院にいけば、なんで銘仙のきもの着てるやつを連れてきたとか、必ず悪口を言われる。」
「でも、そう言われたとしても、なんとかして要求を押し通すこともできるんじゃありませんか。実際にそういう身分の人が起こした、という事件もあったんですから。」
杉ちゃんがそう言うと、レッシーさんは、杉ちゃんに言った。
「うーんそうだねえ、それは確かにあったかもしれないが、無理なものは無理なんだよ。渋染一揆でも、犠牲者は何人も出たでしょう。そうなっちまったら、一貫の終わりだから、病院へ連れて行くなんて、そんなことはさせられない。」
「そうですか、、、。」
レッシーさんは残念そうに言った。
「だから、病院へ連れて行くことは諦めたほうがいい。新平民と言って、水穂さんのことを馬鹿にする医療従事者は本当に何人もいる。それにお前さんだって歩けないじゃないかよ。だから、無理なものは無理として、諦めるんですねえ。」
「そうですか。確かに同和問題は難しいものがありますね。それはどうにもならないと言うのは、わかるんですけど、なにか変えるように働きかけることも大事だと思います。とりあえず、僕は帰りますが、次回もまた、鍼をうちに来ますからね。」
杉ちゃんの反論にレッシーさんは、ちょっと強く言って、製鉄所の玄関から、車椅子で出ようとした。その時、たたたたっと女性が走ってくる音がした。
「梅木さん。」
やってきたのは、今西由紀子である。
「レッシーでいいですよ。」
レッシーさんはそういったのであるが、
「あの、本当に、水穂さんを病院で見てもらおうと思ってくれたのですね。」
由紀子はレッシーさんに言った。
「ええ、それがどうかしましたか?」
レッシーさんが聞くと、
「あたしが水穂さんを一緒につれていきますから、一緒に来てくれませんか。梅木さんを利用してしまうような考え方で申し訳ないんですが、二人でいけば、なんとかしてくれるのではないかなと思うんですね。」
由紀子がそう言うと、レッシーさんの表情も変わった。
「でも大丈夫でしょうか。僕は歩けないし、車の運転もできませんので、一般の車に乗っていくことはまず無理です。バスも乗せてくれるかどうかわからないし。電車で、病院へ行けばいいかもしれませんが、、、。やっぱり無理なのかな。」
「いえ大丈夫です。あたしがなんとかします。」
由紀子は急いでスマートフォンを出して、富士市中央病院まで行くルートを調べ始めた。まず初めに、水穂さんは全く動けないので、ストレッチャーに乗せていく必要がある。そしてレッシーさんも歩けないので、タクシーはワンボックスカーを借りなければならない。
「福祉用のレンタカーを借りましょう。そうすれば乗せてあげられるわ。」
由紀子は、すぐにレンタカー会社に電話してみたが、いつまで経っても繋がらないので、諦めるしかなかった。代わりに、障害者対応の介護タクシーを頼むことにした。幸い、オンラインで見積が取れる会社を見つけたので、それの指示に従って、レッシーさんの分と一緒に見積もりを計算してみることにした。それによると、基本介助料5000円、乗り降り介助料が5000円、更には段差や階段の上り下りの介助料が、1階ごとに5000円かかってしまい、行く工程だけで、全部で5万近くかかってしまった。これではお金がかかりすぎて、とても富士中央病院に行くことはできなかった。
「仕方ありませんね。この近くの個人病院で、呼吸器内科のあるところというとどこでしょうか。僕は天間に住んでいますが、そういう病院は一軒もないんですよ。」
レッシーさんは、由紀子が出してくれたタブレットを眺めながら言った。
「それにしても、介護タクシーと言うものは、こんなにお金がかかるものだとは、これはなんという不条理なんでしょうね。僕らも金持ちではないし、ストレッチャーに乗るような人から、5万円も取り上げるような事業では、非常に困ります。」
「そうね。なんのための福祉サービスなのか、これではよくわからないわ。それで、介護タクシーが、道路を走ってないわけですね。仕方ないわ。近くの個人病院で、みてもらうしかないわね。大渕で、櫻坂クリニックというところがあるから、そこで診てもらいましょう。そこならここから3キロしか離れていないから、そんなにお金はいらないと思います。」
由紀子はタブレットの画面にある、地図を眺めながら言った。それによると、富士市の中野というところにあるらしい。
「そうですか。それならそこで行ってみましょうか。入口に段差などなければいいのですが。」
レッシーさんは車椅子利用者によくあることを言った。
「多分段差介助とか、そういうことで、また5000円かかってしまうと思うんですよね。そうなると、こちらのせいでお金を取られてしまうことになりますよね。」
「とにかくいきましょう。あたし、電話かけてみるわ。お金がかかったって、水穂さんを診てもらわなければ、どうにもならないことも確かなのよ。」
由紀子はそう言って、櫻坂クリニックのウェブサイトを開いた。幸い、初診であってもネット予約ができたので、明日の朝一番の時間で予約した。続いて、介護タクシー会社に電話して、明日大渕から、介護タクシーを一台よこしてくれとお願いした。予約を取るのは、今の世の中、本当に簡単なのである。ところが、介護タクシー会社に電話したが、櫻坂クリニック付近は道が狭いため、特定大型車である、ハイエースでは行けないと言われてしまった。普通の乗用車とか、軽自動車であれば行けるのであるが、ハイエースやアルファードといった大型の車では、道が狭くて行けないということであった。それでは、もう行く手段がないとレッシーさんはがっかりしたが、
「それなら、いっそのこと歩いてしまいましょう。水穂さんは私が背負って歩きますから。」
由紀子は思わず苛立ってそう言ってしまった。レッシーさんが大丈夫ですかというと、
「大丈夫です。3キロくらいだったら、あたしだって歩けます。」
と、由紀子は言い張ったのであった。
「梅木さんは、私といっしょに車椅子で来てください。」
「わかりました。僕のことはレッシーでいいですよ。じゃあ明日、一緒に、水穂産を連れていきましょう。ただ、大事な問題が。」
レッシーさんは少し考えて、
「一番問題なのは、水穂さんの着物です。銘仙の着物でしたら、同和関係者とすぐバレてしまいます。」
と言った。
「そうね。でも他に着物はないし。」
由紀子が答えると、
「そういうことなら僕の着物でいきましょう。ちょうど僕も紬の着物を持っていますから、それに着替えさせて、それで行かせればいい。」
さすがは、レッシーさん。紬を持っているとは。
「なんだか一生懸命作戦を考えているようですがね。櫻坂クリニックへ行ったって、絶対無謀だぞ。見てくれって言ったって、断られるのが落ちだよ。それに車椅子に乗っていると言っても、お前さんと水穂さんでは、身長が、4寸くらい違うじゃないか。」
二人が一生懸命話していると、杉ちゃんが二人の間にやってきて、口を挟んだ。
「男の着物は対丈で着るものだ。おはしょりして着るもんじゃない。だから水穂さんが着るとしたら、身丈が長すぎる。」
「そうかも知れませんが、水穂さんにもできるだけバレないように、着物は違うものにしたほうがいいと思います。それに、なにか人に言われたら、僕が必要があるから貸したと言ってごまかします。」
レッシーさんはきっぱりと言った。
「じゃあ衣紋はどうするんだ?きっと女郎のお姉さんのような、抜き方になっちまうよ。それに不自然な着方をしていたら、もっと身分がバレちまうと思うけど。」
「そうですね。」
レッシーさんは、ちょっと考え込んだ。
「そんなことどうでもいいわ。明日、梅木さんの着物を着せて、水穂さんを病院へ連れていきます。こんなところに寝かせているだけより、病院のほうがいいのは、とても良くわかっていますからね!」
由紀子はすぐ言った。その顔は、もう決断しているような感じの顔であった。
「まあ由紀子さんの言う通りなんとかなればいいが、無理なものは無理なんだと思うけどね。」
杉ちゃんは呆れた顔をしてそう言うが、
「それでは明日、あたし、梅木さんといっしょに、病院へ行ってくる!水穂さんが嫌がっても連れて行く!」
由紀子は選挙演説する人みたいに言った。
その次の日、由紀子は製鉄所へ行った。製鉄所という名前でも、鉄を作るところではなく、居場所のない女性たちに、勉強や仕事などをするための部屋を貸し出している福祉施設であり、水穂さんはそこで間借りをしているのである。由紀子が来るまで到着すると、数分して、レッシーさんこと、梅木武治さんがやってきて、車椅子のポケットから、着物を一つ出した。ずいぶん、美しい藍色の紬の着物で、男性用の普段着としては、もったいない感じのする着物であったけれど、そんな事を吟味している暇はなかった。
由紀子は、それを持って、四畳半へ行った。水穂さんは相変わらず横になったまま咳き込んでいたのであるが、
「水穂さん、体が心配だから、病院へ行こう。ほら、これを着て。これであれば、身分がバレることがないから大丈夫。」
と、由紀子は、水穂さんを布団の上に無理やり起こして、着物を彼に差し出した。
「だ、だって、これ、有名な郡上紬じゃないですか。こんなものを僕が着ることはできませんよ。」
水穂さんはそう言うが、
「そんなこと言ってる場合じゃないのよ。病院へ行くのに、銘仙のきもの着て行ったら、門前払いになることは、水穂さんが一番わかっているでしょう?だからその対策よ。早く着て頂戴。」
と由紀子は急かした。とりあえず水穂さんは、咳き込みながら、着物を着替えてくれたのであるが、やはり杉ちゃんが言った通り、衣紋は女郎さんのように大きく抜いてしまってあるし、水穂さんの身長は、五尺三寸しかないので、着物の身丈も、5寸以上長かった。由紀子はそれで歩くのは大変だからと言って、水穂さんを背中に背負った。何をするんですかと水穂さんはいうが、咳き込んでしまって、それ以上言えなかった。
「それでは行きましょうか。由紀子さん、3キロも歩くのは大変かもしれないけど、頑張って歩いてください。僕も車椅子で追いかけます。」
と、レッシーさんが言ったので、水穂さんを背中に背負った由紀子は、外へ出て通りを歩き始めた。水穂さんは由紀子の背中の上で何度も咳き込んで止まることを繰り返した。
とても長い間歩いたように見えるが3キロの道のりを歩いて、櫻坂クリニックと書かれた看板のある、一般の家と変わらないような建物の前で止まった。
「ここですか。本当にこれ、病院って感じしないんですね。なにか病院というより、カフェみたいな感じの建物ですね。」
とレッシーさんは汗を拭きながら言った。とりあえず入口へ入ってみて、中へ入らせてもらうことにした。
「あの、すみません。昨日予約をとりました、磯野水穂さんです。車椅子の人間が付き添っているなんて、変かもしれないですけど、見ていただきたくて、こさせてもらいました。」
レッシーさんがそう言うと、受付係はちょっとまってくださいと言って、病院の中に入った。そして、数分のまがあって、三人は中にはいってもいいと言われた。水穂さんを待合室の椅子の上に座らせてやると、レッシーさんが、急いで受診の手続きをした。とりあえず予約をしてあったので、診察室には入らせてもらえた。
医者は、水穂さんの様子を見て、とりあえず聴診してくれたのであるが、すぐに辞めてしまった。水穂さんが、えらく咳き込んで、それと同時に口元から血が出るので、医者は呆れたと言うかもうどうしようもないという顔をした。
「いやあひどいですね。これほど重症な患者さんをはじめてみました。多分きっと明治か大正くらいの時代設定じゃないと、出てこないんじゃないですかね。それでどうする?薬でも持ってきます?」
医者はばかにするように言った。
「まあ薬出してもね。なにかしようとしても何もならないと思いますよ。これほどひどい人は、見たことありませんもの。まあ発展途上国とかそういうところに行けば別ですけど、日本でここまで重症化するとはねえ。鎮血の薬でも出しておきましょうか。」
「ちょっとまってください!」
と、レッシーさんが言った。
「僕たちはバカにされるためにここに来たわけではありません。きちんと診察して、きちんと処置して上げてください。そのために来たんですよ。」
「そんなこと言うんだったら、尋ねるのはこっちですよ。なんであなた方は、あの男性をこんなにひどくなるまで放置したんですか?このような痩せ方をしているのであれば、ろくに食事も取ってない。もしかしたら、なにか企みでもあったんですか?理由を聞かせてください。」
医者も医者でつんのめるように言った。
「だからそれは、、、。」
由紀子も、レッシーさんも、水穂さんが伝法の坂本というところから来ていて医療を受けられなかったことは、とても言えなかった。
「それに、この人、着物を着ている割には、大きさがあってないですよね。ということはですよ。合う着物は別にあるということですね。それはもしかしたら?」
医者は馬鹿にするように引き続きいうと、
「それでも大事な僕らの仲間であることに変わりありません。確かに、可哀想な思いをされたのかもしれないけれど、でも大事な仲間です。だから僕たちはここへ来たのです。そういうわけですから、ちゃんと、診察して、しっかり処置してくれますか?お願いします!」
レッシーさんが医者に向かって頭を下げた。由紀子も同じように、
「お願いします!」
と言って頭を下げる。
「それに彼女は、水穂さんの事を心から愛している人です。一人だけでも、愛してくれる人がいるってことは、すごいことじゃないですか。それができるって、どんなに容姿が良くても頭が良くても、簡単にできることじゃないですよ。だから人間として優れていることもわかるじゃないですか。そう言うわけで僕らは、なんとかして上げたくて、ここへ連れてきたんじゃありませんか。水穂さんを治療してあげてください。お願いします。」
レッシーさんは、もう一度そういったのであった。
「しかしねえ。うちの病院としても、そういう事情がある人を、連れてこられては困りますけどね。」
医者は嫌そうな顔をする。
「そうかも、そうかもしれないんですけど、でも大事な仲間ですし。仲間を見捨てるような法律はございません。水穂さんはずっと必要な人です。だから、助けてあげてくれませんか。」
レッシーさんがいうと、
「あたしからもお願いします!」
由紀子は手をついて頭を下げた。
「そうなんだねえ、仲間がいるのだったら、もっと早く、病状が軽いときに病院へ連れてくるとかしてくれればいいのに。なんでこんなに重症化するまで放っておいたのかな?こんなにわかりやすい病気もそうはないと思うけど。映画とか文献なんかにもよく出てくるでしょ?それなのに、放置していたってことは、貴方がたもどうせ、彼のことをただの身分の低い人、しか思ってないんじゃないの?」
「そう思われても仕方ないですよね。だけど、僕たちは、決してそんなことしているわけではありません。ただ、僕らが気がつくのが遅かっただけです。ごめんなさい。」
レッシーさんがそう言うと、診察台に寝たままの水穂さんが、また激しく咳き込んでしまった。そしてその口元から、朱肉のような赤い液体が吹き出した。レッシーさんがもう一度お願いしますといったところ、医者はやっと、看護師に止血剤と抗菌剤を点滴するように言った。水穂さんは隣の処置室へ連れて行かれ、ベッドに寝かしてもらって、点滴を打ってもらった。これによって、やっと楽になってくれたようで、ウトウト眠りだした水穂さんをみて、由紀子は全身の力が抜けた。
水穂さんが目を覚ますと、由紀子は水穂さんをまた背負った。看護師が、送って差し上げましょうかといったが、由紀子もレッシーさんもそれは断った。レッシーさんが診察料を払って、二人は櫻坂クリニックをあとにした。薬も何も出してもらえなかったが、とりあえず、発作を鎮めてくれただけでも良かったと、二人は言った。
「それにしても良かったね。病院で追い出されて帰ってくるかなと思ってたんで、まさか点滴してもらえたとは思わなかったよ。やっぱり東大生は、やることが違うな。」
製鉄所に戻ると、杉ちゃんはそういった。
「そんなことありません。ただ当たり前のことをしただけです。」
レッシーさんがいうと、
「まあね。でも当たり前のことができない人間もいるんだよな。今回のことは第二の渋染一揆みたいなもんだよ。ははははは。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
第二の渋染一揆 増田朋美 @masubuchi4996
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